陽歌は拓巳の腕の中で、泣き疲れて眠ってしまった。
静かにベッドに横たえると、安心しきって眠っている陽歌の額にそっと唇を寄せた。
数時間前の自分の醜態を想い出し苦い笑みが漏れる。
こんな自分のことを陽歌は許し、必要としてくれた事が嬉しくて、彼女を心から大切にしたいと思った。
淡いベッドサイドの照明のもと照らし出される陽歌の顔は青白い人形のように見えた。
拓巳は頬の涙の跡にそって指を這わせ、彼女を傷つける者は、たとえ陽歌の好きな相手であっても絶対に許さないと、強く誓った。
「陽歌、目を覚ましたら俺に全部吐き出しちまえ。全部受け止めてやるから。お前のすべてを、俺の全身全霊で受け止めるから」
拓巳は椅子を引き寄せベッドの横に座り込むと、陽歌の左手を握り締めそっと語りかけた。
陽歌の頬を涙の粒が滑り落ちた。
+++
真っ白な世界。まぶしい世界。何も見えない世界。
光だけがあふれるその世界に陽歌は立っていた。
彼女がここにいるのだと、何故か解った。
ゆっくりと辺りを見渡すと、そこには優しく微笑む女性が立っていた。
艶やかな黒髪を肩より少し長く垂らし、ほんのり桜色の頬をしたその女性は黒目がちな大きな瞳をまっすぐに陽歌のほうに向けていた。
「あかね…さん?」
陽歌の問いに頷くと、茜は花が咲くように艶やかに微笑んだ。
『陽歌ちゃん…思い出して…約束したよね』
懐かしい優しい声が白い空間に響き渡る。
それは紛れもなく、両親と視力を一度に失い失意の底にいた陽歌を、いつも励ましてくれた優しいお姉さんの声だった。
「約束って…なに?」
『私はあなたにあることをお願いしたの。だけどあなたの伯母さんは手紙を渡してくれなかった。だから、私の最後の望みを叶えてもらうために、あなたに呼びかけ続けたの』
「…呼びかけ? それってあの夢のこと?」
『思い出して欲しかった。あなたに託した私の最後の願いを…』
「ごめんなさい。私…覚えていないの。私に何を託したかったの?」
『私の呼びかけにやっとあなたは応えてくれた。あなたをあの場所に導きたかったの』
「…それは晃先生に会う事? それとも私が先生を好きになること?」
嫌味な物言いをした自分にチクリと心が痛んだ。
『晃と暁に私が託したメッセージを伝えて』
「茜さんは私が先生を好きになるって知っていたんですか?」
『彼はきっとあなたに惹かれるわ』
「違います。晃先生は私の中の茜さんを求めてるんです。もしも彼が私を好きになっても、それは私への想いじゃない」
心が黒い闇に覆われていく…
酷いことを言ってしまったと思っても、暴走した感情を止めることは出来なかった。
『陽歌ちゃん。私の最後の願いを叶えて。お願い…』
「茜さんはずるい! 私の心をかき乱さないで。私の心を滅茶苦茶にしないで」
茜の頬を涙が一筋流れた
『ごめんなさい……陽歌ちゃん』
世界が光に包まれた。
何も見えなくなった。
+++
目を覚ました時、隣に拓巳がいてくれた事が、陽歌には純粋に嬉しかった。
拓巳は一晩中手を握っていてくれたのだろう。椅子に座ったままベッドに突っ伏して眠っていた。
両手で陽歌の左手を宝物のように握り締めたまま…。
拓巳がいてくれなかったら、昨夜は耐えられなかっただろう。
まっすぐに自分を愛してくれている彼の気持ちに応えたいと思った。
朝日を受けて陰影が出来た拓巳の顔は、どこか幸せそうで、陽歌は感謝の気持ちを込めて拓巳の額に唇を落とした。
……ありがとう拓巳……
拓巳の睫毛が震えたような気がした。
1時間後、目覚めた拓巳と二人でルームサービスの朝食を取りながら、陽歌は拓巳に全てを話した。
信じてもらえるか分からなかったが拓巳には知る権利があると思ったからだ。
彼は馬鹿にしたりせず、神妙な顔つきで最後まで話を聞いてくれていた。
「陽歌が茜さんと最後に会ったのはいつだ?」
「んっと、私が熱を出した日。4月5日よ」
「よく日にちまで覚えてるな?」
「その日は小児病棟でお花見会があったからね。私も行きたかったのに朝から微熱が出て先生に止められたの。それが悔しくてベッドから抜け出して病院の中庭の桜の木の陰でこっそり一人でお花見をしたのよ」
「花見っておまえ、目が見えなかったんじゃ…?」
「見えなかったわよ。でも花びらを感じたり香りを楽しんだり、花の楽しみ方は色々あるのよ」
「まあそうだな。それで…?」
「そしたらね、私がいなくなったって病棟は大騒ぎだったらしいの。だけどまだ桜の木には花びらも花の香りもなくて、折角来たのに怒られ損だなぁ…って、ガッカリしていたの。その時茜さんが『ほら桜の花よ』って、どこから持ってきたのか、一本の桜の枝をくれてね。その花が凄くいい香りでなんだか拗ねているのがバカらしくなったのよ。私の寂しさに一番に気付いてくれたのは、いつだって茜さんだったわ」
「…桜の花一つで機嫌が直るなんて単純だな」
