終章
「暮春」4




by 戸田采女

 惣一郎がお忍びで中屋敷へ向った頃、執務中の右近は宝寿院から呼び出しを受けた。火急の用件かと急ぎ奥御殿に参上した。お年寄・藤江の案内で渡り廊下を行くと、どこからともなく琴の音が聞こえてくる。たしか綾姫が琴をたしなんだはず…と、右近は耳を傾けた。

(ほう…腕をお上げなされたか?)

 あれが他の弾き手ではなく綾姫本人なら、以前聞いたときとは比べ物にならぬ、何やら情念のこもった音色である。

 右近の関心を察知したかのごとく、前を行く藤江が呟いた。
「姫様は外出もあまりお好きではなく、琴を奏でるほか、無聊を慰める術がござりませぬゆえ…ほほほ」
霞のかかった空のごとく、藤江はあいまいな笑いで言葉を濁した。

 惣一郎にかまわれぬ姫の境遇を嘆いた、藤江の繰り言とも取れたが、右近は何も答えず黙って歩を進めた。

 右近が居室に顔を出すと、宝寿院はにこやかに出迎えた。しばし右近に貝合わせの相手をつとめさせながら、結城家と親しい諸大名や旗本の近況を尋ねた。

 やれどこの若君が今年元服だの、某家の姫君は相変わらず縁付く気配もないのかなど、宝寿院は一見上機嫌でなごやかに語りかけてくる。しかし右近は執務中だったのだ。単なる世間話なら執務が終わる未の下刻でもよかったはず。正直これは時間の無駄である。

(いったい…何用じゃ?)

 不毛に時が流れ、右近が戸惑い始めた頃、
「のう右近…」
指先で貝を拾いあげながら、
「三郎が目障りじゃ」
宝寿院が事もなげに言った。
「は…」
「そなたとて、三郎を疎ましく思っているはず」
「滅相もござりませぬ」
嫌な空気を感じながらも、右近は笑って首を横に振った。
だが宝寿院は意味ありげに右近を一瞥した。
「そなた、昔から誠之進を慕っておったのであろう?」
思わず頬を強張らせた右近を前に、
「わらわの目はごまかせぬぞ」
宝寿院はふと目元を和ませ、脇息にゆったりともたれた。

(どういうおつもりかはわからぬが…乗せられてはならぬ)

 右近はあくまで淡々と応対した。
「恐れながら、お方様は何やら勘違いをしておられます…」
「ふん…」
「それがしは身も心も殿に捧げ、命がけの御奉公をと心に決めておりまする」

 偽りではない。今の自分はまことにそう思うている。

 しかし宝寿院は取り合う様子もなく、
「隠さずともよい、右近」
「何も隠してなぞおりませぬ」
「わらわは責めておるのではない」
右近が怯んだ隙に宝寿院がたたみかけた。
「そなたの心…わらわにはようわかる。思うても思うても振り向いてもらえぬ口惜しさ…」

(違うっ…誠之進もかつて私のことを…)

 喉まで出かかった叫びを右近はのみ込んだ。

(それゆえ…私はもう得心しておるのだ。今さらくだらぬことを申されるな…)

 表情を殺し切ったつもりが、やはり心の揺れを見抜かれたのか。
完璧に紅を引いた唇が無気味に動いた。
「そなたとわらわは同類じゃ。同じ匂いがする。胸底に悋気という名の蛇を飼っている者の匂いがな」
宝寿院の猫撫で声に右近は総毛立った
「そなたの美貌、才知、多少とうはたっておるが、何をとっても三郎に劣るところなどない」
「お止めくださりませっ!」
「口惜しゅうはないのか? 右近…。あのような下賤の者に誠之進を奪われて」

 もはや宝寿院に焚き付けられるような自分ではないと、右近は眦を決した。
宝寿院は相変わらず底の知れない笑みを浮べ、
「今いちど命じる。三郎が目障りじゃ…消してくれぬか」
恐ろしげなひとことを口にした。

「宝寿院様…」

(このお方は…本気だ)

