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明和ニ年、正月。
初日の出を拝みに出かける人々を他所目に、まだ明け切らぬひっそりした町並みを江戸城へ向かう行列があった。
御一門方(徳川家)、御譜代御大名衆御礼登城の列である。
御礼とは一般に言う年賀のための挨拶の礼であった。
譜代大名である結城因幡守信輝も『従四位下 式部大輔』の官位に従った装束をつけ、供の行列を従えて、元日の卯の半時(午前七時頃)、御礼登城した。
因幡守嫡男の惣一郎は元日、二日と年始の挨拶に上屋敷を訪なった。
母、お牧の方様はそれはお喜びで、『行事でもなければ、そなたは滅多に顔を見せぬ』と愚痴をこぼしながらも、年々頼もしくなる息子の姿を目を細めて眺めていた。
大名嫡子の登城は三日と定められており、惣一郎も熨斗目に長袴の正装で、用人の右近を伴って江戸城へ登城した。仙之丞ら小姓や大勢の供回りも同行したが、城内に入れるのは当主と側近だけ。小雪がちらつく中、かじかむ手指をこすりながら、仙之丞たちは御門の外で、主の帰りをひたすら待つのだった。
馬子にも衣装というが、惣一郎はもともと上背のある美男子ゆえ、熨斗目に長袴姿の正装がたいそう似合っていた。
去年まで、惣一郎は留守居役の堀田又左衛門とともに登城していた。
が、堀田が昨年いっぱいで引退したのを受け、今年、惣一郎は初めて右近を伴った。
貴公子然とした主と、目のさめるような美形の近習の取り合わせは、嫌でも周囲の目を引いた。
まるで一幅の絵のような見事な主従の図に、詰めの間のあちこちからかすかな溜息が洩れた。
人々の羨望の視線をあび、惣一郎は終始上機嫌だった。
それを隠そうともしない様子に、右近は微苦笑を禁じ得ない。
右近は例の枕絵の一件(八の巻参照)もあり、あまり城中で目立ちたくはなかったが、主の惣一郎が強く望めば逆らうこともできず、渋々一緒に登城したのだった。
***
御礼登城が無事終り、門松が取れ、小正月も過ぎた頃、惣一郎は信輝公に呼ばれて上屋敷を訪なった。右近も連れてくるようにとの達しである。
堀田の引退後、繰り上げ人事で次席の岩田善次郎が留守居役に就任した。
前任者、堀田の強い推挙もあり、空いた次席の席に右近をどうかという話が、すでに昨年春あたりから出ていた。
本日、父に呼ばれたのも、おそらくはこの一件だろうと、惣一郎は目を輝かせて右近に言った。
此度、留守居役次席となり、近い将来留守居役に昇進すれば、その任を解かれぬ限り、右近は生涯江戸詰めとなる。
何としてでも右近を江戸に止めおきたい。
惣一郎はこの人事、是非とも実現させようと、決意を固めていた。
去年の秋、昔年の想いを遂げ、惣一郎は初めて右近を抱いた。
天満屋の事件がきっかけで、半ば無理矢理伽を命じた形ではあったが、それでも惣一郎は右近をようやく手に入れたことで、天にも昇る心地だった。
右近の側としては、あくまで惣一郎の想いを受け入れているだけかもしれない。
誠之進への恋情も、まだ消えたわけではなかろう。
本音の部分は正直言ってわからない。
不安に駆られて、手酷く抱いてしまう夜もあった。
しかし、夜を過ごすたびに、右近の躯は確実に愛撫に慣れていった。
最初の頃使った、媚薬入りの練り物はとっくに底をついていたが、もはや、そのようなものがなくとも、右近は惣一郎の腕の中で切なげに泣いた。
自分から求めることは決してなかったが、男の手に反応して見悶える己に、戸惑い、嫌悪しながらも、最後には膚を桜色に染めて、惣一郎を受け入れながら遂情する。
情を交わすたびに、骨抜きにされていくような気がする。右近なしでは夜も日もあけなかった。
***
中奥の居室を訪れると、信輝公は上機嫌で息子を迎えた。
「おお、惣一郎、よう参った」
膝元には、去年の暮れに入手した絵暦数冊が散らばっていた。
右近ともども深く一礼した惣一郎は、早々に信輝公の御前へ歩みよったが、右近はそのまま入口近くに端座して控えていた。
昨年の今頃、惣一郎が再び絵を描き始めた。
絵師を軽蔑している奥方の手前、大きな声では誉められぬものの、信輝公は惣一郎が絵筆をとったことを、内心ひどくお喜びのようだった。
以前は何となくよそよそしい間柄の二人だったが、ここ一年、絵を介してお互いの距離がぐんと近くなったように思える。
心暖まるものを感じながら、右近が二人の姿を眺めていると、
「何をしておる、右近。そなたももっと近う寄れ」
信輝公が破顔して、扇で手招きした。
「御意」
右近は改めて礼をすると、御前へ歩みより、惣一郎の下手に着座した。
信輝公と惣一郎は、しばらく狂歌の会の話など世間噺に花を咲かせていたが、やがて、間合いを見計らっていたかのように、信輝公がおもむろに切り出した。
「ところで、惣一郎」
「はい、父上」
「そなたに頼みがあるのだ」
「はい…私にできることでしたら何なりと」
「ふむ…」
何やら歯切れの悪い信輝公だった。
