陽歌は夢を見ていた。
『私』のおなかには赤ちゃんがいて、時々暴れ出すその子を宥めては、愛を誓うその日の為のドレスを縫っていた。
純白の布に美しく浮かび上がる銀色のバラの刺繍は『私』が彼への永遠の愛を誓う意味を込めて一針一針刺したものだ。
静かに流れる幸福な時間。その傍らにはいつも彼が愛を囁き、優しく見守っていてくれた。
『私』は一面の銀世界の中、そのドレスを着てステンドグラスの下で彼と愛を誓った。
彼は「世界で一番綺麗だよ」と言い『私』に誓いのキスをした。
『私』はとても幸せだった。
このままずっと…幸せが続いて欲しいと願っていた。
それは陽歌が一番最初に見た晃の夢で、これまでにも何度も繰り返し見た内容だった。
ただ一つ違ったのは、これまで無音だった夢の世界に、この日初めて音が宿ったことだ。
現実世界で晃に出逢った今日、陽歌は初めて夢の中で彼の声を聞くことができた。
明るい笑い声。
何度も繰り返される愛の言葉。
そして彼は『私』を『茜』と呼んでいた。
涙が頬を伝い、意識が浮上してくる感覚。
視界が開けると、そこには見慣れない天井があった。
慌てて体を起こし辺りを見渡した陽歌は、窓際に立っている男性に目を惹かれた。
そこには長い間夢に見続けた彼が、少し年令を重ねて、穏やかな顔で微笑んでいた。
「目が覚めましたか? 僕はこの診療所の医師で高端と言います。君の名前は?」
「如月 陽歌です」
「如月さん、倒れたこと覚えている? 少し貧血気味のようだね」
「…最近は残業続きだったもので疲れていたのだと思います。…ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「迷惑? クスクス…ここは体調の悪い人が来る場所だよ? 倒れたから迷惑だなんて考えたことも無いよ。外は酷い雨だし、後で家まで送ってあげるね」
「家はこの辺りではないんです。友達から見せてもらった写真の風景を見たくて、有休を取ってきたんです。暫くは市内のホテルに滞在してゆっくりと過ごす予定です」
「じゃあホテルまで送ってあげよう。もう少しここで休んでいきなさい。必要なら元気の出る特大の注射でもしてあげようか?」
晃の冗談に表情の硬かった陽歌にもようやく笑みが零れた。
ちょうどそこへ、サイフォンで淹れたばかりのコーヒーを持った暁が入ってきた。芳醇な香りが診療室いっぱいに広がる。
暁は陽歌が目覚めたことに気付くと、すぐにカップをもう一客用意して、フラスコから琥珀色の液体を注いだ。
暁が差し出したコーヒーを受け取ると、フワリと挽きたての豆の香りが心地良く立ち上り、まだ混乱している陽歌を和ませてくれた。
晃の為に特別に調合されたブレンドだと説明されたが、この香りも味も陽歌は知っていた。
込み上げて来る懐かしい感覚に、何故…?と湧き上がる疑問。
コーヒーだけではない。
診療所にも、来客用のコーヒーカップにも見覚えがある。
それら全てが夢の残像なのか、それとも単なる錯覚なのか、次々と呼び起こされる記憶の断片に陽歌は困惑していた。
つい先日まで、夢の風景も、彼も、実在すると信じながらも、陽歌はそれを確かめることが出来ないでいた。
そんな場所が存在しなかったら…?
彼が現実に存在すらしなかったら?
仮に出逢えても、自分を愛してくれなかったら?
そんな事ばかり考えて、怖くて行動できなかった。
だが、亜里沙によって夢への扉が開いた。
そして勇気を出して確かめに来たこの場所で、ついに夢は現実となったのだ。
恋焦がれた男性が目の前にいる。
だが出逢って知り得たのは、彼が結婚しており子どももいるという現実だった。
素直に嬉しい気持ちと、失恋したような喪失感が混在した複雑な気持ちだった。
晃はまだ何かを思い出そうとするように辺りに視線を彷徨わせている、情緒不安定な陽歌を気遣わしげに見つめていた。
差し出されたコーヒーを口にして、ようやく「美味しい」と表情が和らいだ事にホッとして、自分もカップへ手を伸ばす。
だがその手はカップに触れる直前にピクリと止まり、視線は陽歌に釘付けになった。
陽歌は一旦カップをテーブルに置きミルクをコーヒーに浮かべた。一旦沈んだミルクが浮かび上がって琥珀の上に白い層を作る。
彼女はそれを混ぜる事なく二層に重ねたままゆっくりと口に運んだ。
ミルクを混ぜずに浮かべて楽しむ独特のコーヒーの飲み方。
カップを持つときにピンと小指が伸びる癖。
一口飲むたびに香りを楽しむように瞳を閉じる仕草。
その全てが茜と重なり、晃は驚きの余りカップを手にすることも忘れ、陽歌を凝視していた。
視線を感じたのか、陽歌が顔を上げた。
視線が合うと照れたように肩をすくめて微笑み、再びコーヒーへと視線を戻した。
一つ一つの仕草が余りにも似ていて、まるで茜がそこにいるようだった。
決して顔が似ているわけではない。
それなのに、彼女の全てが愛しい影と重なり目を逸らすことができない。
