参の巻
「桜狩」1




by 戸田采女

 山は匂いたつ花の香気に包まれていた。

 楚々とした白花のコブシ、モクレンが咲き乱れ、ハナズオウの紅が艶やかさを添える。ここ数日の汗ばむような日和に、遅い時期の花も一気に眠りからさめ、固い蕾みをゆるやかに綻ばせていた。

 その中に、ひときわ目をひく山桜の大木があった。樹齢百年は下らないだろう。堂々たる幹の上、伸びやかな枝が四方に広がっている。薄緑色の葉がのぞくなか、淡く可憐な花が天蓋のごとく枝をおおい尽くしていた。

 風に吹かれ、時折花びらを散らす大樹の下、前髪立ちの少年が幹に両手をつき、身体を預けるようにしがみついていた。着物の袷をゆるくはだけ、大きくめくりあげられた裾からは、しなやかに伸びた脚が露になっている。

 背後には長身の若い武士が重なりあっていた。少年の帯のあたりに片腕を回して引き寄せ、緩慢な律動を刻んでいる。青年が時折深く腰をすすめると、少年の薄く開いた唇から、甘く掠れるような喘ぎが洩れる。山を包む花の香と青年の与える熱に酔わされ、少年は陶然と眸を潤ませて、桜の幹に両手を彷徨わせていた。

                   

 明和五年弥生末。
城下からほど近い山麓にある、高山藩筆頭家老・溝口主膳の別邸では、藩主・結城因幡守信輝を迎え、花見の宴の準備に大忙しであった。信輝公だけでなく、三男の三郎信尭、謹慎が解けたばかりの内藤家を除く、重臣一同も招かれていた。

 高山藩の門閥八家は、領内の風光明媚な場所にそれぞれ別邸を構えている。今や筆頭家老として権勢並ぶものなき溝口家は、賓客の接待にも用いる山屋敷と、今町近くの海岸には家族だけが利用する館を有していた。

 昨年、一昨年と天災に見舞われ、藩財政は一気に逼迫の度を増した。筆頭家老・溝口主膳は藩士に倹約を奨励する手前、自らも質素倹約に努め、別邸を利用する機会は久しくなかった。幸い、昨年末の今町からの運上金のおかげ一正確に言うと、島崎屋というひとりの豪商のおかげで一藩財政も好転の兆しを見せている。今年の作柄如何では、まだまだ気を抜けない状況ではあったが、八月には再び参勤で江戸へ出府する信輝公のため、主膳は多少の出費には目をつむり、三年ぶりに盛大な宴を開くことに決めたのだった。

 昼前に到着した藩主一行は、軽い中食をすませたのち、思い思いにくつろいでいた。夕刻からは仮設の舞台で能を見せる予定だ。幸い好天に恵まれ、客人たちは庭園内を散策したり、あずまやで茶を点てたりと、春の一日を満喫していた。起伏に富む自然の景観を利用した庭園は、造型美を誇る藩公の別邸、『花心亭』とはひと味違う、野趣溢れる庭であった。

 溝口主膳の次男・慶次郎と娘の志保は、奥方たちの接待に忙しい。特に愛想がよくまめな慶次郎は、女性たちを喜ばせる術を心得ているようで、まだ若い堀隼人丞の妻から山崎忠実の老妻まで、奥方たちの評判はすこぶるよかった。池に小舟を浮かべたり、花摘みにつきあってやったりと、よくもまあ次から次へと思いつくものだと、父親の主膳も半ば呆れながらも感心し、次男の意外な才覚に目をみはった。

 藩主・信輝公は、三郎の母、おひろの死後、国許に側室を持とうとはしなかった。何度か重臣たちから勧めがあったものの、おひろの思い出が断ちがたいのか、江戸の正室・お牧の方とのこれ以上のトラブルを避けたかったのか…。真意のほどはわからねど、国許での信輝公は花鳥風月を愛で、ひたすら絵を描く日々を過ごしていた。今も庭へ出て気に入った場所に居を定めると、用人の青木忠左衛門のみを従え、黙々と写生に励んでいる。




 藩公三男の三郎信尭は、桜の大樹の根元にひとり腰を降ろしていた。先程まで一緒だった守役の誠之進の姿はない。脱ぎ捨てた袴は未だ傍らに打ち捨てられている。三郎はしどけなく乱れた着流し姿のまま、両足を投げ出すようにして木の幹にもたれかかっていた。

 滑らかな象牙色の肌が、情交の名残りでうっすらと桜色に染まっている。深く、あまやかな疲労感に包まれ、三郎は放心したように宙を見つめていた。

 愛人でもある守役の誠之進は、甲斐甲斐しく後始末をすると手拭いを濯ぎにいった。自分は腕一本あげるのも億劫なのに…。終わっていくらもたたぬうちにきびきび動く誠之進を、三郎は少しばかり恨めしく思った。

 ぼんやりと空を見上げれば、桜の枝の合間から春たけなわの陽射しが降り注ぐ。このまままどろんでしまいたい気分だった。心地よさに瞼を閉じていると、草を踏む足音を聞いた。

 (誠之進…?)

