あの日から10日。
拓巳は変わらぬ態度で陽歌に接していた。
時々冗談めかして「俺のこと好きになった?」と訊いてくるが、決して焦って答えを求める事をしない。
陽歌も冗談を返すように軽く流して誤魔化していたが、心は言葉ほどには軽くなかった。
添乗の間は仕事に集中し拓巳を意識しないようにしないとミスを連発してしまいそうで、あえて考えないよう努めた。
拓巳は持ち前の明るさで学生たちの人気を集めている。見るたびに男女を問わず声を掛けられて写真に収まっていた。
陽歌も拓巳ほどではないが学生達と一緒に記念写真を撮った。何度目に声を掛けられた時だったか、ふとカ強い視線を感じて振り返えると拓巳と視線が合った。
それからはカメラを向けられる度に視線を感じるようになった。特に男子生徒から声を掛けられたときの視線は痛いほどだ。目が合うとすぐに視線を逸らしてしまうのだが、明らかな嫉妬が窺われた。
少し前だったら不快に感じたかもしれない拓巳の嫉妬。だが今は、それを少し嬉しいと感じている自分がいることに、陽歌は驚いていた。
拓巳に惹かれ始めているのだろうか?
女生徒に囲まれ笑顔を作る拓巳の姿を、いつしか複雑な思いで見ている自分に、陽歌は気持ちの変化を感じていた。
先日の真剣な告白が、陽歌の中で小さな変化をもたらし始めていたのかもしれない。
夢の彼に恋する気持ちとは明らかに違う。だが拓巳を意識している自分を否定できなかった。
どこの誰かも分からない、そもそも実在する場所かも、存在する人物かすら分からない男性を一途に思い続けて10年。
日ごとに鮮明になる夢。
陽歌の中で想いは益々深くなっていく。
それと同時に言い知れない複雑な気持ちがこみ上げてくる。
何か大事なことを忘れているような焦り。
とても大切なものを失くしたような喪失感。
そして…
切ないまでに迫ってくる思慕。
こみ上げてくる感情に押し潰されそうになる。
これまでは漠然としていた思いが、今までに無いほど強くなっていく。
彼に会いたい…。
あの丘へ還りたい…。
一度も会ったことが無く、何処かもわからない場所。
それなのに、何かに駆り立てられるように、行かなければならないと感じていた。
陽歌は肌で感じ始めていた。
『その時』が刻々と迫っていることを…。
添乗から帰ってきてから3日後、陽歌は亜里沙と昼休みに近くのホテルのランチバイキングに来ていた。
「あれから拓巳とはどうなってるの?」
「…どうなってるって、あなたが拓巳に発破をかけたんでしょう? 拓巳が突然態度を変えてあんなに真剣に告白するなんてどう考えてもおかしいもの」
「アドバイスをしただけよ。陽歌も29歳になったんだから、そろそろ本気で結婚も考えないとね? いつまでも夢に縛られていたらおばあちゃんになっちゃうよ?」
大きな目を更に大きくしてハニーブラウンのふわふわした髪を揺らしてテーブルの向こうから身を乗り出してくる。
拓巳が突然真剣な告白をして来たのには、亜里沙の入れ知恵があったのは明白で、あんな事がなければ、多分先日の添乗でも、あんなにギクシャクすることはなかっただろうと思う。
いつまでも実在するかどうかも分からない夢の男性を想い続けている自分を心配してくれるのはありがたいのだが、だからと言って無理やりにでも拓巳と付き合わせようとする、おせっかいな行動が、今度ばかりは恨めしい気分になった。
「どうって…どうもないよ?」
心が乱れたなどと言えば、亜里沙を喜ばせるだけだ。
それはダイレクトに拓巳に伝わり、とんでもないことになるだろう。
亜里沙には悪いと思うが、今回ばかりは警戒して本音は言えないと思った。
「でも拓巳、ちゃんと告白したんでしょう? いままでで一番真剣に気持ちを伝えたって言ってたよ」
「う…ん。まあそうなんだけど…あいつの告白なんて年中行事と一緒で、お決まりのイベントみたいなものじゃない。それなのに今回に限って真剣で…どうして急に?って戸惑っているのよ」