 宝寿院の言うように、かつては自分も同じ嫉妬に苛まれた。同類だと言った宝寿院の言葉に右近は胸を突かれたが、もはや自分に三郎を害する意志はない。

 右近は頬を引きしめ、たしなめるように藩主の母を見つめた。
「滅多なことを申されますな。殿の御生母ともあろうお方が…。聞かなかったことにいたしますゆえ、どうかお忘れくださりますよう…」
挑発に乗らぬ右近がおもしろくないのか、宝寿院は手にした扇でぴしりと脇息を打った。
「そなたがわらわの意を汲まぬというのなら、もっと心きいた者を探すまで」
「宝寿院様!」
右近が二の句をつぐ前に、宝寿院は立ち上がり、打ち掛けの裾を翻してその場を去ろうとした。

だが、
「…おお、ひとつ言い忘れておった」
障子戸の前でふと足を止める仕種がわざとらしい。
「右近。惣一郎の夜伽はほどほどにしてたもれ。そなたに子種を吸い取られこのまま世継ぎができぬでは、御家の一大事であろう?」
「…お方様っ」
あまりな一言に、さすがの右近も青くなった。
「綾がつまらぬなら、別のおなごでもよい。いっそ、そなたから惣一郎に側室でもすすめてくれればよいのだが?」
宝寿院が肩越しに嫣然と笑いかけた。
羞恥に返す言葉もなく、沈黙する右近だった。

『ならば早速心あたりを…』
などと言えぬところが、右近もまだまだ青い。

「しかと言いおきましたぞ」

 宝寿院はとどめの一言で釘を刺すと、衣擦れの音とともに右近の視界から消えていった。




 残された右近は、凍り付いたようにその場に座していた。香炉から立ち上る仰羅の香が、宝寿院の言葉とともに、右近の総身に不快にまとわりついていた。


***


 明和六年春。

 昨年の秋、高山藩江戸屋敷は旧藩主・信輝公の急死で悲しみに沈んだが、半年が経った今、新藩主・惣一郎信元を盛り立てていこうとの気運が家中に高まっていた。堀田の勇退、右近の留守居役へ昇進以外、奉行から上の大幅な人事刷新はなく、皆が現状維持に安堵したことも一因だろう。

 一方国許では一一。

 亡き信輝公三男、三郎信尭の帰国を待ち望む一派があった。

 その集団、始めは中・下級藩士の師弟たちの単なる藩政研究会であったが、いつの頃からか若者たちを使嗾する人物が仲間に加わっていた。

 影の男は巧みに種を巻き、若手藩士たちの真摯な討論の場が、次第に不穏な空気をはらんでゆく。

 北国街道を越後へと進む三郎主従は、未だ騒乱の気配から遠くにあった。





 一行は信濃・小諸宿の手前の山中を進んでいた。桜の季節が終わり山々は萌葱色の若葉で被われていた。街道の両脇に立ち並ぶ杉木立の合間から、初夏の陽射しが心地良く降り注ぐ。

 昼飯の後、一刻ほど街道を進んだ後、一行は渓流へ降りて小休止とした。供の者から少し離れた岩場に三郎は腰かけた。誠之進はすかさず竹筒に清水を汲み、三郎のもとへ運んだ。

「若、どうぞ」
誠之進が押し頂くように竹筒を差し出すと、三郎が薄く微笑んで受け取った。
誠之進は一段下がった場所に跪き、うまそうに喉を潤す三郎をじっと見つめていた。

 森閑とした木立の奥で郭公が鳴いている。

「若…」
思わず呼びかけて、誠之進ははっと唇をかんだ。
「ん?」
水を飲むのを止めて、ひたと見つめてくる黒目がちの眸。

 三郎が何をどこまで勘付いているのかはわからない。右近との結末を、問いつめられれば包み隠さず話す覚悟はあるが、三郎が見るまい、聞くまいとしているのなら、若い主人の心を騒がせるような真似もしたくなかった。

「な…なんでもござりませぬ」
誠之進はふたたび目を伏せた。

 三郎は誠之進の心中を知ってか知らずか、相変わらず右近のうの字も口にしなかった。

 その一方で、三郎は誠之進に対して微妙な距離をとり、以前のように身も心も預けて甘えてくることもしない。

 誠之進は無言で三郎の傍らに控え、大刀の束を左手で探った。

 亡き信輝公拝領の『和泉守国貞』。

(この刀にかけてお誓い申し上げたものを…。我が命ある限り、三郎ぎみを慈しみ守り抜くと、殿にもお誓い申し上げながら一一)

