きみの瞳に映るもの 〜雨の神殿〜



晃は住宅街の外れにある、ヨーロッパの貴族の屋敷をそのまま移したような、大きな洋館の前にいた。
茜と蒼が生まれ育った『光林家』は、今は『沖崎家』となり蒼と結婚した右京が娘の杏と三人で住んでいる。
午後からの雷雨の為、今日はいつもより闇の訪れが早く、夕刻にも関わらず部屋には温かな照明が灯されていた。
古いものだがかなりしっかりした建物で、二人の曽祖父に当たる人物がヨーロッパから日本に移住した際に建てた物だそうだ。
詳しいことは解らないが、なんでも二人の先祖に当たる人物は数百年前に滅した小国の王家の出らしい。一度だけ写真で見た茜の父親は銀の髪にアメジストのような紫の瞳をしていた。

茜の両親は彼女の病を治す唯一の方法を知っていて、それを手に入れようとして死んだのだと、いつか茜が言っていたことがある。
薬の効かない彼女の病が、かつて王家にかけられた呪いによるものだと信じていたらしい。
晃は呪いなど信じていないが、茜が治る魔術があるというのなら、やはり藁にも縋る思いで信じたかもしれない。

どんな些細なことでも、彼女を救う可能性があるのなら、命に代えても助ける覚悟はできていた。
自分の命を捧げて彼女の病が治るならと、何度望んだだろう。

過去を振り返ると後悔しかない。
もっと出来る事があったのではないかと思うたびに、晃は罪悪感に苛まれる。
茜を生かせなかった罪。
茜を逝かせてしまった罪。
彼女を救えなかった痛みを抱え、晃の時間はあの日に止まったままだった。

アプローチを横ぎり、屋敷には不似合いな大きな松の木を見上げる。
この松には精霊が宿っているのだと言った茜を笑い飛ばし怒らせた記憶が蘇り、小さな笑みが零れた。

インターフォンを押すと軽やかな声がして、腰までの黒髪を揺らした茜と瓜二つの笑顔が出迎えてくれた。
茜が逝ったあと、あまりにも似ている蒼に会うの辛かった時期もあった。
だが、どんなに同じ顔でも蒼は蒼、錯覚する事は無かったし、別人だと自分の中でハッキリと認識できた。
なのに今日の自分はどうだ? と、晃は自分に問いかけていた。
科学的にはどう考えても理解できない事実だが、如月陽歌という女性が茜の魂を宿していると心が信じて疑わないのだ。

晃は明日、蒼に陽歌を会わせたいと思っていた。カウンセラーでもある彼女なら、この不可思議な現象について何か分かるかも知れないと思ったからだ。
双子の深い絆ゆえか、生まれ持った特殊な能力のせいか、蒼は今も茜を強く感じることがあるのだという。晃はそれを自分もふとした時に自然の中に感じる、護られているような気配と似たようなものだろうと解釈している。
非科学的で誰かに話したら馬鹿にされそうな事も、彼女は当たり前のように受け止める。今回の事も偏見を持たず受け入れてくれるだろう。
今日の出来事をどう説明しようかと考えながら、サイフォンでコーヒーを淹れる蒼の手元を見つめた。
対面式のキッチンの向こうから芳しい香りがリビングまで流れてくる。
茜にプロポーズした次の日にも、同じ光景を眺めた事を思い出し、懐かしさに頬が緩んだ。

「なぁに? 今日の晃君は変よ。突然難しい顔をして訪ねてきて、ずっと黙りっぱなしだと思ったら、急に思い出し笑いなんかして…。最近疲れてるんじゃない?」

「クスクス…違うよ。ちょっと思い出したんだ。僕が『誕生日に結婚式を挙げる』って言った時の事」

「ああ…あの時の事? もう随分前の事なのに、まるで昨日の事のようね。あの時も突然、今日みたいな雷雨になって、あなた達ずぶ濡れになって帰ってきたじゃない。茜が風邪を引くんじゃないかと随分心配させられたわ」

