弐の巻
「沫雪」3




by 戸田采女

 右近の自室。正確にいうと、屋敷内の右近の『宿直(とのい)部屋』だった。家来は皆、お長屋に住うことになっているので、本来定められた右近の住居はお長屋のほうにあった。

 だが、事実上、惣一郎に常住坐臥仕えていた右近は、屋敷内の部屋で過ごすことがほとんどで、長屋のほうへは滅多に帰ったことがなかった。

 仙之丞に案内され、昔自分が使っていた部屋に戻ると、
「なんと…」
右近が去ったあの日のまま、部屋はきれいに整えられていた。
 仙之丞のはからいだろう。惣一郎の居室で歓談している間に、右近の部屋にも火鉢が運ばれ、すでに赤々と炭が燃えていた。床の間には竹の花器に木瓜の花が一輪、楚々といけてある。その脇に、右近が残していった小鼓が飾られていた。

 右近は床の間に歩みより、懐かしげに鼓を手にとった。

 仙之丞が右近の傍らに歩みよった。
「右近様がお発ちになってから…、若殿が、この部屋は誰にも使わせてはならぬと」
「惣一郎様が…?」
仙之丞は大きくうなずいた。
「…右近様、まことに…ようお戻りくださりました」
身体は立派になっても、仙之丞の童顔は相変わらずだ。つぶらな瞳が憧憬に近い親しみを込めて、右近をひたと見る。

 思わず肩を抱いてやりたくなったが、気が付けば目線が昔とは逆になっていた。
「何…そなたの方が背が高いのか?」
言われて気付いたという顔で、仙之丞が目を見はった。
「…のようにござりますな」
「うむ…図体ばかりでかくなりおって…」
「もはや組み打ちでは負けぬやもしれませぬ」
「言うたな、仙之丞!」
ふたりは顔を見合わせて、明るい笑い声をたてた。




 言われた通り、右近は夕餉のあと、碁の相手をするべく惣一郎の居室へ出向いた。惣一郎の碁はあまり上達したとは言えなかったが、右近が手加減しつつ、それなりの対局を終えると、惣一郎は床につくべく寝間着に着替え始めた。

 右近が石や碁盤を片付けていると、
「右近、明日は早々に滝川道場へ出向き、挨拶をしてまいれ、よいな」
「かしこまりました…」
何度も念を押さずとも、心は既に決まっているものを…と、右近は内心苦笑した。
「明日は…絵を描くぞ」
「ほう」
右近は嬉し気に眸を輝かせた。
「屋敷の雪景色にござりますか? ならば、少し積もるとよろしゅうござりますな…」
「…そなたを描く」
「私を…?」
「そなたを描くゆえ、用事が済んだら早々に戻って参れ」

 惣一郎の脱いだ着物を片づけながら、小姓の竹弥が堪えきれずにくすくす笑っていた。仙之丞は何やら落ちつかない様子で、惣一郎の次の行動を見守っている。

 仙之丞同様、昔を知る竹弥は、好奇心に満ちた眼で惣一郎と右近を盗み見る。右近はいたたまれなくなった。だが、主人が下がれというまで、自分から部屋を辞すわけにはいかない。

 「今夜は冷えるゆえ…、仙之丞」
「はっ」
仙之丞の声に緊張が走った。
「右近の部屋にも…新しい炭を入れてやれ」
「心得ましてござります」
「右近…下がって休むがよい」

 「では…明朝お目にかかります。お休みなされませ」
「うむ…」
惣一郎は鷹揚にうなずくと、隣の寝所へとひきとった。

 右近は端座したまま、ほっと肩の力を抜いた。




 まったく。

 自分も、小姓たちも見当違いな心配をしていたらしい…。

 右近は綿入れを顎までしっかりかけ、闇の中、天井を見上げていた。寝る前に仙之丞が火鉢の炭を入れ替えてくれたおかげで、部屋は心地よく暖まっている。

 何を期待していたのやら…。

 惣一郎様は御正室を迎えられ、いかに以前の寵愛が深かったとはいえ、私ももはや二十七。そのような『御用』があるはずもない。

 五代将軍・綱吉公の寵臣、かの柳沢美濃守様にしても、元服後は綱吉公と肌身を合わせてなどおらぬはず。

 私もこれからは臣下として、惣一郎がつつがなく藩主の責務を果たせるよう、全力でお助けしよう。あのような不義理をした私に、いつまでも居場所を与えてくださるご恩に報いねばならぬ。

 されど…。右近はほっと息をついた。

 中屋敷はまことに心が安らぐ…不思議なものだな。いずれ藩邸で正式に役目を与えられれば、呑気に暮らしてはおられぬだろうが、惣一郎様がおっしゃるように、それまでは、しばし…お言葉に甘えて…。

 江戸に…戻ってきてよかった。棘がささったような切なさは未だ残っているものの、胸の内で黒々ととぐろを巻いていたものが嘘のように消えている…。滝川道場で無心に汗を流した三ヶ月は無駄ではなかったのだ。