「クスクス…そうかもね。その時ね「ほら、赤ちゃんも『おねえちゃん一緒に行こうよ』って言ってるよ」って、おなかに手をおいて赤ちゃんと会話をさせてくれたの。私ね、茜さんのおなかに触るのが大好きだったのよ。温かい気持ちになって、彼女と一緒にいれば、どんどん自分が良い子になれる気がしたのよ」
「…やっぱお前ってすげー単純だ」
「純粋って言ってよね。その後病室に戻ったら熱があがっていて、凄く叱られたの。微熱があったのにふらふらと寒い中庭に出た私が悪いんだけどね。あの時も茜さんは迎えが来るまでずっと傍に付き添ってくれていて、お迎えが来た後も「帰らないで」って駄々をこねる私の為にご主人を30分以上待たせたらしいわ」
「単純な上に我が儘だったんだな?」
「もぉ、ヒドイ。子供の頃の話よ。……あ…っ…」
「ん、なんだ?」
「あ…うん…その時、茜さんが何か言ったんだわ。そうよ…何か大切な事を言ったの」
「何て言ったんだ?」
「覚えていない。だけど、とても大事な事だった気がする。」
「例の約束ってやつか?」
「そうかもしれない。…その時、茜さんは大切な伝言を私に託した。それなのに私はそのまま全てを忘れてしまったんだわ」
メッセージに気付くまで10年余りも待ち続けた茜。
本当なら11年前、18歳のときにその約束は果たされるはずだったのに、全てを忘れた陽歌を茜はどんな思いで見守り続けていたのだろう。
頬を滑り落ちたガラスのような哀しげな涙を思い出し、陽歌は申し訳ない気持ちで一杯になった。
「その後、茜さんには会っていないのか?」
「茜さんはその日の夜病院に運ばれて、明け方自分の命と引き換えに男の子を出産したそうよ。彼女と会ったのはあの日が最後なの」
自分で言った台詞に胸を鷲づかみにされるような痛みが走った。
拓巳も痛ましげに眉間に皺を寄せて目を閉じた。
「茜さん…どんな想いで逝ったんだろうな。俺だったら死んでも死に切れないだろうな」
「そうね。私だったらきっと心を残してしまう。愛する人を残し、生まれたばかりの赤ちゃんを抱く事も出来ずに逝かなくちゃいけないなんて…」
彼女は何をして欲しかったのだろうと、改めて陽歌は考えた。
昨日は感情的になって酷いこと言ってしまったけれど、元々悪いのは彼女との約束を忘れてしまった自分だ。
陽歌は心の中で茜に詫び、決意を固めた。
「拓巳、私、茜さんの私に託したもの見つけるよ。そして約束どおり願いを叶えてあげる」
「陽歌…いいのか? 辛い思いをするかもしれないぞ?」
「いいの。だって『今が辛いのは未来に為の必然』なんだって」
「なに?」
「あのね、あのころ毎日自分の境遇を悲観して泣き暮らしていた私に茜さんは教えてくれたの。『今はどんなに悲しくて辛くても、その経験はいつか幸せのための土台になる。人生における辛さや悲しみに決して無駄な物はないのよ』って。あの頃は意味が解らなかったけれど、今は少しだけ解った気がするわ」
あの風景を見つけたのも偶然じゃない。
晃に出逢ったのも、今こうして拓巳といる事も、この先待っている運命に導かれているのだ。
この先に辛いことが待ち受けていても、それから逃げてしまっては決して幸せにはなれない。
陽歌の中にはそんな確信があった。
拓巳が大きな溜息を付き、天を仰ぐように呟いた。
「すげえ人だな…」
「え?」
「自分の命の期限を知りながらも尚、今ある苦しみが未来の幸せの為だと言い切れるなんて…。
それまでの人生にどんなに辛い事があったかは分からないが、彼女が平坦な道を歩んできたとは思えないよな。人には言えない苦しみを沢山抱えていたと思う。そこまで言い切れるようになるまでには、相当辛い思いをしてきたはずだ。
それなのに、苦しみを人生における必然だと言い切り、自分を幸せだと言える彼女って…本当に凄い人だと思う」
「必然…茜さんの…幸せ?」
拓巳の言葉の中に、陽歌は何かを思い出しそうな不思議な感覚を感じていた。
必死に考えてみるが、それは拓巳の提案によって打ち切られてしまった。
「おまえさ、伯母さんとやらに会って手紙貰ってきたら?」
その時になってようやく、何故伯母が自分に大切な約束について教えてくれなかったのかと、そこへ考えを廻らせる事が出来た。
自分が一番にしなくてはいけない事を見つけてからの陽歌の行動は早かった。直ぐに立ち上がると「今から行く」と言って荷物を纏め始める。
こうと決めたら行動の早いのが陽歌である。
いつもの調子を取り戻したのを確認し安心した拓巳は、「俺も一緒に行ってやるよ」と言って笑った。
そのとき携帯が鳴った。
少し気持ちの軽くなっていた陽歌は、特に深く考えず携帯に手を伸ばしディスプレイを見た。
ビクリと体が硬直し、表情が固まる。
『高端 晃』の表示に、指を動かすことができなかった。
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