 溝口家の別邸からゆうに半里は離れた山の中腹。知り人に出くわす心配はないはずだ。
「誠之進…」
いとしい者の名を呟き、ゆっくりと目をあけた瞬間、三郎は反射的に前袷をかきあわせ、腰で後ずさった。
「…な、何者?!」
かすれる声で誰何したが応えはない。

 手拭いで頬かむりをした百姓風の男が、一間ほど向こうから三郎にひたと視線を当てていた。三白眼から発せられる粘るような眼光に、三郎は本能的な恐怖を覚えた。無意識のうちに右手が草の上をさぐり、脇差をさがしていた。

 息苦しいような沈黙が三郎を襲う。

 男はそれ以上距離を詰めようとはしなかった。三郎の身体を上から下までなめるように一瞥すると、無言で軽く頭を下げ、行き過ぎようとした。その時、薄い唇の端に浮かんだ酷薄な笑みに、三郎は背筋が凍るような寒気を覚え、思わず固く目をつぶった。

 再び目をあけた時、もはや男の姿はなかった。白昼、魔が通ったかのような出来事だった。

 男が消えた後、下手から誠之進が上がってきた。
「若!」
新たに清水を汲んできたのか、竹筒をかかげて振りながら、飛ぶようにこなたへ駆けてくる。
「誠之進!」
三郎は喉声に叫ぶと立ち上がり、誠之進の元へ駆け寄った。
「若?」
広い胸に飛び込むように身を投げ、ひしとしがみつく。
「いかがなされました…?」
「…妙な男が通った」
「え…」
いぶかりながらも、誠之進の端正な顔がわずかにこわばった。
「それは…どのような風体の?」
「頬かむりをして、百姓か炭焼きのようであったが…」
心あたりがあるのだろうか? 見る間に誠之進の眉が険しくなった。
「誠之進…」
三郎が不安にかられて見上げれば、
「…この辺りで山に分け入るものといえば…、在郷の百姓か猟師でしょう。山菜摘みにでも来たのではありませぬか?」
誠之進が笑みを浮かべて言った。だが口調がどこか取り繕った感じだ。誠之進は…何を知っているのだろう?

 三郎は曖昧にうなずいたが、内心では、
(あんな蛇のような目をした男が、百姓などであるはずがない…)
と、確信に近い思いを抱いていた。

 「さあ、そろそろ山を降りませぬと…」
「うむ…」
三郎は胸の泡立ちをひとまず隠し、誠之進の目を見て微笑んだ。
「ほれ、喉が渇いたでしょう…ひとくち水をお飲みなされ」
三郎は促されるままに竹筒から水を飲んだ。汲みたての清水が身体中に染み渡るようだ。うまそうに喉を鳴らす三郎を、誠之進は鳶色の眸を和ませ、静かに見つめていた。

 誠之進は三郎の着物の袷を整え、袴をはかせると、
「…少々お待ちを」
袂から櫛を取り出して手際よく三郎の鬢を直した。そういえば、誠之進に抱かれていたとき、無意識のうちに木の幹に頭をすりつけてしまったのだろう。三郎は先刻までの己の姿を思い出し、頬を熱くしていた。

 ひととおり三郎の身支度を整えると、誠之進の唇が前髪のあたりに軽く触れた。
「さ、参りましょう…」
鳶色の瞳が満足そうに微笑んで促した。

 きりっとした一文字眉は父親譲り。その下に形よく穿たれた双眸は、母に良く似た優しい鳶色。すっきり高い鼻梁に、大きすぎず、小さすぎず、少し薄めの形のよい唇。

 いとしい誠之進の容貌を、三郎はあらためてひとつひとつ確かめるがごとく見つめた。男なら誰でもこうありたいと願う、美丈夫と呼ぶに相応しい容貌(かお)だった。

 「いかがなされました?」
目を軽く見開いて、尋ねる声音の暖かさ。

 『三郎ぎみ
森のごとく、深い声音で名を呼ばれれば、子供の頃はそれだけで、身も心も預けられるような安心感を覚えた。そして今は…。

 三郎は知っている。
普段、優しく落ち着いた声音が、狂おしい熱を帯びるとどんな風に変わるのか。それを耳もとに注ぎ込まれたとき、自分がどうなってしまうのかも…。

 「さ、参りましょう」
再び背に手をあてて促され、三郎はゆっくりと誠之進と並んで斜面を下った。誠之進は足下の安全を確かめながら、三郎の一歩前を行く。

 家老・溝口主膳の嫡男、守役の誠之進との仲は秘め事だった。周囲の目を盗んで、束の間の逢瀬に我を忘れる…。ふたりが恋仲になって以来、すでに一年が過ぎていた。

 今日も屋敷に戻ったら、父にももっともらしい言い訳をせねばならない。三郎にとって、大好きな父に嘘をつくのは辛かった。

 誰憚ることなく、ふたりで暮らせれば…。殿様の血をひいていても、自分はもともと関川の町人の子だ。養子にいって大名になどならずともよい。広い領地も家来もいらぬ。山に分け入り、武芸に励み、晴耕雨読の生活で、日々の暮らしがたちゆけばそれで十分幸せなのだ。

 誠之進は…そんな暮らしは嫌だろうか?

 やはり、五千人を超える藩士の頂点に立つのが、家老の家に生まれた男としての責任であり、生き甲斐なのだろうか?

 三郎が思わず歩を止めて誠之進の背を見つめた。

 いつか、問わねばならぬ日が来るだろう。それもそう遠くない未来に。

 「若…いかがされました?」
三郎の足音が止まったのに気付き、誠之進が振り返る。
「…何でもない」
三郎は微笑を浮かべ、小さく首を振った。

 大好きな鳶色の眸を見つめ返しながら、三郎は誠之進への問いかけを、ひっそりと胸の中にしまいこんだ。


つづく


「沫雪」3「桜狩」2
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壁紙は「十五夜」さんからお借りしています。

 

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