十の巻「秋冷」1



この巻の主な登場人物


本作品「秋冷」から当サイトに初めてお越しの方は、シリーズ全体の背景がわかる
時代設定・登場人物を合わせてお読みいただければと思います。

by 戸田采女


 明和三年、旧暦十月某日午後。
高山藩勘定吟味役・櫻田右近は、定例報告のため、上席家老・溝口主膳の屋敷を訪なった。

 溝口家の庭は、様々の樹木が四季折々の顔を見せてくれる。
ちょうどこの時期は馥郁たる金木犀の薫りが漂い、しだれ紅葉の紅や黄色が鮮やかだ。
 長屋門を潜り玄関で訪いを告げると、用人の生島太郎座右衛門が出迎えた。

 「櫻田様、お役目、御苦労様にござります。先ほどから御家老が奥の書院でお待ちです」
右近は丁寧に頭を下げた。
「ささ、お庭づたいにどうぞ。案内いたします」
初老の生島は温和な笑みを浮かべ、右近の先にたって延石の小道をゆく。

 ひゅん、と突然聞こえてきた音に、右近が歩を止めて耳をそばだてた。

「誰ぞ弓の稽古でもしておられるのか?」
「はい、本日は若様とともに三郎ぎみがお見えです」
「ほう…三郎ぎみが」

 右近は『またか』という呟きを腹の中に納めた。




 若様とは上席家老・溝口主膳の嫡男、誠之進である。
五年前から藩主・因幡守信輝三男、三郎信尭の守役を勤めている。
誠之進は藩校時代からの盟友であり、右近の秘かな想い人だった。

 八月の始め、三郎の母方の祖父、加賀屋久右衛門がこの世を去った。
肝の臓の病で、享年六十九歳であった。
春の彼岸に誠之進と三郎が関川宿の加賀屋を訪ねた時、久右衛門はすでに病重く、今年の夏は越せないだろうと言われていた。

 お城に引き取られるまでの九年間、三郎は亡き母・おひろと祖父・久右衛門に育てられた。母亡きあと、祖父はもっとも近しい肉親だった。彼岸の時、祖父に会った時点で、先が長くないことは分っていただろうが、いざその時が来た衝撃は大きかったに違いない。

 誠之進は以来、三郎を溝口家の屋敷に招くようになった。父・信輝公も江戸在府で国許にいない今、三郎の寂しさを少しでも癒せればと考えたのだろう。誠之進の母・咲や妹の志保は、これまで以上に三郎を可愛がり、先を争って着物や稽古着を縫ってやっている。
 
 三郎は右近の目から見ても凛々しい少年武士に成長し、『旅籠の倅』などという陰口も最近では滅多にきかれなくなった。良い意味で、町家育ちの人なつこい性格は残り、武家の女子にはそれが「可愛く」思えるのか、と右近は乾いた笑いを洩らした。

   決して頼りないわけではないが、周囲があれこれと世話をやきたがる、人の善意を集める「徳」が、三郎には生まれつき備わっているように思えた。

 (そして勿論、誠之進の善意と愛情も─)

 胃の腑の底に居を定めてしまった、恥ずべき黒い感情。
『悋気』いう名の石が、またもや不快な重みを増していた。




「御家老とのお話がすみましたら、お二人にも会うてゆかれますか?」
破顔する生島に、右近は薄絹をまとったような笑みで応えた。

 庭づたいに屋敷の中へと進んでいくと、樹木に的をつり下げて、弓の稽古に励む三郎の姿が目に入った。

 弓構えの位置から、三郎が静かに両拳を打起こし、引き分けに入った。
まだ年若く身体ができていないせいもあるが、上体や手首だけを用いて弓を引こうとしている。
本人も安定感のない姿勢に不満の様子である。
眉をしかめると、弓を一度降ろしてしまった。

 「まず、足踏みを見直さねばなりませぬ…」
それまで、少し離れてじっと様子を見ていた誠之進が、背後から近寄った。

 「足踏みが少し広すぎるのではありませぬか。この構えでは、上体が不安定になって矢飛びも高くなります」
三郎は自分の足下を見つめ、
「ふむ…。だから矢がひょろひょろと高く上がって、ちっとも的に当らぬのだな」
言いながら、的を見ながら改めて足を踏み開いた。
「これぐらいでどうじゃ」
「よろしいでしょう。もう一度構えてごらんなされ」
「うん」

 三郎は素直に再び弓を構え、物見を定める。
そのままゆっくりと両拳を額の上くらいにまで打起こした。
姿勢自体は安定したものの、まだ胸や肩に力が入ってぎこちない。
誠之進が後ろから三郎の肩に両手を置いた。
「ほれ、石のように固くなっておりますぞ」
「うっ」
誠之進は三郎の脇の下から手を回して、胸のあたりもぽんぽんと叩いた。
「ここも楽にして…息を詰めてはなりませぬ」
三郎の頬がかすかに染まった。
「気息は足心、腰、丹田におさめるのです」
「う、うん」
三郎は頬を上気させたまま大きくうなずくと、深呼吸をして腹に力を込めた。

 「そう、そのまま、左手は弓全体の伸びる力にて押す」
「こ、こうか?」
「左様…」
誠之進は大きくうなずくと、
「一方、右手は手首ではなく肘で弦を引くのです」
「それがよくわからぬのだ…」
誠之進が背後から三郎の右肘に手を添えて軽くひっぱった。
「…いかがです?」
「…ああ、後ろから誰かが引っ張っていると思えばよいのか?」
「いかにも。さすれば楽に胸郭が開きまする」
「なるほど…」
「よろしいですか、そのまま心身を合一して…機が熟するのを待ちます…」
背後から重なるように立ち、三郎の右肘に手を添えたまま、誠之進が指示を出す。
「上下左右に十分伸び合い…気力が丹田に八九分つまった時…」
三郎の状態を見はからって、誠之進は静かに身を離した。
 
 三郎が気合を発動し、矢を発した。
力強く放たれた矢は、勢いよく的に命中した。

 「あ、あたったぞ! 誠之進!」

 「三郎ぎみ、まだ終ってはおりませぬぞ」
嬉々として振り返った三郎を、誠之進がぴしゃりと嗜めた。

 三郎は誠之進の言わんとするところを悟り、頬を赤らめた。

 『離れ』(発射)によって射は完成されたのではない。
矢が離れたあとの姿勢、『残心』をおろそかにしてはならないのだ。

『残心』は射の総決算である。
『残心』の善し悪しによって射全体の評価も決まり、射手の品位格調も反映する。
的に当たったと喜んで残心をおざなりにしたのでは、全てがぶち壊しなのであった。

 弓を倒したままうなだれる三郎に、誠之進が柔らかく微笑みかけた。
「さあ、もう一度はじめから…」
「わかった…」
三郎は気を取り直して弓を構えようとした。


 「あ…」
三郎が庭を歩いてきた右近と生島に気付いたようだ。
黒目がちの瞳が右近をひたと見つめている…。
気付いた誠之進が破顔した。

 「おお、右近、来ていたのか? 父上に報告か?」
「ああ…」
「御用が済んだら道場に顔を出せ。待っているからな」
「うむ…」
右近は曖昧にうなずくと、三郎にも軽く会釈をして奥の書院へ向かった。


 自分は…どんな顔で二人を見つめていたのだろう?
能面のごとき無表情か、それとも蒼白な頬の上、眼だけが爛々と燃えていたのだろうか?

 右近はその瞬間、醜い本音を隠しおおせた自信がなかった─。


つづく


壁紙は『薫風館』さんからお借りしています。

 
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