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四月のはじめ、藩主信輝公から正式の辞令がおり、右近の帰国が決まった。
信輝公は惣一郎の願いよりも藩の利益を優先した。
信輝公は二人が枕を交わしている事は知らない。生木を裂かれるような惣一郎の心情を、信輝公はおそらく理解していなかっただろう。理解していたとしても、結果は同じだったかもしれないが…。
藩邸で着々と藩主帰国の仕度が進む中、右近も中屋敷と上屋敷を行き来する日々が続く。
役目の詳細は藩の機密で、右近自身にも詳しく明かされぬままだったが、おそらくは勘定方の監査を申し付けられるのでは、と右近は推察していた。
単なる重臣の不正・不行跡ならば藩目付の管轄となるが、おそらくは何かそれ以上の、藩庫の金の流れを調べる必要が出てきているのかもしれない。
自分の人事を巡って、信輝公と惣一郎の間に深い溝ができてしまった。
せっかく一度は触れあった藩主親子の心が、再び離れていってしまうのが、右近にはやりきれなかった。
出立の日は六月十日と決まった。
***
皐月の末。
ここ数日、江戸では梅雨らしい雨が毎日降り続いていた。
右近の居室から見える紫陽花の花も、露をしっとり含んで重たげに首を垂れていた。
今日は朝から仙之丞につきっきりで、仕事の引き継ぎをしている。
右近の去った後、仙之丞が小姓頭に昇格し、新しい用人が決まるまで屋敷内のことを取り仕切るのだ。
昼近くなり、一服しようということで、二人は雨に濡れる庭先を眺めながら茶を喫していた。
十八歳になった仙之丞は、今年に入ってから急に背が伸びた。頬のあたりの丸みもとれて、大人びた顔つきになってきた。まだ子供子供していた去年の花見の頃とは別人のようである。
加えて、来月から右近の代わりを務めるとあって、責任の重さに身のひきしまる思いなのだろう。
しばらくの間、二人は屋敷内の出来事について、とりとめのない話をしていたが、
「ところで、右近様…御存知でしたか?」
仙之丞が真顔になって切り出した。
「何を?」
「若殿に…ご縁談が」
「ほう…それは」
何と言うタイミングだろう。
惣一郎の母・お牧の方は、息子と右近の関係に薄々気付いていたようだった。さすが女は鼻が効く。吉原通いが収まったと思えば、今度は美貌の側近を寵愛し、三日にあげず伽をさせていると聞けば、母親としては気が気でないだろう。
親心といえば理解はできるが、右近が帰国するのを見計らって縁談を持ち出すとは、あざといというか何というか。大方、お方さま付きの「お年寄」、藤江あたりのさしがねだろう。
もっとも、お牧の方としては、惣一郎に無事世継ぎを残してもらわねば、いまいましいおひろの息子、三郎に将来家督がいってしまうやもしれぬ。藩邸のものは、極力三郎の話をお方様の耳に入れまいとしているが、噂はどこからか洩れ聞こえ、国許ですくすくと成長する三郎のことは、右近以上に把握しておられるようだった。
惣一郎も今年で二十七。
当時としては相当な晩婚である。
当然今までにも縁談はいくつかあったが、惣一郎があれやこれやと理由をつけて断っていたらしい。
「今度は決まりそうだと洩れ聞きました」
「…それは祝着至極。惣一郎様のお眼鏡にかなう姫が、とうとう現れたのだな」
「常陸府中藩松平家の姫だそうです。大人しい、気立てのよい方のようです」
「そこが惣一郎様のお気に召したのだな…」
右近は微笑を浮かべて頷いた。
一抹の寂しさはあったが、嫉妬という感情はなかった。
(寂しいなどと、私に思う資格はないのだ…。私は…惣一郎様を見捨てていくのだから…)
*
君命である。
決まったこととは言え、惣一郎を前にすると右近は身を切られるような罪悪感に苛まれた。
惣一郎は右近の本音を見抜いている…。
一時は本気で、惣一郎の側で、江戸で一生を送ろうと思った。
しかし、自分は…。
『誠之進』という餌を、目の前にちらつかせられれば、尻尾を振って国許へ帰ってしまうような…。とんでもない不忠者だ。
一月末に帰国の話が出た後、惣一郎はほとんど毎晩のように右近に伽を命じた。
『正直に申してみよ…そなた、誠之進に抱かれたいのであろう?』
『身供がここまで仕込んでやった躯で、一度、誘ってみたらどうか…?』
『…男など抱けぬと言っていてもわからぬぞ…。そなたは特別じゃ。…この膚に触れて勃たねば男ではないわ』
手酷く責めながら、耳を被いたくなるような言葉を、次から次へと右近に浴びせた。
だが、右近にはわかっていた。
血を流しているのは惣一郎のほうだった。
発した言葉の嫌らしさ、下劣さに心底傷付けられていたのは、惣一郎のほうだった。
右近はただ、黙って受け止めた。
君命を言い訳にし、何と取り繕ってみようと、自分が惣一郎を見捨てていくことに変わりはない。
愛しいものに去られる惣一郎の心を思う。
何をされても受け止める以外、右近には為す術がなかった。
*
「それが…どうやら違うのです」
仙之丞の声に右近ははっと我に帰った。
面を上げて仙之丞を見れば、続きがあるのに言い出せないという表情だ。
「で、何が違うのだ?」
右近が水を向けると、
「若殿は、こうおっしゃったそうです」
『そこそこの『御化粧料』がつけば、醜女でも一向にかまわぬ。あれこれ口出しせず、嫉妬深くないのが一番よい』
「まことか…それは?」
「はい…。ついでに、『己の容姿と家柄を鼻にかける女だけは勘弁してほしい』と」
右近は絶句した。
お牧の方への強烈な反発である。
お牧の方だけでなく、惣一郎の幸せを打ち壊す全てのものに対し、行き場のない怒りをぶつけているのだろう。要は文句を言わぬ女であれば、誰が妻になろうと、どうでもよいということか。若殿として、藩邸で何千という藩士や使用人にかしずかれながら、真に心を通わせるものは誰ひとりいない。この先の長い年月、うすら寒いような孤独を噛みしめながら、惣一郎はひとりで生きていくのだろうか…。
沈思に落ちた右近を、仙之丞が潤んだ瞳で見つめていた。
「若殿は…右近様を…」
「言うな…仙之丞」
ぴしゃりと遮る右近に、
「ずっと…右近様だけを想うておられます!」
仙之丞が言い募った。
「斯様なことは、御事に言われずとも存じておる!」
右近が立ち上がらんばかりに、声を荒げて叫んだ。
「……帰国は殿の命であるぞ。いた仕方ないのだ」
(うそつきめ! おまえが国許に帰りたい真の理由は…)
「右近様、なれど!」
「そもそも、私のような家格の軽輩が、なぜ江戸へ留学できたと思う? いずれは藩のお役に立てという殿や御家老の期待があってこそ…」
「……」
押し黙る仙之丞に、右近は静かな声音で語りかけた。
「受けた恩義には報いねばならぬ…。此度、御家老が是非とも私が必要だと仰るのであれば、否も応もない」
(…偉そうなことが言えたものだな。惣一郎様の誠を踏みにじる…不忠者の極みのくせをして…)
右近は仙之丞がこれで納得すると思った。
仙之丞は黙して答えなかった。
つづく
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