 三郎と誠之進の姿が視界に入らない江戸にいれば…心は安息を得られるのかもしれない。

 暖かな綿入れにつつまれ、右近は心地よい眠りに誘われた。うとうとしかかったところへ、次の間からわずかな灯りが洩れた。

「ん…?」

 まさか賊ではあるまい。殺気はまったく感じられなかった。
「誰ぞ…おるのか?」
右近は一応枕元の脇差をつかみ、ゆっくりと綿入れを押しのけた。

 誰何の声には答えず、襖が軽い音をたてて開き、手燭を持った人影が入室した。

 さすがに不審に思った右近は、鞘をはらって抜刀し、布団の上で構えた。人影は臆した様子もなく、無言でこちらに近付いてくる。

 ようやく手燭の灯りで顔の見える距離になった。

「惣一郎様…」

「斯様な夜更けに…いかがなされました?」
思わず掠れた声が出た。
惣一郎は手燭を床の間に置き、
「早うその物騒なものをしまえ」
声に笑いを滲ませて右近を諭した。
右近は小首をかしげながら、布団の上に座ったまま、脇差を鞘に納めて脇へ置いた。

「右近…」
惣一郎が右近の正面に座り、膝を詰めてにじり寄った。肩に両手を置かれ、ようやく右近は事態を悟った。惣一郎は右近が拒む暇を与えず、膝立ちになってかたく右近を抱きしめた。
「…よう戻った」
「そ、惣一郎様…」

 右近は狼狽した。抱き込まれた瞬間、惣一郎の寝間着にたきしめられた香が仄かにかおり、過去の閨の記憶を呼び覚ました。

 惣一郎は右近の項に顔をうずめるようにして囁いた。
「よくぞ…自分から江戸へ戻ってきてくれた」
「わ、私は…」

 右近は惣一郎の腕の中で身をすくませた。

 だめだ…、思い出してしまう。

 身体の芯が甘く疼き、せつなくなるような…触れ方。
右近を引き裂き、思うさま支配し、快楽の淵へ引きずり込む…惣一郎の熱い楔。

 そして…抗いながらもそれを待ち望んでしまう己の姿。

 「右近!」
惣一郎は鋭く叫ぶと、右近の袷を一気にくつろげ、やや乱暴に敷布の上に右近を引き倒した。惣一郎は被いかぶさるように身を重ね、右近の存在を確かめるように、はだけた胸をゆっくりと撫でさする。

 乾いた暖かい掌から、惣一郎の想いが伝わってくるような気がした。

 「もう…何処へも行ってはならぬ」
右近の耳元に唇を寄せ、惣一郎が熱に浮かされたように囁いた。
右近が間をおかずに小さくうなずくと、惣一郎は両腕で巻き込むように右近を抱きしめた。
「父上が何といおうと、今度こそ…決して離さぬぞ」
「惣一郎様…」

 この私に…そこまでの想いをかけてくださるとは。

 身も心も蕩かすような愛撫の手を振りきり、一度は惣一郎を見捨てて国許へ帰った自分だ。不忠者の極みの私に、変わらぬ情けをかけてくださるのか一。

 沸々とわきあがるもので、右近の胸は溢れそうになった。

 「…私の一命は」
右近は惣一郎の背にそっと両手をまわした。
「生涯若殿に捧げるつもりで…江戸に戻りました」

 わずかな灯りの下、右近は惣一郎の瞳をまっすぐに見つめた。今の言葉にもはや嘘も迷いもなかった。

「私などでよろしければ、いかような御用でも…お申し付けくださりませ」

 惣一郎はきっと容(かたち)を改め、
「ばかもの…これは『御用』ではないわ」
「あ、そのようなつもりでは…」
確かに口がすべった。右近は役職のつもりで御用といったのだが。

 惣一郎は右近の頬にそっと掌を押しあてた。
「身供はそなたがいとしい…」
「惣一郎様…」
右近は困惑したように惣一郎を見つめ続けた。
だが惣一郎はひるまなかった。
「いとしいから抱く。嫌なら、拒め。それで罰したりはせぬ」
「嫌だなどと…!」
「…?」
「思うたことは…一度もござりませぬ…」
右近の声がかすれて小さくなった。

 想いを返せない自分を、申し訳なく思いこそすれ…抱かれるのを心底厭うたことはない。嫌ならば最初から指一本触れさせはせぬ…と、右近は心の中で呟いた。

 惣一郎はまばたきもせずに右近を見つめ、
「嫌ではなかったと…申すか」
苦し気に眉根を寄せた。
瞳がわずかに潤み、一瞬、泣き出すのかと思った。
惣一郎は瞼を閉じて静かに息を吐き出した。

 両腕で右近をやわらかく抱きしめながら、惣一郎の口元がゆっくりと綻んだ。いとおしむような仕種のひとつひとつが右近の胸に迫る。

 惣一郎の暖かい唇が、右近の喉元にしっとりと押しあてられた。唇は、そのまま滑るように右近の首筋や鎖骨のあたりをさまよっていく。時折強く肌を吸われ、甘い痛みが走った。

