きみの瞳に映るもの 〜過去への旅〜

年齢制限はありませんが、ちょっと無理矢理なシーンが含まれます。小中学生はご両親に許可をもらってね


ホテルにチェックインした陽歌は、荷物を解く気力もなくベッドに突っ伏した。
余りにも色々なことが一度に起こった為、情報処理機能はショートし、放心状態だった。
とりあえずシャワーでも浴びて気持ちを切り替えようとするが、体は鉛のように重く、まったくいう事を利いてくれない。
陽歌は諦めてベットにゴロンと仰向けになると、今日までの出来事を紐解くように思い出し、気持ちを整理していった。

亜里沙からあの場所が隣県だと聞いて、意外にも近かった事に驚いたが、詳しい住所を見て、かつて両親と暮らしたことのある町だった事に更に驚いた。
妙な因縁を感じ、直ぐにでも行かなければいけない衝動に駆られた陽歌はその日のうちに有休を申請した。

そして今日、朝から騒ぎ出す胸を押さえ、特急と普通電車を乗り継いで二時間弱の懐かしい土地へとやって来た。
目的地まではそこからバスで15分だったが、1時間以上の待ち時間があるため、歩くことにした。
思い出すのが怖くて、隣県でありながら訪れる事のなかった街は、あまり変わっていなかった。
街並みに家族の思い出が蘇ってあの日に還った錯覚に陥る。
街を散策すると、あの頃、塾を終えて母親の迎えを待った駅前の本屋はコンビニに変わっていた。
両親と住んだ古い木造二階建てのアパートは、大きなマンションに建て替えられていたが、アパートの傍にあった桜の老木は今もそこにあった。
両親との思い出が鮮やかに蘇り、胸が熱くなる。
幸せだった時間は今もこの街に生きているのだと強く感じた。

悲しみの深いこの地に還ることなど、二度とないと思っていたが、時は陽歌を再び呼び戻した。
ようやく両親の死を受け入れ、前に進むときが来たのだと陽歌は思った。
両親の死から16年…。
深い心の傷から立ち直るには、両親と過ごした以上の時間を要していた。

陽歌は街を歩きながら、記憶の断片を拾い集めていた。
かつての自分の記憶なのか、それとも夢の中の出来事なのかが曖昧で、記憶を掘り起こしながら丘までの道のりを歩いてゆく。
緩やかな坂道を一歩進むたび、期待と不安で心拍数が跳ね上がっていった。
やがて目の前に草原が開け、その先に見覚えのある赤い屋根を見つけたとき、胸に迫る感情が苦しくて涙で視界が滲んだ。
どのくらいその場所に立ち尽くしていたか解らない。
吹き渡る風の声。大気に満ちる水の音。サラサラと木々が奏でる命の子守唄。
それらの懐かしさに身を委ねると、これまでに見た夢が走馬灯のように脳裏に浮かんでは消えていく。
夢と現実が一つに絡み合い解けていく感覚に身を委ねていた時、暁の声が陽歌を引き戻した。

そして晃と出逢った。

晃が結婚していたこと、暁という子どもがいること、そして夢が亡くなった晃の妻の記憶である事までもが一度に判り、夢と現実のギャップに混乱した。

診療所で見た夢で、茜と呼ばれていた自分。
『茜…君なのか?』と自分に向けられた晃の問い。
濁流のように流れ込んできた記憶。
晃を思い続けてきたこの気持ちが誰のものなのか、今は分からなくなっていた。

あれは恋愛感情などではなかった。
理由は分からないけれど、晃先生の奥さんの記憶が私の中にあって、晃先生に恋をしていると錯覚しているだけだったんだ。
もう忘れよう…。
この気持ちは私のものじゃない。
亡くなった人の感情に振り回される必要はない。
私は私の恋をすればいいんだ。

必死に言い聞かせてみても、晃を愛しいと思う気持ちは消える事無く、むしろ時間を追うごとに強くなっていく。
初めて聞いた声。初めて抱きしめられた腕。初めて触れた唇。
何もかもが初めてのはずなのに、陽歌は全てを知っていた。
それが嬉しいのか、哀しいのか、それすら混乱した頭では分からなかった。


その時、陽歌の思考を断ち切るように携帯が鳴った。
表示は拓巳だった。
躊躇っていると一旦切れ、また直ぐに鳴り始める。陽歌が出るまで何度でもかけてくるつもりなのだろう。
パンクしそうな頭で、更に拓巳の事まで考えられそうになかったが、無視を決め込むことはできそうになかった。