「アハハ…あの時の右京は可哀想だったね。僕たちを置いて先に帰ってきたことを蒼に責められてたっけ。仲直りをさせる為に気を遣ってくれたのに…」

晃は楽しそうに笑い、その時の事を振り返った。



+++


茜にプロポーズをした翌日、二人は茜の自宅で待つ蒼と右京に、婚約の報告にやって来た。
インターフォンを押すと、5秒と待たず二人が飛び出してくる。前夜茜が帰らなかった為、プロポーズは成功したのだろうとは思ってはいたが、晃からは何の連絡もない上に携帯もメールも繋がらず、二人でヤキモキしていたらしい。
明らかに寝不足の二人には眩しく感じる太陽のような笑顔で晃は言った。

「茜にはプロポーズにOKしてもらえたよ。もう帰すつもりはないから、今日は身の回りの荷物を持ち帰るよ」

「はぁ? ついに恋のウィルスに侵されて思考回路がぶっ飛んじまったらしいな。こっちは一晩中心配していたのに来るなりそれかよ? OKしてもらったからって、舞い上がってんじゃねぇよ。心配してたこっちの気持ちも考えろよな」

「…あぁ、右京はともかくとして、蒼には悪かったね」

「俺はともかくって…ひでぇやつだな」

「だって二人も甘い夜を過ごしていると思っていたんだよ。連絡なんて野暮かなって思ってさ…っ!イテテッ」

右京は赤面し晃の脛を蹴り上げた。
蒼はクスクスと笑いながら、部屋の隅に詰まれたダンボールを指差した。

「茜の荷物なら昨夜のうちに右京に手伝ってもらって整理しておいたわ。とりあえずこれからの季節に必要な夏物が中心だけど。冬物は時期が来たらまた取りに来ればいいでしょ?」

これには茜も驚き「どういうこと?」と目をむいたが、蒼は平然として言った。

「もしもプロポーズを断って帰ってきたら高端家に強制送還するつもりで用意したのよ。この家に茜の部屋はもうないわ。あなたは今日から晃君と暮らすのよ」

「強制送還って…私の意志は無視? 右京〜っ。あなたまで荷造りに協力することないじゃない。そんなに私を追い出したいの?」

泣き真似をする茜に、右京は赤かった顔を青くしてオロオロした。
二人の行動が茜の幸せを心より望んでいるからこその、愛ある強硬手段である事は茜も理解している。
だが今朝からの晃の暴走に加え、蒼までもが追い立てるように荷物を用意していたことに、自分の意志を無視して物事が進んでいくことに苛立ちを感じていたのだ。

右京の言うとおり、晃は舞い上がっていたのだろう。
普段の冷静な彼なら、茜の気持ちに敏感に気付いていたはずだが、少しでも早く夫婦になりたいという焦りが晃を盲目にしていた。

「実は…明後日の僕の誕生日に結婚式を挙げようと思うんだ」

「…明後日結婚式って…おまえ、いくらなんでも急すぎるだろ? 準備だって何もしてないくせに。しかも平日だろ? そんなに急じゃ身内だって出席できないかもしれないぜ?」

今朝、自宅で茜を驚かせた爆弾を再投下した晃に、茜は大きな溜息を吐き、助けを求めるように二人を見た。
余りに急な話に右京はおめでとうと祝福するべきか、ちょっと待てとアドバイスするべきか、暫く悩んで茜と晃の顔を見比べた。
茜が右京に賛同しウンウンと大きく頷く。それを見た晃は渋い顔をした。
幸せボケで盲目になっている晃に比べ、茜は明らかに困っている。結婚式の主役の花嫁が同意しないのであれば、ここは茜に味方すべきだろうと判断した。

「それに茜は未成年だぞ。親権者の…茜の場合は両親が亡くなっているから後見人の俺の親父たちの了解が必要だ。んな簡単に結婚するったって無理だって」

「そうよ晃君。結婚式には反対しないけど余裕が無さ過ぎるわ。フランスにいる沙紗姉さんにも帰国して貰わないといけないもの。こんなに突然なんてとても無理よ」

「やっぱり双子だね。茜も今朝、同じ事を言ったよ。だからすぐに沙紗には連絡をして帰国を頼んだよ。驚いていたけど喜んでくれた。瑠衣も一緒に出席してくれるってさ。文句ないだろ? ついでに今ロサンゼルス滞在中の沖崎孝宏氏には連絡済だ」(※沖崎孝宏=『FOUR SEASONS』参照)

