「晃君、私を彼女に会わせて欲しいの」
涙に濡れた瞳を真っ直ぐに晃に向け蒼は言った。
「僕も蒼に会って欲しいと思っていたんだ。明日、彼女に会ってくれる?」
「ええ、私なら彼女の中に何故茜の記憶があるのか、その理由が解るかもしれない。彼女に会って確かめたい事があるの」
蒼の言葉に何か確信めいたものを感じた晃は黙って頷いた。
翌朝、晃は携帯を見つめては躊躇い閉じるという行動を、もう数十回も繰り返していた。
特別な感情のない女性に電話を掛けるのは簡単だが、彼女は別だった。
ドキドキと胸が騒いで、まるで恋をしているように錯覚さえする。
全ては彼女の中の茜の記憶のせいだと、自分に言い聞かせ、ようやく思い切って発信ボタンを押す。
電話を思い立ってから既に一時間半が経過していた。
何度目のコールかで電話が繋がった。
『もしもし…』
陽歌が出るものと思っていた晃は、聞き覚えのない男性の声に驚いて、番号を間違えたのだと思った。
「すみません。番号を間違えたようで…」
『間違っていませんよ。高端先生。陽歌ならここにいます』
宿泊したホテルに朝から男がいるという事は、夜を共に過ごしたという事だろう。
相手は恋人だろうかと考えると、胸に嫌な締め付けを感じた。
『陽歌は昨夜から体調が優れなくて、申し訳ないのですが今日はこのまま連れて帰ることにします。先生と約束をしていたらしいですけど、体調をみて、またこちらから連絡させますので、今日のところはご遠慮願えますか』
「……わかりました。彼女は大丈夫ですか? 昨日も体調が悪そうでしたし、念のため診察をしたほうが良いでしょう。僕がそちらへ伺いましょうか?」
『いや、けっこうです。今日のところは失礼します』
丁寧な話し方だが、有無を言わさぬ強い口調にそれ以上食い下がることはできなかった。
「……そうですか。あの、失礼ですがあなたは…?」
友人か、それとも恋人か。相手が答えるのを待つ一瞬の沈黙が、とても長く感じられた。
『申し遅れました。私は梶 拓巳と申します。陽歌の同僚で…婚約者です』
晃は一瞬絶句し黙り込んだが、内心の動揺を悟られないよう、努めて平静を保とうとした。
「婚約者…そうですか。では彼女にお伝え下さい。どうしても会って欲しい人がいますので、体調が良くなったら一度連絡をお願いします」
それだけをいうのが精一杯だった。
電話の向こうの男性は婚約者だと名のった。
昨日会ったばかりの女性の婚約者と電話で話した。ただそれだけのことなのに、何故か心がかき乱される。
陽歌の体調が気になり、婚約者と名乗る男性を不快に感じ、二人が夜を共にしたという事実に動揺する。
気がつけば彼女の事ばかり考えている自分に晃は戸惑っていた。
昨日、思わず口付けてしまったから気になるだけだ。
茜の記憶を持つ彼女だから、他の男といる事実に動揺しているだけだ。
必死に言い訳している自分に気付いて、まるでこれでは恋煩いだと苦笑する。
茜の記憶について知りたいと思っているから、彼女の事を考えただけでドキドキするのだ。
茜が一瞬でも還ってきたような気がしたから、婚約者がいると知ってこんなにも寂しいと思うのだ。
別に彼女自身に恋しているわけじゃない…。
「…恋なんてありえないだろ? 昨日会ったばかりの彼女に、しかも婚約者がいるのに…」
「はぁ? 誰に婚約者がいるんだって?」
独り言のつもりが、いつの間にか背後にいた右京に問われ、驚いて振り返った。
「彼女に連絡は取れたのか? 蒼が心配していたぞ。おまえの事だからまた、徹夜で記憶についての症例みたいのを調べているんじゃないかってさ」
「蒼は心配性だなぁ。大丈夫だよ、少しは寝たし…。それから如月さんだけど、体調が悪いらしくて今日は無理だそうだ」
心の動揺を右京に気付かれないようになるべく平静を装って言うが、右京には何か感じることがあったらしい。
ふうん…と鼻を鳴らすと探るような流し目で見てくる。
「やっぱり調べてたのか。で、婚約者ってのは?」
「…彼女の携帯に電話したら、男性が出たんだよ。同僚で婚約者だと名のった」
右京は何かを考え込むように腕を組んで上目遣いに晃を見た。
右京のこういうときの目が晃は苦手だ。普段は自分のほうが冷静で右京をからかって遊んでいるのに、変なところで彼は妙にカンが鋭く、晃が隠したい心の動揺を直ぐに察知するのだ。
右京に追求されると心の奥まで見透かされるようで、嘘がつけなくなる。
「……っ、なんだよ右京。その目で見るなよ」
「おめーが、素直にならないからだろ?」
「素直って何に対して?」
「バカ…本当は自分でも気付いてるんだろ? 彼女への気持ち」
「彼女への気持ち? 別に特別な感情はないよ」
「おまえ、そんなんでよく医者とかやってるよな。誤診だらけなんじゃねぇか?」
「失礼だな。病状を診るのと自分の感情とは別だろ?」
「彼女の事が好きなんだろ? 素直になれよ」
「好き? だって昨日会ったばかりだよ」
「出逢ってひと目で恋に堕ちる事だってあるさ。俺だってそうだったんだし、晃だって茜に一目惚れしただろう? 今度だってそうじゃないとは言い切れないぞ?」
茜の名を聞いて晃の表情は曇った。
自分は陽歌に茜を重ねてみているのか。
それとも本当に彼女に恋をしたのか。
どれだけ考えても分からなかった。
黙り込んだ晃に右京は茜の事を思い出していると思ったらしい。
「とにかく現実を見るんだ。おまえが茜を愛しているのは分かっている。だけど、茜の手紙を思い出して見ろよ。茜はおまえの幸せを願っているんだぞ」
自分の幸せとは何だろう。茜の思い出と生きていくのは幸せなことではないのだろうか。
周囲から再婚を勧められるたびに、同じ事を思ってきた。
だが、それを右京の口から聞く日が来るとは思ってもみなかった晃は、ショックを受けた。
「茜はいつまでもおまえを縛りたくないんだよ。しっかり前を向いて、新しい人生を歩いて欲しいんだ。分からないのか?」
「解らないわけじゃないさ…でも、心がそれを受け入れられないんだ。茜との思い出を抱いて生きてきた16年を簡単には他の物に擦りかえられないんだ」
「でも彼女なら? 茜の記憶を持つ彼女なら、それが出来るかもしれないだろ?」
「解らないんだ。僕は、茜を彼女の中に求めているだけなのかもしれない。
昨日会ったばかりの彼女がこんなに気になるのは、茜と重ねているだけなのかもしれない。
そんな気持ちで、彼女に向き合えって言っても、今は無理だ」
晃の迷いが解らないでもない右京は、「明日また来る」と言い、部屋のドアを開けた。
晃に背中を向けたままその場で立ち止まるとポツリと呟いた。
「なぁ、晃。彼女に婚約者がいると知って動揺した時、心に浮かんだのは誰の顔だった?」
「え?」
「それがおまえの気持ちだよ。良く考えてみるんだな」
右京が残した言葉を噛み締め、晃は自分自身に問いかけた。
あの時僕の心に浮かんだのは……。
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