「もしもし、どうかしたの?」

『陽歌?おまえ一人でどこ行ってるんだよ』

「どこって…どこでもいいでしょう?」

『女の一人旅なんて危ないだろう?』

「どうして旅行って知ってるのよ」

拓巳には何も言わずに来たが別に付き合っているわけでもない。有休はまだ1日目だし、風邪で休んだと思われても不思議ではないのに拓巳は事情を知っているようだ。
ゴメンと手を合わせて舌を出す亜里沙が浮かんだ。

「…亜里沙から聞いたのね?」

『ああ、教えてくれたよ。で、心配だから追いかけろって言われた。今から俺もそこへ行くから』

「はあ? 今からって、仕事はどうしたのよ?」

『今朝、亜里沙が勝手に半休申請を出したらしい。知らないうちに午後から休みになってた』

亜里沙の信じられない行動に思わず呻き声が上がる。
亜里沙が拓巳に発破を掛けたことは明白だったが、ここまでするとは思わなかったのだ。しかも仕事に関しては真面目な拓巳が、追いかけてくるなんて驚きだった。

『あいつ、お前が両親と住んでた土地で色々思い出して不安定になるんじゃないかって、すげぇ心配してんだよ。しかも夢の男に会いに行ったんだろ? 一人で行かせた事を後悔してたぜ。どうして亜里沙に前もって言わなかったんだ?』

「…一人で来たかったのよ。亜里沙に言ったら絶対についてくると思ったから、出るときに駅でメールを入れたのよ」

『ったく、心配ばっかりかけやがって。で、夢の男ってのには会えたのか? んなもんいなかったんだろ?』

説明できず黙り込んだ事で逢えたと理解したらしく、 明らかに拓巳の声の調子が変わった。

『…っくしょう! マジかよ? 陽歌逃げんなよ。今すぐそこへ行くからな』

「ちょ…ちょっと待ってよ。私がどこに泊まっているかなんて知らないくせに…」

『バカかお前。何年旅行会社に勤めてんだよ。端末の宿泊手配記録見りゃそんなモン判るに決まってんだろ?』

言われてみればその通りだと、陽歌は自分が明らかに普段の冷静さを欠いていることを知った。
この状態で拓巳に会っても、とても冷静に今日の出来事を説明できる自信は無かった。
しかも明日は晃と約束があるのだ。記憶の事でどうしても会って欲しい人がいるのだと言われ、断ることができなかった。

「…ごめん。心配してくれるのは嬉しいんだけど来てもらっても困る。拓巳には直接関係のない事だし、まだ分からないことだらけで、私も混乱しているから…今は誰にも会いたくないの」

『……』

「ごめんね本当に。帰ったら私から連絡するし、ちゃんと二人には説明するから。じゃあね」

返事を待たず電話を切って携帯をベッドの上に放り出す。
二人の気持ちは嬉しいが、今は自分の中のもう一人の感情を持て余して混乱している状態だ。普通の精神状態ではないボロボロの自分を誰にも見せたくなかった。



その時、部屋の呼び鈴が鳴った。

瞬時に晃が浮かんだのは、別れ際に陽歌の記憶の原因について、何か判ったらすぐに連絡すると言っていたからだ。
逸る気持ちを抑えて鍵を外した。

「晃先生、何かわかっ…きゃあっ」

わずかに開けてしまったドアが、バン!と大きく開け放たれる。
突然自分以外の力で押し開かれたドアの勢いに、陽歌は数歩弾かれた。
晃だという思い込みが警戒心を薄くして、相手を確認せずにドアを開けてしまったのが間違いだったのだ。
血相を変えて入ってきたのは、たった今話していた拓巳だった。

話の雰囲気からまだ会社にいるとばかり思っていた陽歌は、突然の事に直ぐに状況が理解できなかった。
「どうして?」と問う間もなく、強く肩を捕まれ壁に押し付けられる。

一瞬の出来事で、状況を把握するまでに時間が掛かった。

「誰だと思った? そんなに簡単にドアを開けるなんて、襲われても文句は言えないぜ?」

ゾクリとする言葉と共に、唇が押し付けられた。
必死に逃げようとしても強い力で肩を押さえつけられ、片手で後頭部を押さえ込まれては、女の力で抵抗できるはずもなかった。