 渓流の水音に紛れて、誠之進は苦い溜息を洩らした。




『誠之進…一度だけでいい。契ってくれ』

 捨て身で想いをぶつけてきた、美しい友の涙に目が眩んだ。

 一度はあきらめた初恋の、思いがけぬ成就の予感に心が揺れた。

 土壇場で理性が勝ったものの、ぐらついた己の心は偽りようもなかった。

(三郎ぎみ…)

 右近とは結局枕を交わさず、友として生きていく道を選んだ。

 ふたりで、その道を選んだ。

 自分も、そして右近も…。

 今、一番大切なのは誰なのか、守りたいのは誰なのか、互いの良心と向き合った末の結論だった。

(父君を失った哀しみも癒えぬうちに、私は三郎ぎみを支えるどころか…)

 守役も恋人も失格だ。

 今頃あの世では、信輝公はもとより三郎の祖父・加賀屋久右衛門も、烈火のごとくお怒りだろう。

 おそらくは誰にも胸の裡を明かさず、じっと不安に耐えていた三郎。
誠之進の心を乱す相手が右近なら、なおのこと逆上などするものかと、精一杯の意地を張っているに違いない。

 いまもこうして、三郎は木漏れ日がきらめく水面をじっと見つめている。口数が少なくなった理由は大人になったからではない。誠之進の裏切りの予感に、心を閉ざしてしまったからだ。

 いかに言葉をかけようか、誠之進も思案に暮れた。

 清流のせせらぎに混じって、岩場で鳴き交わす雀の声が聞こえた。三郎の視線が自然とそちらに流れた。愛らしい小鳥の仕種にふと三郎の目元が和んだ。

「御心配を…おかけしました」
云わずにはおれなかった。
誠之進は唇をひき結んで首を垂れた。

「何のことじゃ」
抑揚のない声に心乱され、誠之進は思わず顔を上げた。
「若…」
三郎が軽く顎を持ち上げ、誠之進の視線を捉えた。
三郎と目を合わせながら、誠之進は自分の思い違いに気付いた。
三郎は問うているのではない。
拒んでいるのだった。

 右近にまつわる話は一切聞きたくない…と。

「そなた…私に心配をかけるようなこと、何かしでかしたのか?」
三郎が跪く誠之進を上から見下ろした。
精一杯の虚勢が悲しく愛しい。
「いえ…私は」
「ならば謝ることはない」
強い意志を帯びた眸の奥が、ほんの一瞬、人恋しげに揺らいだ。
「はい…」

「謝ってなぞ…ほしゅうはない」
腹に力を込めて放った一言の、語尾が弱々しく掠れた。
三郎は弾かれたように立ち上がり、誠之進の脇を抜けて道へ戻ろうとした。
「若っ…」
誠之進は三郎の手を掴んで引き止めた。
高い梢から山鳥が飛び立つ羽音が、谷間に響いた。
振り切ろうとする三郎の動きを封じ、誠之進はそのまま後ろから己が胸に抱き込んだ。

 三郎は一切声をたてなかった。

 誠之進も一言も発することなく、三郎の身体に回した腕に力を込めた。

 最初、わずかにみじろぎした三郎が、ぴたりと誠之進の腕の中で動きを止めた。

(若のお心が決まっているのなら、私も一切の弁明をせず、このままお側に仕えさせていただきまする…)

 変わらぬ愛情と忠誠を持って一一。

 三郎が幼き日のように、誠之進はひたすら腕に力をこめ、己の温もりを伝えようとした。

 この腕は、やはり貴男のものなのだと。

 初恋の思い出は忘れ難く、右近との友誼は生涯続くものだとしても一一。

 三郎を愛しく思う心に一点の曇りもない。

(その証、生涯かけて、たててゆきまする…)

 息を詰めていた三郎が、ふっと身体の力を抜いた。

 ややあって、三郎の手が誠之進の二の腕にそっと触れた。そのまま痛いほどに強く掴まれた。指先に込められた容赦ない力を、誠之進は甘んじて受け止める。

「若…」
誠之進は抱きしめる腕はそのままに、背後から三郎のこめかみに頬を寄せた。
じわりと滲んだ涙が、誠之進の頬にも伝わってくる。

 嗚咽を堪える三郎の身体の震えを、誠之進は己が胸と両腕で静かに押さえ込んだ。

 三郎の悔しさも怒りも、底知れぬ悲しみも。

 誠之進は全てを受け止め、己が痛みとして胸に刻みつけた。



おわり


「暮春」3
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背景は「十五夜」さんからお借りしています。


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