指の震えを誤魔化そうと、ギュッと手を握り締める。
晃はカップに触れることが出来なかった。
「如月さんはこの土地は初めて?」
「いいえ。実は子どもの頃、この町に住んでいた事があるんです。…もう16年も前になりますけれど、その頃はこんなに素敵な場所が近くにあるなんて知りませんでした」
「16年前か。その頃はまだここは診療所じゃなかったからね。今のように庭を一部開放したのは僕が父から譲り受けてからなんだよ」
「そうなんですか。だから知らなかったんですね。…知っていたら一度は両親と来ていたと思います。両親は夜景が大好きでしたから」
「今度はご両親と一緒に来るといいよ」
「…いいえ。両親は私が中学生になる春に事故で亡くなりました。この土地を離れたのも伯母に引き取られたからなんです」
「ああ…ごめんね。悲しい事を思い出させて」
晃が眉を潜めて言うと、陽歌は「もう随分前のことですから」と微笑んでみせた。
どんなに時が流れても、愛しい人を失い心に空いた穴は簡単には埋まらない。時間に癒され痛みが僅かに薄らいだだけで、欠けた部分はいつだって空虚で、ふとした時に疼くのだ。
彼女の気持ちが痛いほど解るだけに、晃には陽歌の強さがどこか危うく見えた。
「君は昔を懐かしむ為にこの土地へきたの? 確かに景色は良いけれど、他に観光するところもないし、君のような若い娘さんが有休を使ってまで見にくる所じゃないと思うんだけど」
如月と言う名に記憶は無かったが、彼女が自分を知っている理由を知りたくて、徐々に質問の幅を広げていった。
陽歌が話す度、その仕草が茜に重なる。
それは単に茜に似た瞳を持ち、良く似た仕草をするからだろうか?
それとも、晃の中に浮かんだ一つの可能性を意味しているのだろうか?
『ただいま』というあの言葉は、何を意味するものだったのだろうか?
晃は慎重に言葉を選びながら、陽歌に質問を重ねていった。
「夢を見るんです。18歳の頃から、この丘の風景やあなたの夢を見るようになりました。
もしかしたら、私が子どもの頃にあなたと会った事があるのかもしれません。でも少し違うような気がするんです。夢の中では私はあなたにとても近い存在で、あなたをとても愛しているんです」
陽歌の衝撃的な告白に、晃は一瞬言葉を失った。
「初めて見た夢は今でも忘れられません。真っ白な雪景色の日、私はあなたと教会で結婚式を挙げるんです。私のおなかには赤ちゃんがいて、とても幸せで…」
晃の目の前に鮮やかにあの日の幻影が蘇る。
陽歌が語る夢は、短い時間を燃え尽きるように激しく心を寄せた日々だった。
「他にはどんな夢を見たの?」
晃は声が震えないよう、静かに先を促した。
心に浮かんだ一つの可能性を、有り得ない事だと否定してみても、確信は益々強まっていく。
それを裏付けるように、陽歌は次々と二人しか知り得ない出来事を語っていった。
「大きな枝垂れ桜の下で、ゲームをするんです。舞い落ちてくる花びらを先にキャッチしたほうが勝ち。負けたほうがバツゲームで相手の言うことを聞くんです」
「…どちらが勝ったの?」
聞かなくても結果は晃が誰よりも知っていた。
そのバツゲームがどのようなものだったかも、決して忘れることができない。
「あなたの勝ちでした。バツゲームは……良く覚えていません」
頬を染めて誤魔化す陽歌は、バツゲームも二人が過ごした初めての夜も、全て記憶しているのだろうと確信した。
「じゃあ…ホタルの夢をみたことは?」
「あります。ホタルが舞い踊る中であなたは結婚しようって言ってくれました。…私はずっと迷っていました。あなたと生きることは許されないことだと思っていました」
陽歌はその情景を思い出すように瞳を閉じた。
彼女の瞼の裏には、二人が共に生きることを誓ったあの夜の風景が写っているに違いない。
記憶が茜のものであることは疑う余地がなかった。
生まれ変りという言葉が脳裏に浮かんだ。
だがそれは陽歌の年齢を考えると直ぐに否定された。
理由は解らない。だが、目の前に茜の記憶をもった女性が居るという事実に、体が震えて止まらなかった。
「茜…君なのか?」
震える腕で晃は陽歌を抱きしめていた。
その瞬間、陽歌の中から堰を切って何かが溢れ出した。
濁流のように流れ出す晃と過ごした記憶。
胸を引き裂かれるような悲しみ。
溢れるほどの愛しさ。
自分のものではない感情の波にさらわれて、陽歌は混乱していた。
「待っていたよ。…君が還ってくる日をずっと」
晃は陽歌を引き寄せ、静かに口づけた。
唇に触れた体温。
柔らかな感触。
一瞬頬を掠めた髪の柔らかさ。
そして懐かしい香り…。
何もかもが大好きだった。
太陽のように温かくて、優しい、陽だまりのような人…。
晃…逢いたかったよ…。
陽歌の中で誰かが微笑んだ。
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