恐怖がせり上がってくる。

どうにか動かせる指だけで必死の抵抗を見せ、手が触れた部分に強く爪を食い込ませたが、拓巳は微動だにせず、腕は緩むどころか益々強くなった。

息苦しさに涙が滲む。

遠のき始めた意識の中、晃の顔が脳裏に浮かんだ。


「…い…っや…ぁっ!」


陽歌自身何をしたのか解らなかった。
ただ夢中で抵抗して何かに噛み付いてしまったらしいと、口の中に広がる鉄の味と緩んだ腕で理解した。
唇を伝う生暖かいものを拭うと、手の甲が血で染まった。
噛み付いたのが拓巳の唇だったのか自分の唇だったのかさえ解らないほどに神経が高ぶって、痛みは感じなかった。
数歩飛びのき、拓巳を睨みつける。
そこにいたのはいつもの明るい拓巳ではなかった。
苦しげに顔を歪め、哀しそうに自分を見つめている男を、陽歌はまるで初めて会った人のように見つめた。


…ごめん、陽歌


皺枯れた声を絞り出し、それだけ言うと、拓巳はいきなり自分の拳を壁に叩き付け、その場に崩れるように座り込んだ。
立てた膝に額を押し付け、両手で頭を抱え込むと、微動だにしなくなった。
肩を落とす痛々しい姿を見つめ、陽歌は亜里沙の言葉を思い出していた。

『拓巳はね、陽歌のこと入社した時から本気で好きだったんだよ。陽歌は分かっていると思ってたのに…罪作りね』

拓巳の優しさに甘えていた。唇の間に挟んだ一本の指、あれが彼の限界だったのだ。

『そろそろ拓巳だって限界だよ』

亜里沙の言葉が胸に痛い。
拓巳を追い詰めたのは自分だと痛感した陽歌は、これ以上咎める気持ちにはなれなかった。

「…拓巳、顔を上げて。病院へ行こうよ。壁にヒビが入るくらいの力で殴るなんて…バカね」

「…陽歌…俺、どうかしてた。お前が夢の男に会えたんだって思ったら、すげぇショックで…。しかもお前は相手を確かめもせず無防備にドアを開けた。『晃先生』ってその男だろ? 知り合ったばかりの男を信頼しきっているお前を見たら…もう何が何だか解らなくなったんだ。…本当に…ゴメン」

俯いたまま震える声で詫びる拓巳に、陽歌はもう一度顔を上げるように頼んだ。

「…病院へ一緒に行くって約束するなら今回だけ許してあげるわ」

許してもらえると思っていなかった拓巳は、思わず驚いて顔を上げた。目には薄っすらと涙が滲んでいる。
いつもの自信はどこへやら、情けない顔で放心する拓巳を正気に戻す為、陽歌はビシッと額を弾いた。
「イテッ」と顔を顰める拓巳に拳を突き出すと陽歌は鮮やかな笑みで言った。

「今度こんなことしたら原型が無くなるまで殴るからね」





それから二人はホテルから車で10分ほどの所にある総合病院へと向かった。
そこは陽歌が事故の後入院していた病院だった。

病院は何も変わっていなかった。
苦しかった記憶の中にも、優しく接してくれた先生や看護師さんの思い出が蘇ってきて、懐かしい病棟を訪れてみたくなった。
拓巳が診察を受けている間に、小児病棟へとやって来た。
もう知っている看護師さんもいないだろうと思うと、何だか急に寂しくなった。
ようやくここへ足を向けることが出来るほどに回復したのだと、感謝の気持ちを伝えたい人は、もういないのだと思うと泣きたい気持ちになった。

その時、ナースセンターの奥から、一人の看護師が陽歌に声を掛けた。 「どなたかの面会ですか?」と優しく問いかける声に振り返ると、そこには陽歌が忘れもしない看護師が立っていた。
彼女は入院中の陽歌の世話を誰よりも親身になってしてくれた新米の看護師で、名前は近藤 幸江(こんどうさちえ)と言った。
30代半ばになった彼女は、随分と貫禄が出て全体的にはふくよかになったが、童顔でクリッとした丸い目は変わっていなかった。
退院する日、ボロボロと大粒の涙を流し陽歌を見送ってくれた事を思い出す。
彼女が覚えていてくれることを願いながら思い切って声を掛けた。

「こんにちは、幸江さんお久しぶりです。如月…いえ、和泉陽歌(いずみはるか)です。覚えていますか?」






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