お久しぶりです…。
少しふくよかになった昔の面影に向かって陽歌は微笑んだ。
「まあ、陽歌ちゃんなの? 随分綺麗になって…全然分からなかったわ」
嬉しそうに駆け寄り陽歌を抱きしめると、フワリと懐かしい香りがした。
相変わらず優しい人好きのする笑顔は、当時陽歌が憧れていたものと変わっていなかった。
両親を事故で失い、傷ついた陽歌は自分の中に閉じこもっていた。
治療もリハビリも嫌がり我が儘で皆を困らせていた彼女に、幸江はいつも優しく陽歌が頷くまで根気良く付き合ってくれた。
当時二十歳そこそこだった幸江は今ではすっかり貫禄がでている。ナースキャップの色からして婦長かそれに近い立場にいるらしかった。
二人は16年ぶりに懐かしい話に花を咲かせた。
拓巳の治療が終わっても名残惜しくて、幸江の仕事が終わる時間に合わせ、駅前のファミリーレストランで待ち合わせをすることにした。
話したいことはいっぱいあった。
そして、どうしても教えてもらいたい事が一つあった。
拓巳の傷は酷く見えたが、骨には影響がなかった。
泊まると言い張る拓巳をなんとか説得して、無理矢理駅まで送っていくと電車に乗せた。
渋々ではあるが、先ほどの罪悪感からか強引に残るとは言わなかった。
それでも電車のドアが閉まる直前に「夢なんてここに捨てて早く帰って来い。俺は絶対にお前を諦めないからな」と言っていつもの軽快なウインクを飛ばす。
いつもの拓巳に戻ったことが嬉しくてホッとしたのと同時に、懲りないヤツだと呆れて小さくなっていく電車を見送った。
…ちゃんと帰ったかしら? ホテルに戻ったら待ってた…なんてことないよね?
幸江との約束の場所に来た陽歌は、先に席に着きメニューの見ながらボンヤリと呟いた。
「さっきの彼の事? 子どもじゃないんだから迷子になることも無いでしょ?」
顔を上げると幸江がクスクスと笑っていた。無意識に声に出していたらしく、恥ずかしさに頬が染まった。
「大きな独り言ね。恋人の事が気になる?」
「拓巳は恋人じゃないわ」
複雑な気持ちで視線を伏せた陽歌を見て何かを悟ったのか、幸江は「あらそうなの」とサラリと流すと、それ以上拓巳の事には触れなかった。
二人は少し早い夕食をとりつつ他愛の無い会話を楽しんだ。
幸江は陽歌が退院した後、暫くして結婚し、翌年の3月に出産もしたらしい。娘が二人いて長女は今年高校生になったと楽しそうに話した。
当時と何も変わらない様に見えるが、16年の年月は彼女をお姉さんからお母さんに変えていた。
「高校生の娘さんがいるの? そんな風には見えないわ」
「そう? ウフフッ私もまだまだ若いってことね?」
幸江は嬉しそうにパスタを口に運ぶ。陽歌もピラフを食べながら微笑んだ。
「そうそう、あの頃あなたと仲の良かった妊婦さんの子どもと同じ学校になったのよ」
「あの人の? 彼女はお元気なんですか?」
陽歌が入院していた頃、一人の妊婦と仲良くなった。
だが手術のあと、高熱であの頃の記憶の一部が無い陽歌は、彼女の事を随分長い間忘れていた。
数年前から少しずつ彼女の事を思い出すようになったのだが、名前だけはどうしても思い出すことが出来ずにいたのだ。
幸江なら彼女の事を知っているのではないかと思った陽歌は、タイミングを見て彼女の名前や住所を教えてもらいたいと思っていたのだ。
彼女は小児病棟で子どもに絵本を読み聞かせるボランティアをしていた。
両親を無くした陽歌と同じ境遇にあり、傷ついた陽歌を気遣ってくれて、週に一度の検診のたびに顔を出してくれた。
「あの頃は子どもだったから良く分からなかったけど、今思うと彼女は検診の回数は普通の出産より頻繁だったと思うの。きっと出産が大変だったんじゃないかしら」
陽歌が彼女の事を思い出した切っ掛けは、妊娠中の友人のおなかを触ったことだった。彼女は少しずつ膨らむおなかをいつも陽歌に触らせてくれていたのだ。
