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三郎主従が江戸を発った翌日、客人をもてなし終えた中屋敷はふたたび門を閉ざそうとしていた。
昼過ぎ、わずかな供回りを従え、藩主の駕籠がお忍びで到着した。
三郎主従の滞在中、中屋敷の管理を任されていた仙之丞も、最後の片付けを終えてほっと一息ついていたところだった。
少し庭を歩こうという惣一郎に、仙之丞は一も二もなく従った。
柔らかな陽射しを頬に受けながら、
「春爛漫じゃのう…」
惣一郎が嘆息した。
池の周りを囲む染井吉野が、散り際を前にして白雲のごとく咲き誇っている。小鳥のさえずりに耳を傾けながら、主従和やかに延石の小道を歩いた。
「何やら寂しくなりました…」
仙之丞がぽつりと洩らした。
「三郎ぎみの近習の方々は皆様陽気で…私も楽しゅうござりました」
小兵太や源蔵、倫太郎らが去った中屋敷は、火が消えたように静まり返っていた。
惣一郎もしみじみと頷き、
「三郎もな、そなたがよう面倒を見てくれたと感謝しておったぞ」
「もったいなきお言葉にござります」
仙之丞は控えめに首を垂れた。
「のう…仙之丞」
「はい」
「右近が…ここ数日、何やら晴れ晴れとした顔をしておる」
「さようにござりますか?」
「何じゃ、理由を知らぬのか?」
「はて?」
「そなた、右近のことは『おまかせくださりませ』と啖呵を切ったではないか」
「はい」
仙之丞はくすくすと笑った。
「…知っているなら、もったいぶらずに申せ」
相変わらず右近のことが気になって仕方ない様子に、仙之丞は同情を禁じ得ない。
主人相手に恐れおおいことだが、同情というよりいじらしさを感じる。
(まったく…憎めないお人じゃ)
仙之丞は破顔すると、
「殿。でんと構えておいでなされ」
惣一郎は肩で溜息をつくと、
「でんとと言われてものう…恋の道ばかりは」
手にした扇で己の額を軽く叩いた。
「右近様はもう、何処へもお行きになりませぬ」
「…何ゆえそう思う?」
惣一郎がふと歩みを止めた。
「右近様の『初恋』は…終わったようです」
仙之丞もまた、長い月日を惣一郎や右近と共にする中で、右近が惣一郎に全てをゆだねきれない理由に気付いていた。
溝口誠之進は右近の想い人であり、おそらく惣一郎も以前から気付いている。右近の想いが一方通行であることは、三郎と誠之進が恋仲だという噂から、仙之丞にも察っせられた。
されど昨年の秋、再会した右近と誠之進を見るにつけ、仙之丞の胸はざわついた。
決して叶わぬ恋ながら仙之丞は右近に心を捧げていた。右近も、そして惣一郎も仙之丞の想いを知っている。無論、己の立場を弁える仙之丞は、右近と惣一郎の幸せを願い、ふたりに尽すことで誠を貫こうとしている。
右近の相手が惣一郎ならば、仙之丞は喜んで片恋に甘んじた。
なれど誠之進は右近の心をかき乱す。三郎というものがありながら、誠之進は右近と同じ空間にいるだけで、易々と右近の魂を奪い取ってしまう。
仙之丞は誠之進に対し、惣一郎には感じなかった激しい嫉妬を覚えた。
三郎や近習の者たちには親しみを感じていたが、仙之丞が中屋敷で接待役を勤めた真の目的は、右近と誠之進が間違いを起さぬよう見張るためだった。惣一郎も口にこそ出さねど、内心それを望んでいたはずだ。
あの日、仙之丞は中屋敷から『水月』まで秘かに誠之進をつけてきた。筋向かいの茶見世に入り、『水月』の二階を見上げながらじりじりと時を過ごした。好きな団子も喉を通らず、何度も茶だけを所望しながら、踏み込むべきか真剣に悩んだ。
なれど、一刻ほど後に舟宿を出てきたふたりの表情には、微塵の後ろめたさもなかった。
不思議なまでに満ち足りた右近の微笑。『水月』に向かうまでの険しい表情が嘘のようだった誠之進。