「はあっ? なんで親父がロサンゼルスにいるって知ってるんだよ」

「日本を代表する有名俳優だぜ。次回作のハリウッド映画は既に話題になっているし調べればすぐに解るさ。スケジュールが調整でき次第、自家用ジェットで緊急帰国するって」

どうだと言わんばかりの周到さに蒼も右京も舌を巻いた。
長女の沙紗の婚約者、瑠衣までもが帰国するというのであれば、蒼に反対することはできない。しかも後見人である両親をアメリカから呼び戻す念の入れように、右京は思わず唸った。
執着心の薄い彼がここまで強引なやり方をするのは珍しい事だ。 こうなると誰にも止められないことは、過去に周囲の大反対を押し切って留学した経緯からも良く解っている。
暴走した晃を宥める術は無く、茜に同情した右京は深く溜息を吐き肩をすくめた。その仕草を「どうせ止めても無駄なんだろう? 好きにしろよ」という意味だと勝手に解釈した晃は勝利の笑みを浮かべた。
だが茜は強引な晃のやり方に納得できないでいた。

「無理よ晃。ドレスもブーケも用意しなくちゃいけないのよ。時間が無さ過ぎるわ。こんなのは嫌。私の意見も聞いてよ」

「ドレスなんてレンタルですぐに用意できるだろ? ブーケだって花屋に言えば無理にでも作ってもらえるさ。なんでそんなに渋るんだよ?」

結婚式に後ろ向きな発言に晃は珍しく苛立ちを露わにし、声を荒げた。
昨日は勢いに押されてプロポーズに応えたが、本当は結婚なんてしたくなかったのでは無いか?とか、もしかして茜は初恋の右京の事を忘れていないのではないか?とか、普段なら絶対に考えないことばかりが脳裏に浮かび、胸の中にどす黒い気持ちが芽生えてくる。

長い付き合いの右京は晃の変化に気付きストップを掛けようとしたが、もう遅かった。
晃は基本的に人と争う事を嫌い、出来るだけ穏便に物事を進める平和主義者だ。
だが、ひとたび譲れないと決めると突然強引なタイプに豹変する事がある。まるで別人格が乗り移ったかのように俺様で強引な男になるのだ。

「僕と結婚するって決めたんだろ? それとも今になって結婚するのが嫌になったっていうのか?」

「そんな事言ってないでしょ? 別に結婚が嫌なんじゃないわ。でも生涯でたった一度の事だから、ちゃんと時間を掛けて準備したいだけよ」

「準備が間に合えば文句は無いだろう? 手配は全て僕がするからお前は黙ってみてろ」

茜の気持ちを全く無視した俺様発言に「バカ」と右京が小さな声で呟いた。
当事者である茜を蚊帳の外にして全てを進めようとする強引さにプチッと切れた茜は、キッと晃を睨みつけると怒鳴りつけた。

「晃のバカ! どうして何もかも一人で決めちゃうのよ。それじゃ意味が無いじゃない。そんなに結婚式がしたかったら一人ですればいいわ。晃なんか大嫌いっ!!」

派手な音を立てて部屋を出て行く茜を冷たく見送った晃は、後を追う事なく悪態をついた。
茜を愛しく思うからこその行動を否定され、苛立ちは更に募った。

「……クソッ、嫌じゃなかったら何でだよ。説明くらいして出て行けよ」

「バカかお前? 『お前は黙ってみてろ』だなんて、自分がどれだけ酷いことを言ったか解ってんのかよ」

「僕が悪いって? 僕はただ茜と一日も早く夫婦になりたかっただけだ。茜も同じ気持ちでいてくれると思っていたから、結婚式が少しでも早いのは喜んでくれると思っていたのに…。何であんなに渋るんだよ。一度は別れる決意をして、それでも受け入れてくれたプロポーズだったはずだろう?」

「…今日のお前は俺が知っている中でも最高に最低な男だよ、晃。どうして茜の気持ちを考えてやれないんだ? 結婚式は二人が未来を誓う儀式で一人でするものじゃない。お前だけが熱くなってどうするんだよ」

右京はそういい捨てると、窓の外へと視線を移した。
徐々に広がり始めた雨雲は、既に今朝の青空を残さず埋め尽くしている。今にも泣き出しそうな鉛色の空に雨の気配を感じた右京は顔色を変えた。

