暁は自室の窓から、今にも泣き出しそうな空を見上げて溜息を吐いた。
雨を予感させる雲は、今朝より更に成長し、徐々に近づいてきている。暁の落胆とは裏腹に、庭の紫陽花は天の涙を心待ちにするように花を揺らした。
この様子では今日のサッカーの試合は雨の中は確実だ。天気予報が正しければ、最悪中止となる可能性も否めなかった。
窓を開け大きく身を乗り出し空を仰ぐ。
雲の流れの先に、天候回復の兆しが無いかと望みを掛けてみるが、その願いも虚しく、厚い雲の層は相変わらず太陽の光を僅かにも漏らすまいとするかのように広がっていた。
雷雨にならないことを祈りながら窓を閉めようとしたとき、彼はその人影がまだそこにいることに気付いた。
最初に見かけたときは、診療所に来た患者だと思っていた。
だがその後もその場に立ち尽くしたまま入ってくる様子も無い為、患者ではないらしい。
見知らぬ顔だが、ここには良くカップルやアマチュア写真家などがやってくるので、たいして気にも留めなかった。
長い坂道を上がった小高い丘の上にある診療所の前からは、天気が良ければ街を一望でき、遠くの山々が美しく尾根を連ねる姿までもが浮かび上がる。
私有地なのだが、父親の晃が「こんなに綺麗な風景を自分達だけで楽しむのはもったいない」といって、来るものは拒まずで開放しているのだ。
今では知る人ぞ知る絶景スポットで、口コミでやってくる人は後を絶たない。
だが、彼女はどう見てもそのどちらでもないようだった。
彼女は周囲を散策する様子も無く、今にも雨が降り出しそうな空と、水を含んだ大気に枝を震わせる木々を、ただ懐かしそうに見つめていた。
その瞳に大粒の涙を浮かべて…。
「なあ、父さん。あの人知ってる?」
彼女の涙が気になって、暁は晃に声を掛けた。
最初に彼女に気付いてから、既に2時間が経過している。
シットリと水を含んだ大気の中に立ち尽くしていれば、6月とはいえ、肌寒さを感じるだろう。
暁は晃と共に窓辺に立ち外へ視線を移した。
「この辺りの人ではなさそうだね。大き目のカバンを持っているし、旅行者じゃないかな?」
「観光って言っても、今日みたいな天気じゃ、ここからの眺めだって全然ダメだし、観るものなんて無いぜ?」
「そうだけど、もしかして道にでも迷ったのかもしれないよ」
「…そうかなぁ? あの人泣いてるみたいだぜ。ここから飛び降りたりしないよな?」
「縁起でもないこと言うなよ。高台にはなっているけど、これまでにここから飛び降り自殺なんてした人はいないよ」
その時、窓に小さな雨粒が落ち始めた。
ついに梅雨の空が耐え切れなくなって涙を流し始めたのだ。
「あー、降って来たなぁ。俺、ちょっとあの人に声をかけてくる。雨の中ずっとあの調子で立ち尽くしてたら絶対に風邪を引くからな」
暁が外へ出て行くのを、晃は窓辺に立って見ていた。
その女性は確かに泣いていた。
だが、その涙が悲しみの涙ではないと、晃は気付いていた。
晃には彼女がとても嬉しそうに見えたのだ。
息子が女性に声をかけるのを見守りながら、晃は言葉では形容し難い不思議な感覚に包まれていた。
いつもと同じ日常なのに何かが違うような…。
当たり前の風景の中に見たことの無い花を見つけたような…。
そんな感じだった。
「うちに用があるの? それとも観光?」
不意に背後から声をかけられ、陽歌は驚いて振り返った。
高校生くらいの男の子が、いつの間にか振り出していた雨が掛からないように自分の傘を傾けてくれている。
その顔が何度も夢でみた青年とそっくりだった事に驚き、大きく目を見開いた。
「今日はそれほど気温が高くない。このまま雨に濡れると風邪を引くよ。事情は解らないけど、随分思いつめているみたいだね。診療所で休めば少しは落ち着けると思うけど」
言われて初めて、陽歌は涙を流していた自分に気付いた。
慌てて手の甲で涙を拭い、もう一度少年の顔をマジマジと見つめなおす。