両親と共に死にたかったと絶望する陽歌に、命の尊さと両親の愛情を必死に伝えようとしてくれていたのだと思う。
彼女に会うことが出来たらあの時のお礼がしたいと思っていた。そして、長い間彼女の事を思い出せなかったことを詫びたかった。
幸江は陽歌の質問に哀しげに目を伏せた。
「彼女はね、心臓が昔から悪くて出産を止められていたのよ。薬の効かない体質で帝王切開ができなくて命を懸けての出産だったわ」
「薬が効かない? そんな…」
「彼女の病は原因が不明だったの。何度調べても特に異常はないのに年々弱っていくのよ。薬が効かないが故に心臓移植もできなくてね。幼い頃から何度も入退院を繰り返していたそうよ」
「そんな…だって彼女はいつも元気そうだったのに」
「気丈な人だったのよ。彼女の恋人は優秀な医学生だったのだけど、彼女を助けようと必死だったわ。見ている私たちが苦しいほどだった。二人が結婚したと聞いた時は皆が大喜びしたわ。特に彼女を幼い頃から知ってた私の上司なんて泣き出しちゃってね。彼女の結婚式の時なんて号泣していたらしいわ」
「それで彼女は今どうしているんですか?」
「…本当に覚えていないのね。仕方がないのかもしれないけれど、彼女があなたに望んだことだけは思い出して欲しいわ」
「彼女が望んだこと?」
妙な胸騒ぎがした。
この先を聞くのが怖い。聞いてはいけない。
そんな気がしたけれど、ここまで来て知らずに帰るわけにはいかなかった。
「彼女はあなたがもう一度光を取り戻して本当の笑顔を取り戻すことを心から願っていたのよ。4月5日。最後に彼女に会った日の事、覚えている? 彼女の言う事だけは素直に聞いた陽歌ちゃんが珍しく帰らないでって駄々をこねた日の事」
「ああ…覚えています。彼女に会った最後の日ですよね」
「…ええ、泣きながら寝てしまったあなたに悪いことをしたと言っていたわ。夜になって陣痛が始まった彼女は、日付が変わったころに病院に運ばれてきたの。彼女は頑張ったわ。発作を起こす事無く最後まで出産に耐えて、明け方男の子を出産したの」
良かった、と陽歌はホウッと溜息を漏らしたが、幸江はその時を思い出すように苦しげに続けた。
「でもそれが限界だったわ」
「え…?」
テーブルの上でグラスの中で氷がカランと鳴った。
パキン…と心の中で何かがはじける感覚が、氷の割れる音と重なって妙に大きく聞こえた。
「…伯母さんは陽歌ちゃんに彼女の死を伝えなかったのね」
「…何も聞いていませんでした。私、何年も彼女の事を忘れてしまっていたんです」
「目の手術の後の高熱が原因?」
「はい。今でもあの頃の記憶が曖昧な部分があります」
幸江は「そうなの」と言ったきり黙り込んでしまった。
何かを深く考え込んでいて、話すべきか迷っているようだった。
「彼女は出産して幸せになっていると思ってました。ずっと闇の中にいた私を彼女は救ってくれた。本当の姉のように色んな事を教えてもらったし、大人になってからも彼女の言葉には随分救われてきました。目が治ったらあの人の顔を見るのが、あの頃の私の夢だったんです。彼女が亡くなっているというのならお墓参りがしたい。写真でもいいからひと目彼女に会いたいんです。彼女の家族の方は? せめてお礼が言いたいんです。教えてください」
「彼女に感謝しているのね。…実はね、私は分娩室へ向かう彼女と会っているの。その時も彼女はあなたの事を気遣っていた。最後の言葉を私は今でも忘れないわ」
「彼女は何を言っていたんですか?」
「『陽歌ちゃんに桜を見せてあげて』って」
「桜を…? ―っ!まさか…っ」
「あの時彼女はもう限界を感じていたんだと思うわ。ご主人と子どもと三人で生きること。それがささやかな願いだったのに…彼女は生まれた子を抱くことなく逝ってしまった。最後までご主人や家族…そして陽歌ちゃんの事を思いながらね」