右近は伏し目がちに頭を垂れ、二人の話に耳を傾けた。
「一度…三郎に会うてやってくれぬか?」
禁句というほどではなかったが、御正室様への遠慮から、ここ上屋敷では、妾腹の三郎の話題は避けられているようだった。信輝公も滅多に惣一郎に三郎の話をしたことはなかった。
惣一郎は突然のことで驚いたようだが、表情に不快の色はなかった。
「父上が会えと仰せなら、私のほうは構いませぬが…?」
「まことか…?」
確信なさげに瞳を揺らす信輝公に、惣一郎が微笑んでうなずいた。
「今年、いくつになりました?」
「…十三歳じゃ。文武に秀で、真直ぐな気性のそれは良い子なのだ…」
のろけに近い子煩悩ぶりを発揮する父を、惣一郎は相変わらず優しげな瞳で見つめていた。
考えてみれば惣一郎は嫡子であり、年も三郎の倍である。
もはや、父の愛を巡って嫉妬するような対象ではなかった。
年の離れた兄として、三郎を慈しんでやりたい気持もあるのだろうか。
右近は己の心の中に巣食っていた、三郎に対する微妙な感情を恥じた。
信輝公と惣一郎は、三郎を一度江戸へよこしてはどうかなどと、和やかに話を続けていた。
「右近」
会話をどこか遠いものに聞いていた右近は、突然自分の名を呼ばれて我に帰った。
「ところで、今日のもう一つの用件は、そなたのこれからについてなのだが…」
藩主親子の視線が一瞬ひたと交錯した。
惣一郎が期待に満ちた眼差しで、信輝公に先を促した。
ところが、信輝公は何やら心苦しそうに惣一郎からふっと目を逸らした。
「……そなた、一度国許へ戻らぬか?」
「父上…」
惣一郎の頬にさっと緊張が走った。
不安に駆られたのか、惣一郎はやけに饒舌に語り始めた。
「…ああ、それは一度帰省して、母に会うて参れということでござりますな。それは良いことにござりまする…六年ぶりのひとり息子との対面、母御もさぞや喜ばれることで…」
「惣一郎…、そうではないのだ」
「…え?」
「…実は主膳のたっての頼みでな。国許で是非とも右近に命じたい役目があるという。この六月に一緒に帰国させてくれと…右近でのうては勤まらぬそうだ」
惣一郎の頬が紙のように白くなっていた。
膝に置かれた手も、指先が心なしか震えている。
先程の親しげな様子とはうって変わって、惣一郎は冷たく抑揚のない声で尋ねた。
「…父上。それは主膳の『頼み』にござりますか? それとも、父上の命にござりますか?」
「…惣一郎、そなたが右近を手元に置きたいのは存じておる。なれど、今回だけは、どうか聞き分けてくれぬか…?」
「何故、右近でなければならぬのですか? 斯程に重要な役目なら、私にもきちんと御説明いただきたく存じます」
「それは…藩の機密に係わることゆえ、予と主膳以外、他の誰にも、嫡男のそなたにも明かせぬ…」
「…それでは承知いたしかねます」
「惣一郎!」
にべもなくはねつける惣一郎を、信輝公は途方にくれて見つめていた。
右近は一言も口を挟まず、ただ、黙って二人のやりとりを聞いていた。
(国許へ…帰れる…?)
今日呼ばれたのは、留守居役次席の話とばかり思っていた。
予想だにしなかった展開に、右近もしばし言葉を失っていた。
だが…。
胸の奥で心の臓がどくりと鳴った。
(これは、帰国の命なのか…。国許へ、誠之進のもとへ…帰れるのか?)
惣一郎にすまないと思った。
だが、唇をかんでも身体中が脈打つのを止められない。息苦しいほどの喜びに右近は目眩すら覚えた。
自分から帰りたいとは言えなかった。そのつもりもなかった。
だが、こうして信輝公から命じられれば、どうして否と言えるだろう。
(誠之進に、誠之進に会える…!)
指先が震えだしそうだ。頬が燃えるように熱い…。
「右近…」
名を呼ばれ、右近はっと身をこわばらせた。
小さく息をのんだまま呼吸が止まる。
今、惣一郎と目を合わせるなど、とても恐ろしくてできない。
「右近…、そなた、国許へ帰りたいか…?」
惣一郎は決して声を荒げない。
しかし、その静けさこそが、氷の刃のように右近の胸を切り裂いた。
「もう一度聞く。国許へ帰りたいのか?」
「惣一郎…」
一瞬にして凍り付いた雰囲気を和らげようと、信輝公が助け船をだしてきた。
「そのように問い詰めては哀れではないか。…この人事は…君命であるぞ。右近に選択の余地はない…」
「父上。私は右近の気持を尋ねておるのです」
口を出されるなといわんばかりの口調に、信輝公は一瞬ひるんだ。
「たのむ、聞き分けてくれ……惣一郎」
「…右近は、私のものです」
「惣一郎?!」
「私の用人も右近でなくては勤まりません! 他のものでは…駄目なのです…」
断固たる口調で父に逆らいながらも、かすれる語尾が痛々しかった。
右近はとうとう惣一郎の顔を一度も見られず、睫を伏せたまま、いたたまれぬ思いでその場に端座していた。
つづく
時系列でいうと、この後に裏収蔵の『晩夏』5.5がきます。
壁紙は『幻影素材工房』さんからお借りしています。 |