「…ヤバイな、降り出しそうだ。茜を呼び戻さないと、雨に濡れて風邪でも引いたら命取りだぞ」

三人の間に緊張が走る。
部屋を出ようとした晃を、右京が肩を掴み引き止めた。

「待てよ、晃。今のお前が迎えに行っても茜は戻らない。俺が行くから少し頭を冷やせ。茜はお前を否定したわけでも、結婚を拒絶したわけでもない。彼女が何を言いたかったのか考えてみろ。それが解ったら迎えに来い。どれだけ考えても解らないヤツに茜を幸せにすることなんてできないぜ。その時は茜を諦めろ。…後見人の息子として茜を幸せにできない男に彼女を渡すことは出来ない。親父だって同じ事を言うだろうからな」

右京の気迫に息を呑む。茜に続いて右京までもが怒りを露わにしたことで晃は呆然とした。
茜の行きそうな場所を蒼から聞き、外へ飛び出していく親友の後ろ姿を見つめながら、先ほどの右京の台詞を心の中で反復する。

『どれだけ考えても解らないヤツに茜を幸せにすることなんてできないぜ。その時は茜を諦めろ』

茜を諦めるなど出来るはずがない。確かに多少冷静さを欠いていたかもしれないが、時間に追われる二人だからこそ、一秒でも早く一秒でも長く夫婦として共に生きたいと願うのは茜だって同じだと思っていた。それなのに何故? と浮かんでくるのは疑問ばかりだった。

「晃君って、もっと頭の良い常識人だと思っていたけど、結構鈍感でバカなんだね?」

蒼が呆れたように言うのを聞いて、晃はこの部屋に残っているのは自分だけではなかったのだと思い出した。

「…どういう意味さ」

ムッとする晃に蒼はソファーに掛けるように促す。
晃はゆったりとしたソファーに沈み込むように体を投げ出すと、イライラと腕を組んだ。

「茜がどうして結婚を急ぎたくないのか解らないなんて…。女心が解っていない鈍感でバカな男ってこと」

「右京なら解るっていうのか?」

空手バカの右京に女心なんて繊細なものが解るわけないと晃は笑った。

「確かに、右京は気が短いし考えるより行動するタイプよ。女心が解るほど繊細には見えないわ。でも少なくとも晃君よりは解っていると思う。茜がこの結婚に戸惑っていたことにも気付いていたし、今だって直ぐに茜を追いかけたでしょう? 本当に追いかけるべきなのは晃君なのに…」

「追いかけなかったのは右京が止めたからだ。蒼だって見ていただろう?」

「そうじゃなくて、茜が飛び出したとき直ぐに行動を起こさなかったって意味よ。今日の空じゃ直ぐに降りだすこともそれが茜にどう影響するかも晃君なら解っているんでしょ? それなのに怒りに任せて右京が気付くまでそれをしなかった。…姉としてはそんなバカに大切な妹を任せられないわね」

反論しようにも ぐうの音も出ない。
晃は唇を噛み締めた。

「それにプロポーズを受けたのと、すぐに結婚式を挙げるのは話しが別でしょう? どうして茜が戸惑うのが解らないかな? 大体、晃君、茜の夢って知ってる?」

「……茜の夢?」

「知らないの? それじゃ婚約者として失格ね。茜を愛しているのと大切にしているのは違うわ。今の晃君は愛しているという気持ちばかりが大きくて、大切なのは自分だわ。玩具を独り占めしたくて駄々をこねている子どもと同じよ」

普段優しい蒼がこれほどまでにバッサリと切り込んでくるとは夢にも思わなかった為、晃は右京に殴られる以上のショックを受けていた。
茜は人見知りが激しい為、一見大人しく見えるが、本来の性格は蒼よりも短気で気が強い。健康であればきっと行動的な女性だっただろう。 だから茜が家を飛び出しても、彼女の性格ならその行動は頷けた。
だが同じ双子でも蒼は違う。持って生まれた本来の性格が茜よりおっとりとしており、普段の会話も優しい言葉を選ぶように話す。
その蒼がダイレクトに怒りを向ける物言いをしたのだ。
晃は冷水を浴びせられた気持ちになり、ようやく冷静さを取り戻し自分の愚かさを振り返った。