「とても優しい人だったわ」と言った幸江の瞳は潤んでいた。
「……教えて…。幸江さん、彼女の名前を…教えてください。もしかして私に角膜を提供したのは…?」
幸江は黙って目を伏せた。
看護師である幸江には角膜提供者の詳細を明かすことは出来ないのだろう。
だが彼女の表情に陽歌は自分の考えを確信した。
「あの妊婦さんの名前は高端 茜さんというの。ご家族の事は私からは教えられないわ。ごめんなさい」
「高…端?」
パズルのピースが音を立てて埋まっていく感覚があった。
「もしかして…ご主人は丘の上で診療所をしているのでは…」
陽歌の問いに幸江は明らかにハッとして顔色を変えた。
最後のピースがパチンと収まる。
世界から音が消え晃の顔が浮かんだ…。
+++
陽歌はホテルへ帰るとすぐにベッドに倒れこんだ。
あの後、幸江と何を話したのか、どうやってホテルまで戻ったのか記憶にない。
頭が真っ白でガンガンと痛む。
記憶の断片が次々に襲ってきて、陽歌は成すがままに感情の波に呑まれていった。
あきら…あきら……
あなたを愛している
あなたには誰よりも幸せになって欲しいの
でも、同時に私を忘れて欲しくないと思う私もいる
我侭なのはわかっているの
でも私は一人で逝きたくなんかなかった
――あぁ、これは茜さんの想いだ…
――茜さんの晃先生への強い強い想い…
あなたを置いて逝った私をどうか許して
あなたに寂しい思いをさせた私をどうか許して
自分が望んだ事なのに一緒に子どもを育てられなくてごめんなさい
暁、抱きしめてあげられなくてごめんね
育ててあげられなくてごめんね
たくさん寂しい思いをさせてごめんね
――茜さん…あなたはこんなに切ない想いを残して逝ったの?
彼女の中に私の心のかけらを残していくわ
きっと彼女はあなたに惹かれる
晃、あなたもきっと彼女を愛するでしょう
あなたの傍で生きたい
あなたの幸せをいつまでも見守り続けたい
だから私は彼女の瞳になるわ
――私に? だから、何年も茜さんの記憶を夢に見たの?
――茜さんは私の中に心を残したの?
――晃先生への気持ちはやっぱり茜さんのものなの
――私が恋しているわけじゃないの?
――この愛しい気持ちは、一体誰のものなの?
――私はだれ?
――陽歌?
――それとも茜?
――わからない…
――だれか…教えて…。
――私は…だれ?
強い感情の波に呑まれ、陽歌は自分を見失いつつあった。
その時、携帯が鳴り、遠のき始めていた意識が現実に引き戻された。
頭痛のする頭をおさえ、まだ頭の中で響く茜の声を振り払うように頭を振って携帯を取った。
ディスプレイの表示は拓巳だった。
「―――もしもし…」
『陽歌か? 俺さ…その…やっぱり気になってお前を一人にして帰れなくてさ…』
「拓巳…もしかして近くにいるの?」
『うん……駅にいる。途中で降りて戻ってきたんだ』
拓巳の声を聞いて張り詰めていたものが崩れた。
「たすけて…拓巳助けて…私どうしたらいいかわからない」
立て続けに知らされた辛い現実に打ちのめされていた陽歌の精神状態は限界だった。
ひとりでは現実の大きさを支えきれず、携帯を握り締めたまま嗚咽し始める。
拓巳はすぐに部屋まで飛んできて、泣き崩れる陽歌を抱きしめた。
陽歌は誰かにすがりたかった。
自分を如月陽歌として見てくれる人に傍にいて欲しかった。
『茜』ではなく『陽歌』を愛してくれる人が欲しかった。
拓巳は陽歌だけをみつめてくれる。
彼の真っ直ぐな愛情に抱きしめられて幸せだと思った。
この人を好きになりたい…
『陽歌』として拓巳を愛したいと思った。
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