フォークでパスタをクルクルと撒きつけながら曖昧に答える。
「年中行事って…本気でそう思っていたの? 拓巳はね、陽歌のこと入社した時から本気で好きだったんだよ。陽歌は分かっていると思ってたのに…罪作りね」
パスタを口に運んだ瞬間、亜里沙が放った一言に喉が詰まった。
「ムグッ!ゴホッゴホッ…罪作りって…私が拓巳を弄んでいるみたいじゃない」
「拓巳はずっと陽歌の事、本気で見てきたんだよ? 拓巳は陽歌が思っているようないい加減な男じゃないよ。陽歌を求める気持ちが強すぎて、時々耐えられなくなって、誰かに縋りたくなるだけなの。確かに何度か脇道に逸れちゃう事もあったけど、それは陽歌への気持ちを吹っ切ろうと足掻いていた時なのよ。…私は拓巳にそんな偽りの恋をしてほしくなかったから、その度に叱りつけてやったけどね」
「…じゃあ、あの噂は…私を諦める為に他の人と付き合っていたって言うの?」
「そうよ。拓巳だって辛かったのよ。それなのに陽歌は相変わらず夢の彼ばっかりで…私、心配なのよ。そろそろ拓巳だって限界だよ。知ってる? 拓巳に海外赴任の話があるって」
亜里沙は眉を潜めてきれいな髪をゆらした。
「知らない。初耳だわ」
「拓巳が断っているのは、陽歌と一緒に行きたいと思っているからだと思うの」
「…拓巳がそう言ったの?」
「……ううん、でも分かるのよ。私は…親友だからね」
「亜里沙は私にとっても親友でしょ? だったら私の気持ちも解ってよ?」
「ちゃんと解っているわよ。だからあなたには拓巳が必要だって思っているの。陽歌っていつもはしっかりしてるくせに、時々凄く脆いところがあるじゃない。傍にいて支えてくれる人が必要だって思うのよ。拓巳なら陽歌が求めているものを与えてくれると思うよ」
亜里沙の言葉に陽歌は胸が詰まった。
幼い頃、事故で両親を亡くした陽歌の過去を知っている数少ない友人である亜里沙は、彼女のメンタル面をとても心配していた。
早くに自立をしたため、何事も自分でこなし、人に頼ることをしない陽歌は強い女だと思われている。
仕事も出来、周囲の人望も厚いキャリアウーマンの彼女は、いつも完璧で隙を見せることをしない。
だが、本当は寂しがりやで、子どものように繊細な部分がある。過去の傷ゆえ、いつも誰かの腕を求めていることを亜里沙は知っていた。
「私は大切な親友の陽歌にも、拓巳にも幸せになってもらいたい。拓巳なら必ず陽歌を幸せにしてくれるし、陽歌だって、拓巳の女関係の噂の偏見さえ捨てれば、きっと彼を好きになるわ。あなた達はきっと幸せになれる。…お願い、陽歌。…夢から覚めて?」
真剣な亜里沙の瞳に、拓巳の想いが重なる。
心から自分を想ってくれる二人の気持が嬉しくて、陽歌は胸が熱くなった。
『今は辛くても、いつかきっと今日に感謝する日がくるはずよ』
不意に、ずっと昔、そう教えてくれた人の優しい声を思い出した。
ああ…あの人が言っていたことは本当だった。
懐かしい声に、ここ暫くの波立った気持ちがスウッと凪いでいくのを感じ、陽歌は静かに瞳を閉じた。
両親を亡くした時、陽歌は自分が世の中に一人ぼっちになったと思っていた。
自分を心配してくれる人も、自分を抱きしめてくれる腕も、全てを失ってしまったと心を閉ざしていた。
だけど、あのときの孤独を知っているからこそ、亜里沙の心遣いがこんなにもうれしいのだと、今なら解る。
心を満たす感謝の気持ち。
誰かに想ってもらえることの喜び。
自分は決して一人ぼっちではないのだと嬉しさが込み上げて来る。
ゆっくりと瞳を開くと、目の前には、眉間に眉を寄せ真剣に陽歌を見つめる亜里沙の顔があった。
その表情は、心配しているようにも、泣きそうにも見える。
陽歌は静かに微笑んで、素直な気持ちを告げた。
「ありがとう亜里沙、心配してくれて。…私、拓巳のこと少しずつ考えてみる」
「本当?」と亜里沙が瞳を輝かす。
彼女の表情に複雑な思いを抱えながらも「うん」と頷き微笑み返す。