「コーヒーを淹れる間に茜の夢が何か考えてみて」と言うと、蒼は対面式のキッチンへと向かった。
サイフォンを取り出し準備するのを放心したまま見つめる。
蒼の言うとおり、いかに頭に血が昇っていようと、茜の命に関わる判断を誤ってしまったのだ。伴侶であるならばまず最初にすべき行動を怠った自分を恥ずかしく思った。
しかも茜の事なら何でも知っているつもりだったのに、彼女の夢が何であるかを知らなかったのだ。
茜の気持ちを考えていると言いつつも、自分の事しか眼中に無かった事実を改めて付きつけられ、晃は自分の器の小ささを呪った。

茜に夢があるなど聞いたこともなく、考えたことも無かった。
それを話せなかったのは、自分を信頼できなかったからだろうか?
結婚を渋ったのは、夢を奪われると思ったからだろうか?
様々な可能性と憶測が脳裏を過ぎる。
本当に愛しているのなら、彼女の夢を応援してやるのが男だろう。必要なら手放してやる事も必要なのかもしれない。
理性はそう思っても、感情では割り切れそうも無かった。

コポコポとフラスコからロートへと湧き上がっていくコーヒーの粉を見つめながら、思いをめぐらす。
水が琥珀色の液体になって落ちてくる一連の過程が終わっても、晃は答えを見つけられずにいた。
蒼がフラスコの液体を真っ白な陶磁器に注ぎ込んでいく。それを持ってリビングへ移動する時間が無性に早く感じられた。
どうやってもう少し時間を稼ごうかと思考をフル回転させながら、カップを受け取り口元へ運ぶ。
その香りと味の素晴らしさに思わず声が上がった。

「このコーヒー美味いな」

ホッとして先ほどまで強張っていた表情が緩む。それを見て蒼が「そうでしょう?」と嬉しそうに微笑んだ。

「これは晃君の為のスペシャルブレンドだもの。茜が豆を調合して作ったの」

「茜が? こんな事出来るんだ。凄い特技だな。もしかして夢ってカフェ経営とか?」

蒼が笑いながら首を横に振る。

「もっと単純な夢よ。女の子なら誰でも一度は夢に見るわ」

『誰でも一度は』と言われ、それらしいものを思い浮かべてみる。
女の子のなりたい夢…看護師、アイドル、スチュワーデス、花屋、保育士…?
色々な職業を片っ端から挙げては茜の好みそうな職業と符合していくが、なかなかピンと来るものはなかった。
そんな晃の様子を蒼は面白そうに観察していた。先ほどまでの怒りは薄れ、悩む様子を面白がっているようにも見える。
次々に思いつく職業を全て蒼に却下され、ついにネタ切れとなった晃はギブアップと答えた。

「…どうして思いつかないかな? 目の前に答えがあるのに…。解らない人なら結婚を許すつもりは無いわよ」

晃は蒼の真剣な視線を受け止めながらゆっくりとコーヒーを飲み干した。
柔らかな香りが鼻腔をくすぐり、優しい気持ちにさせてくれる。
このブレンドを作った茜の様子が目に浮かぶようだ。
毎朝このコーヒーの香りに揺り起こされ、彼女の声で目覚める。眩しい光の中で交わす極上のキスはどれほど甘いだろう。
そこまで考えて、ふと思いついた。


「……女の子が誰でも一度は夢見るものって…もしかして『およめさん』とか?」

蒼は「まぁ、そんなところかな」と呟くと、「ならば何故?」と問う晃を目で制して続けた。

「茜は小さい時からあと何年ってリミットを受けながら生きてきたから、自分が誰かと恋愛したりそれ以上を望むなんて考えられなかったのよ。でも晃君に出逢って愛し合うようになってからは、それまでは許されないと思っていたことを望むようになったの。
本当にささやかな願いよ。茜の作ったご飯を食べて、一緒に笑って、怒って、泣いて、抱き合って眠る。目覚めたらあの娘の淹れたコーヒーを飲んでキスをする。だたそれだけ…結婚なんて夢以前の事だったの」