『水月』にてふたりがいかなる会話を交わしたのか、仙之丞は知る由もなかったが…。
「そなた…気付いておったのか」
「はい。私は、右近様のことなら何でも」
「ほう…」
「恐れながら、私も殿に倣い、右近様のことしか目に入りませぬゆえ」
仙之丞はからっと明るく笑った。
「こいつ、ようもぬけぬけと」
惣一郎もさらりと受け流し、仙之丞の額を軽く扇で叩いた。
「殿の粘り勝ちですな」
めでたしめでたしとうなずく仙之丞に惣一郎は苦笑した。
ふわりと頬を撫でる春風に、
「さようか…終わったか」
枝垂れ桜の大樹を見上げ、しみじみと呟く惣一郎だった。
*
一陣の風が桜の枝を大きく揺らした。
惣一郎は高い梢を見上げ、降下する雪のごとき花弁を目で追う。
散華した右近の恋のような、と惣一郎はひとりごちた。
いかなる形で区切りをつけたにせよ、誠之進は江戸を去り、右近は自分の手元に残った。されど仙之丞の言うように、これが自分の粘り勝ちかどうかはわからない。
わからぬことを、惣一郎はもはや突き詰めようとは思わなかった。
人ひとりの心、いかに主従という枷を持ってしても、決して己の思い通りにはならぬのだと、惣一郎は今にしてようやく悟った気がする。
右近にとって、初めての友であり恋の相手だった誠之進。そのような思い出に勝てるわけがない。
右近の胸の奥の扉、もはやこじ開けて見ようとはすまい。
右近が自らの意志で私の側にいる…そのことだけを、見つめてゆけばよい。
『私はこの江戸で、生涯、若殿にお仕えしようと心に決めております』
右近が誓いを守るなら、それでよいではないか。
そのためにはらった犠牲、流した涙には、私は見て見ぬ振りをしよう…。
右近が望んで側にいる限り、私は一一。
惣一郎がしばし感傷に浸っていると、
「殿。恐れながら」
一転して仙之丞がきりりと眦を決した。
「何じゃ」
「かくなる上は、名君におなりくださりませ」
「何ゆえそうくる?!」
思わず一歩後ずさった惣一郎だが、
「当代一の美貌と叡智、右近様のお相手としてふさわしいのは、古今稀なる名君にござります」
「たわけ。名君なぞ柄ではないわ」
惣一郎は長い指先でぽりぽりと首の後ろを掻いた。
「それに」
惣一郎は言葉を継いだ。
「余がいきなり『名馬』になったのでは、躾ける右近も張り合いがなかろう」
「躾けるなど滅相もござりませぬ…」
言下に否定しながらも仙之丞の目が泳いでいる。
「駄馬なればこそ、右近も『この私がおらねばお家はたちゆかぬ』と、奉公に身が入ろうというものじゃ」
「と、殿ぉ‥」
仙之丞の本音を代弁した結果になったのか。
眉を下げて返事に困る仙之丞を見ていると、惣一郎は腹の底から笑いが込み上げてきた。
「藩主はな、少し間抜けなくらいで丁度いい」
「…さように申されては身も蓋もない」
へなへなと脱力する仙之丞を前に、
「見よ。だからこそ、右近やそなたのような有能な藩士が支えようとしてくれるのだ」
「はあ…」
「これこそ家中円満の秘けつなり」
「さ、さりながらっ…」
反論しかけたものの、後が続かぬ仙之丞であった。
(余に言いくるめられるとは、仙之丞もまだまだ他愛ないものよ…)
「なれど、余を名君にしたいというそなたの心、嬉しく思うぞ」
惣一郎は目を細めて鷹揚にうなずいた。
どこまでも忠義な仙之丞も、惣一郎にとっては右近と違った意味での『寵臣』なのだった。
駘蕩とした風に吹かれ、藩主・惣一郎は家臣と心通わせる幸せをかみしめていた。
そして、主従という垣根は決して越えられぬにせよ一一。
右近にかしずかれるだけではない。
一方的に寵愛するのとも違う。
惣一郎はじっと眸を閉ざし、右近と寄り添い支え合う未来に思いを馳せた。
つづく
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