良く見ると、夢の彼とは髪や瞳の色は違うし、年齢も少し若い。それでも顔立ちはそっくりだった。
「…あなたは、この診療所の人?」
「ここは俺の父親の診療所だよ」
説明しながら
陽歌が濡れないように大きく傘を傾け、診療所の方向を示した。
ついて来いという仕草をする彼に雨が降りかかる。
自分の為に雨に濡れる少年を拒絶することはできず、陽歌は促されるままに従った。
診療所のドアを開けると同時に、まるで待っていたかのように雨足が強くなった。
計ったようなタイミングに驚いて後ろを振り返ると、暁もまったく同じ仕草で振り返っていた。
それが可笑しくて顔を見合わせると、その仕草がまた同じだった為、二人で同時に噴き出してしまった。
屈託無く笑う暁の笑顔に、陽歌は懐かしいような不思議な感覚に襲われた。
これも夢で見た光景だっただろうかと、思いを廻らせる。
その時、奥の部屋から白衣を来た男性が現れた。部屋から漏れる光と薄暗い廊下のせいで逆光になり、顔はハッキリと判らないが、この人が彼の父親なのだろうと思った。
「父さん連れて来たけど、診察希望者ではないようだよ。どっちで休んでもらおうか?」
「診察をしないなら診療所じゃなく客間へお通しして。今コーヒーを用意するよ」
白衣の男性が近付くと、光の方向が変わり、顔の影が消えた。
陽歌はあまりにも驚きすぎて声を失ってしまった。
そこには、夢の中より少し年を重ねた彼が立っていた。
涙が溢れだし、彼の姿が滲んでゆく。
濁流のように迫ってくる愛しさに、胸が押し潰されそうだった。
気が付いたら彼に歩み寄り、両手を伸ばしていた。
ただいま……晃…
無意識にそう呟くとそれが合図のようにふらりと視界が回った。
薄れゆく意識の中で、陽歌はもう一度その名を呼んだ。
…晃…逢いたかったわ…
自分の名を呼んで意識を失った女性を抱き上げると、晃は診療所のベッドに横たえた。
「やっぱり父さんの知り合いだったのか?」
そう訊かれても、晃には全く記憶には無かった。
「いや、知らない。でも、何だか懐かしいような気がして…。なんだろう? 初めて逢った気がしないんだ」
「あぁ、そうだな。俺もそう思ったよ。この人の瞳のせいかな? なんて言うか…温かくて優しくて…すごく懐かしい気がした」
「…多分、彼女の瞳が茜と良く似ているからだよ。星を散らした夜空のような綺麗な瞳だったね」
「…ああ…そうか。だからずっと前から知ってる人みたいな気がしたのかもしれないな」
二人は机の上の写真に目をやった。
そこには静かに微笑む茜の写真があった
「…父さん、彼女は誰だと思う?」
晃はベッドに横たわる陽歌を見つめ、記憶を探った。
「僕の名前を知っていたって事は、逢ったことがあるんだろうなぁ。記憶に無いんだけど…昔診た患者さんかな?」
「…それは無いだろ? 『晃先生』ならまだしも『晃』って呼び捨てにしてたぜ?」
「…そうだね。女性に『晃』なんて呼ばれたのは随分久しぶりだよ。…一瞬だけど、茜が還ってきたのかと本気で思った。…どうしてだろうね。彼女と茜は全然似ていないのに」
雨足は一層強くなった。晃は窓から庭を見下ろし茜の愛した花々が、強雨の痛みに耐える姿に眉を顰めた。
天が号泣し大地を洗い流す中、紫陽花だけがこの世で唯一の色であるかのように鮮やかに色を増している。
空は世界を灰色に覆うような雨雲で埋め尽くされ、遠くで雷鳴が轟き始めた。
どんな風景の中にも、晃は愛しい影を求めている。
紫陽花に幼い茜と出逢った日を思い、雷鳴の中に契りを交わした神殿の夢を見る。
どれだけ時を重ねても、決して色褪せることの無い想いが蘇り、晃の心を揺さ振り続けるのだ。
ただいま……晃…
陽歌の声が茜に重なり甘く響いた。
晃は思い出の中の愛しい影を抱きしめる。
亡き母の残した紫陽花を愛しげに見守る父を、暁は切ない気持ちで見つめた。
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