「まだ、自分の気持ちに整理がついてないから、すぐには無理だけど、でも少しずつ変わっていけると思うわ。…でも亜里沙…あなたは…」
最後まで聞かずに「よかったぁ」と心からの笑みで安堵する亜里沙に、それ以上何も言えなくなった陽歌は、先にケーキバイキングへと向かった彼女の後姿を複雑な気持ちで見送り呟いた。
「亜里沙…あなたは…本当にそれでいいの?」
それから二人はバイキングのケーキと他愛も無い会話を楽しんだ。
陽歌は大切な人と過ごす僅かな時間を、とても大切にしている。
伯母や友人と過ごすひと時は、家族を失った陽歌にとってかけがえの無い宝物なのだ。
こうして亜里沙と過ごす穏やかな時間が永遠であってくれたらいいのにといつも思う。
その時、不意にどこからか声が聞えた気がした。
『たとえ僅かな時間でも、想いの強さがあれば永遠の時間に変えられるのよ』
陽歌の中には時々天から降るように蘇る言葉がある。
両親を亡くした直後の記憶の残像だが、その頃の記憶はとても曖昧で陽歌自身あまりハッキリと覚えている出来事は少ない。
思春期の多感な時期に受けた心の傷と、何度か繰り返した手術による麻酔の為、現実と夢が曖昧になっている記憶があるのだ。
だがその人の言葉は、今でも時々こうして断片的に思い出すことがある。
それはいつも突然で、その時の陽歌の気持ちを表す言葉であったり、救ってくれる言葉であったりするのだ。
桜の香りと嬉しそうに笑う涼やかな声が蘇る…。
優しい気持ちに包まれたとき、窓から射し込む夏のような日射しに5月の新緑が眩しく映った。
今朝の夢の風景が鮮やかに蘇る。
あの丘は、今、どこかで新緑に包まれているのだろうか。
「そうだ、この間彼と旅行に行ってきたの。お土産渡すの忘れていたわ」
自分の世界に逃避していた陽歌は、その声に我に還った。
亜里沙が思い出したように、カバンから小さな包みとポケットアルバムを取り出すのを見つめながら、
拓巳が「亜里沙に彼ができたらしい」と大騒ぎして、いつもの居酒屋に拉致してきた時の事を思い出した。
あれは1年近く前だっただろうか?
海外に出張していることが多い為、日本に帰ってきたときに二人で旅行に行って、色んな風景写真を撮ってくるのだと聞いているが、何故か風景写真ばかりだ。
高い場所や緑のある場所が好きなのだと、亜里沙は言うけれど、二人で撮った写真は愚か、亜里沙の写真すらない。こんな美人の彼女がいたら絶対に被写体にしたいのではないかと思うが、亜里沙は撮られるのは照れくさいのだと言って、その話題を避けたがる。
いつしか陽歌から二人の撮影旅行や彼について問うのはタブーのような暗黙の了解ができてしまった。
「本当に亜里沙の彼ってカメラが好きよね。最近は亜里沙もカメラを買ったんでしょ? 彼が選んでくれたの?」
亜里沙はそれについて深く語ろうとせず「うん、まあね」と軽く受け流し話題を打ち切ってしまう。相変わらず、彼については訊かれたくないらしい。
陽歌が追求を諦めてコーヒーを飲んでいると、「見て。ここ綺麗だったのよ」とアルバムを差し出された。
コーヒーをソーサーへ戻しつつ、左手でアルバムを受け取った。
「ここからの眺めが凄くよかったの。偶然立ち寄った診療所からの眺めだったんだけど、赤い屋根の可愛らしい診療所が小高い丘の上にあってね。周囲の緑が凄く綺麗で、まるで絵本の中から抜け出てきたみたいな風景だったのよ」
その時…陽歌の時が止まった。
手にしたコーヒーのカップが指から滑り落ちてゆくのが、コマ送りのようにゆっくりに見えた。
カップがソーサーの上に落ちた派手な音も、コーヒーが零れて制服を汚したことも、気付かなかった。
アルバムを落とさないよう震える指に力を入れ、その写真を凝視する。
そこに映っていたのは、夢で何度も見たはずのあの丘だった。
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