茜の小さな幸せに胸が鷲づかみにされた。

「僕との結婚が嫌なわけではないんだね」

「クスクス、違うわよ。むしろ結婚しないとあの娘の本当の夢を全て叶える事はできないわね」

「…本当の夢? 花嫁になることがそうなんだろ?」

「近いけど少し補足が必要ね。茜の夢はね、自分で作ったウェディングドレスを着てお嫁さんになること。そして『おかあさん』になることなのよ」

「自分で作った…? だから時間が必要だったのか? あぁ…僕はなんて馬鹿なんだ。茜を探さないと…」

蒼が何か言ったのを確認するのももどかしく、弾かれたように外へ飛び出した。
朝の青空が錯覚だったと思わせる程の雨雲が重く立ち込め、辺りは暗くなり始めていた。
空と大地の境が判らなくなり始めている。降りだすのは時間の問題だった。

晃が考えつく限りの場所を思い起こし闇雲に走る。
その時、右京からのメールが届いた。


――まだ解らねぇのかよ。本当に諦めるつもりか?――


その内容に苦笑しながらも、最後に記された茜の居場所を見とめ、親友の心遣いに感謝する。
晃は携帯を握り締め、迷いを振り切るように走り出した。




部屋を飛び出した茜は、近所の神社の境内に来ていた。
ここは昔から茜の泣き場所だった。
発作を起こす度に、茜はここの神様にお願いに来た。
『どうかこの体を治してください』と。

玉砂利を踏みしめて拝殿に向かって歩き、ゆっくり階段を上がると賽銭箱の前に立った。
ポケットを探ってみるが何もない。

「賽銭が無かったら神様は願いを叶えてくれないかな?」

茜は寂しげに呟くと手を合わせた。

「…神様、私は晃に感謝する気持ちを忘れて我が儘になっていたのかもしれませんね。晃の気持ちも解るのに、私は形に拘りすぎていたのかもしれません。大切なのは形じゃないのに…」

結婚など望める体ではないとずっと思っていた。
晃に愛されただけでも十分すぎるほどだったはずなのに、いつの間に自分はこんなにも欲張りになったのだろう。
やはりここは自分が折れて式を挙げるのが一番良いのかもしれないと茜は思い始めていた。

その時、背後から誰かが玉砂利を踏みしめて歩いてくる音が聞こえた。
徐々に近づく足音に、もしかして晃かもしれないと、鼓動が早くなる。

暴れる胸を押さえ、ゆっくりと振り返る。

だがそこにいたのは晃ではなく、長めの黒髪を後ろになでつけ、銀色のフレームのメガネをゆっくりと外し笑いかける右京だった。

「茜って結構足が速いんだな。すぐに追いつけると思ったのになかなか見つからなくて焦ったぜ」

「…ごめんね、心配掛けて」

「いいや。それより少しは落ち着いたか? 晃のヤツが暴走して悪かったな。あいつがあそこまで物事に執着するのは本当に珍しいんだ。それだけ茜を愛しているからだって解ってやって欲しい」

「…うん、解っているよ」

「お灸を据えてきてやったから、今頃正気に戻って凹んでいると思うぜ」

ケラケラと笑う右京に釣られて茜の表情も緩んだ。

「結婚がイヤだなんて…そんな風に考えるとは思いもしなかったわ」

茜はポツリと呟いた。

「借り物のドレスじゃなくて、ひと針ひと針自分で心を込めて縫ったドレスで結婚式を挙げたかったの。結婚そのものが決して叶うはずの無い夢だと思っていたから、本当に嬉しくて…だからこそその日を大切にしたかったの」

哀しげに瞳をふせ、一筋の涙を流す。
相変わらずじれったい二人だと、右京はそっと茜の横顔を見つめた。

茜の気持ちは真っ直ぐだ。
右京が出逢ったころ、両親の死に責任を感じ立ち直れずにいた茜は、自らを責め死を望んでいた。
だが晃と出逢い、彼女の中で生きたいと望む気持ちが大きくなったおかげで、二度の大きな発作も乗り切ることができたのだ。
彼女にとって晃の存在は何よりも大きい。それゆえ、晃以外は失うものは何も無いと、自分を傷つけてでも愛そうとする。
その姿は強く見えてあまりにも儚い。