 「惣一郎様…」
かすれた声で名を呼べば、応えてゆっくりと唇が重なってきた。触れあう瞬間、お互いの唇に微かな緊張が走った。が、ひとたび触れあってしまえば、求め合う想いが堰を切ったようあふれだした。

 舌が絡み合い、口づけがより深くなっていく。心地良い熱に右近が酔いしれていると、惣一郎の手が右近の裾を大きく割った。

 傍若無人な手が下帯の中に滑り込む。指先が茂みに絡み、熱く脈打ちはじめたものを、少しきつめに握り込んだ。

 右近の白い喉がわずかに反り、合わせた唇が一瞬はずれた。震えるようにこぼれた吐息も、ふたたび追いかける惣一郎の唇に捕われ、口中に吸い込まれていった。

 手燭の小さな火影が時おりゆらめいていた。

 仄暗い閨に濃密な空気が満ちる。あえやかな右近の息づかいが、 に溶けていった。


***


 翌日、右近は軽い中食を済ませた後、だるい身体にむち打って、浅草の滝川道場へ赴いた。

 とうとう藩邸の者に見つかり、屋敷へ戻らねばならなくなったと告げる。彦四郎の妻いくは大層残念がり、彦四郎は「おお、それは仕方あるまい。だがせっかくの惣一郎様のお声がかりだ。用人のお役目、しかと励めよ」と、大真面目な顔でうなずいた。

 舅の勘十郎だけは、言葉少なく、にこにこと右近を見つめていた。

 玄関で三人に見送られ、荷物をまとめた右近はいよいよ道場を去ることになった。右近はあらためて三人を振り返り、深々と一礼した。

「では…大変お世話になりもうした。…こちらに寄せていただき、旅の疲れを癒し、ひととき役目の煩わしさを忘れ…まことに心安まる思いにござりました」
勘十郎は満足げにうなずくと、
「それは何よりでござった。これからも、時々はわが道場に顔を見せてくだされ。門人たちにも良い刺激になるゆえ」
「ぜひ、そうさせていただきまする」
右近は心からの謝意をこめて、首を垂れた。

「右近…私なぞの出る幕ではないやもしれぬが…」
「彦四郎?」
「何かあれば、いつでも訪ねてきてくれ。役向きの難しいことはわからぬが、私で役に立つことがあれば…」
「彦四郎…」
「その…うまく言えぬが、おぬしの力になりたいのだ」
「彦四郎…かたじけない」
右近は思わず彦四郎の手をとった。

 朴訥な彦四郎が示す、精一杯の好意が嬉しかった。

 何となくそのままうるうる見つめ合ってしまったが、彦四郎の妻・いくの膨れっ面が目に入り、右近は慌てて手を離した。

 勘十郎は呵々と笑い、
「これ、いくや、右近どのが女でのうてよかったな」
「ち、父上!」
「そなたのようなお多福では、とても太刀打ちできまい」
「義父上!」
彦四郎の浅黒い顔がゆで蛸のようになっていた。

 舅殿のきつい冗談に内心閉口したが、ここはひとまず笑顔でおいとますべきと考えた。
右近は三人に向かって極上の笑みを浮かべる。
「では、某はこれにて」
「うむ」
勘十郎がうなずく。
「御免」
右近は彦四郎の目を見てうなずくと、きびすを返し、足早に道場の門を出ていった。


 田原町三丁目から往来を東本願寺に向かって歩いていると、
「右近様っ」
呼び止められてあたりを見回せば、仙之丞が近くの茶店で団子片手にくつろいでいた。
「御事(おこと)…、こんなところで何をしておる」
またつけてきたのか、と右近は流石にうんざりして肩で息をついた。
「…今日は右近様の荷物運びについてきたんですよ。ほら、右近様も怒ってないで、こちらでご一緒に団子なぞいかがです?」
「何を調子のいいことを…」
口をへの字にまげながら、右近は往来を渡り、仙之丞に合流した。

 「この団子、なかなかいけますぞ。生地に錬りこんだ胡麻の風味が何とも香ばしく…」
月代を剃り一人前の青年になっても、仙之丞の甘い物好きは相変わらずだった。甘辛いタレのかかった団子を、目の前で幸せそうにもぐもぐやられると、怒る気も失せてしまう。
「かなわんな…まったく」
右近は縁台に並んで腰を降ろすと、団子はことわり、茶だけを運ばせた。

 八つ半(午後三時)を打つ、時の鐘を聞いた。ふと見上げれば、空の高みに引鶴の群れがあった。秋、北国からやってきた鶴がふたたび西北を目指して飛び立ってゆく。冬の終わりに日本を去っていく鶴を引鶴と呼んだ。

 仙之丞がともに空を見上げて呟いた。
「春が…来ましたね」
「うむ…」
引鶴の群れを見送りながら、右近は静かに首肯した。


***


 明和五年。波瀾に満ちた年の幕開けだった。

 穏やかな早春の江戸には、未だ暗雲のたちこめる兆しはない。


沫雪 了




「沫雪」2「桜狩」1
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壁紙は『kigen』さんからお借りしています。


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