晃は晃で茜しか見えていない。
人当たりが良いのにどこか冷めていて、決して他人に本音を見せなかった晃が、あれほど熱くなるなんて、ある意味これは喜ばしい事なのだろう。
これほどまでに晃が茜に溺れるなんて、誰も想像できなかった。
晃の焦る気持ちは解らないでもないが、盲目的な想いは時に茜をも傷つける。出逢わせた事を後悔する前に助けが必要だろうと、境内の入り口に見え隠れする親友に目で合図を送った。

互いに想いが強すぎる故に、すれ違ったときの傷は計り知れない。
この二人がどうか引き離されることのないようにと、神殿に向かって願いを掛けずにいられなかった。

「茜、雨が降りそうだ。俺、ちょっと戻って傘をとって来るよ。雨が当たらないところで待っててくれ。いいな?」

頷く茜に軽く手を挙げ、右京は鳥居を抜けていった。
独り残された茜は今にも泣き出しそうな鉛色の空を仰いで手を伸ばした。
大気は水を含み肌にしっとりと纏わりつく。遠くでゴロゴロと唸る空は嵐が近いことを予感させた。
サラサラと木々が風にゆすられ優しい音が満ちる静かな境内には人の気配は無い。
心細くなった茜は、自分を抱きしめ、不安げに周囲を見回した。

その時、背後から玉砂利を踏みしめる音が聞こえた。
徐々に近づく足音に、右京が戻ってきたのだと思って振り返った。

「随分早かったのね、右京…っ」

そこにいたのは右京ではなく、気まずそうに茜を見ている晃だった。
肩を軽くすくめ、「…右京じゃないけど、話してもいいかな?」と遠慮がちに問う。

茜は差し出していた手のひら落ちた水滴に視線を移し、空を仰ぎ雨粒を確認すると、ゆっくりと晃へ視線を戻して静かに頷いた。
晃は走ってきたであろう息を整えながら茜に手を伸ばした。

「茜、ゴメン…」

ポツリと降り出した最初の雨から庇う様に、晃は茜の肩を抱いた。

「晃…私は結婚が嫌なわけじゃないの」

「うん、解っているよ。僕が悪かった」

それ以上の言葉は要らないと、自然と重なる唇。
抱き合う二人を遠目に見つめる右京の心は複雑だった。

ただ、互いの手を取って生きていきたいという、ささやかな願い。
二人の時間がゆっくりと穏やかに、少しでも長く続くようにと願う事しか出来ない歯がゆさを、振り切るようにして右京はその場を立ち去った。

頬を滑る小さな水滴が落ちて、アスファルトに跡を残す。

それを合図のように鉛色の空は涙を流し始めた。




+++++     +++++     +++++


「あの時は本当に心配をかけたね」

晃が申し訳なさそうに言うと、いつの間にかやって来た右京が、蒼の隣に座り「ああ、本当に良い迷惑だったぜ」と素気(すげ)無く言った。

「まったく、傘を持って行くように言ったのに、晃君は聞く耳持たずで飛び出して行っちゃうし、戻ってきた右京に傘を持たせたのに、渡さずに帰ってきちゃうし…」

蒼がチラッと睨むと、右京は困ったように視線を逸らし晃を見た。

「傘を渡せる状況じゃなかったってぇの。あの酷い雨で神殿の中に二人がいるかどうかも見えないほどだったんだから…。一応声は掛けたんだけど、雨音が酷くて聞こえなかったみたいだしさ」

正確には雨のカーテンの奥で愛し合っていた二人に、どうしても声を掛ける事ができず赤い顔で戻ってきたのだが、流石にそれを蒼に告げることは出来ず、右京は唇を尖らせて喉もとまで出かかった言葉を飲み込んだ。
瞬時に事情を悟った晃は「…まあ、あの時は雷が酷かったし…ね?」と意味ありげに苦笑した。

懐かしい昔の話は晃たちを過去の幸せな時間へ連れていってくれる。
写真の茜は幸せそうに白いドレスに身を包み微笑んでいた。


「…ところで、今日は茜のことで何かあったんでしょう? そろそろ話してくれない?」

やはり彼女は茜が絡むと異常に鋭いと晃は思った。
蒼曰く、茜からメッセージが届くようにピンと感じるものがあるのだそうだ。
やはり今回の事は、茜の意志が強く働いていることを感じずには要られなかった。

晃は気持ちを整理しながら、朝からの出来事を話し始めた。




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