きみの瞳に映るもの 〜伯母の涙〜



さざめく波の音と潮の香りを含んだ風が懐かしい。

陽歌の伯母の家は海辺の小さな町で民宿を営んでいる。
突然の訪問を彼女はとても喜んだ。 拓巳と一緒の陽歌を見て結婚の報告と勘違いしたのだ。

嬉しそうな伯母になかなか本当のことを言い出せず、肝心の茜の手紙の件もなかなか話す切っ掛けが無い。
泊まっていくよう伯母が熱心に勧めるので、今夜は民宿で泊まり、夕食の時に手紙の事を切り出すことにした。
だが久しぶりに会った為、あれこれ質問攻めにされた陽歌は、夕食の席でもなかなか肝心の事を切り出すことができなかった。
拓巳が動いたのはそんなときだった。

「俺、陽歌の子どもの頃の事とか、あんまり知らないんです。写真とかあったら見せてもらえませんか? 昔の話も聞きたいですし…」

ニッコリと営業スマイルで伯母を悩殺する拓巳。
陽歌は呆れていたが、伯母は頬を染めて納戸へ飛んでいった。暫くすると陽歌のアルバムと一緒に子どもの頃に描いた絵や手紙などを出してきた。
両親と暮らしていた頃に描いた絵が懐かしい。この中に何かあるかもしれないと期待に胸を膨らませた。

拓巳の機転に感謝しながら陽歌は手紙の束に手を伸ばした。
拓巳と伯母は陽歌の昔話に花を咲かせている。
たくさんの色あせた手紙は友達からのものが殆どで、多くが入院していた時に励ましで貰った物だった。

この手紙…目が見えない私に茜さんが読んでくれていたっけ。と、忘れていたことを懐かしく思い出した。
入院中の写真も数枚その中に含まれていて、懐かしさに頬が綻ぶ。写真の中に幸江が映っていたので拓巳に見せた。
拓巳は興味深そうに数枚の写真を取り上げ、パラパラと見流していく。
その中に一枚の写真を見止め、ピタリと手を止めた。

「陽歌、この妊婦さんって…?」

「……茜さん?」

ベッドで座る陽歌の横で優しく微笑む一人の女性。
漆黒の髪を肩より少し長く垂らし、黒目がちな大きな瞳は星降る夜を思わせる。
綺麗な二重に長い睫毛は、まるで人形のようだ。小ぶりの鼻と唇が彼女の印象を儚くしているように思えた。
大きなおなかをささえ、幸せそうに微笑んでいる。

「……なんて綺麗……なんて幸せそうなの?」

大切な物を慈しむかのような茜の優しい瞳は、カメラにではなく陽歌に向けられていた。

「彼女は本当に陽歌のことを大切に思っていてくれたんだな」

拓巳の言葉に溢れてくる涙が止まらなかった。
あの時陽歌は世界で一番自分を不幸だと思っていた。
愛してくれる両親もなく、一人ぼっちになったと思っていた。

だけどそうじゃなかった。
散らばる写真に写る病院のスタッフや友達。あの頃支えてくれたのに気付かなかった人達の優しさを改めて思い出した。
陽歌を愛し、護ってくれる人はこんなにもたくさんいた。
今も顔を上げれば伯母も拓巳も、陽歌を心配してくれている。
そう思うと心が温かくなり、どこからか茜の声が心地良く響いてきた。


――ほらね。辛いことがあったからこそ、幸せに気付くことができたでしょう? 悲しみも、苦しみも、私との出逢いも…全てが陽歌ちゃんが幸せになる為の必然だったのよ。

心の奥底で、茜が満開の桜のように美しく微笑んだのを感じた。



茜の写真を握り締め涙を流し続ける陽歌を伯母は悲しそうに見ていた。

「思い出したのね。彼女の事…」

そう言うと、陽歌に告げることのなかった茜と交わした約束を話してくれた。

「4月5日、彼女が最後に陽歌に会った日、帰り際に私に一つの提案をしたの。自分が死んだら角膜を提供する代わりに、陽歌が約束を忘れないように18歳の誕生日に預けた手紙を渡して、必ず約束を果たして欲しいと言われたのよ。双子のお姉さんに全て頼んでおくって言っていたわ」

伯母は茜から預かっていたという、少し色あせた桜色の封筒を渡した。
その色に陽歌はあの日茜が桜の枝をくれた事を思い出した。

「きっと自分の寿命を感じていたのね。角膜移植の際に彼女のお姉さんが教えてくれたのよ。もし無事に出産できても、そんなに長くは生きられなかったそうよ」

胸が鷲づかみにされたように痛んだ。

「その夜、彼女が運ばれてきて、朝方男の子が生まれたと聞いたけれど、彼女は亡くなってしまった。その事を告げる間もなく角膜移植の手術が行われて、その後あなたは高熱に侵されて、目が覚めたとき記憶の一部は失われていたの。茜さんとの事もすっかり忘れているようだった」

陽歌はハッとして伯母の顔を見た。
その表情で彼女が言わんとすることが解ってしまった。

「忘れているのなら、そのままのほうが幸せだと思ったの。あなたが大好きだった茜さんが亡くなって、その目を貰ったとは、両親を亡くしたばかりでやっと心を開きかけたあなたに告げられなかった。術後あなたはとても不安定だったから茜さんの死はあまりに辛いと思ったの」


目に涙をいっぱいに溜めた伯母の表情に、彼女がずっと罪悪感に苦しんでいたことを知った。
陽歌は自分の為に多くの人が傷ついてきた事実に大きな衝撃を受けていた。

全ては私のためだったんだ。

私が茜さんとの約束を忘れてしまっていたから…。

涙が溢れて止まらなかった。

茜さん、茜さん、ごめんね。忘れてしまってごめんね

涙の止まらない陽歌の肩を拓巳は静かに抱いていてくれた。

その優しさが、とても嬉しかった。


+++


6月の海は夜風が冷たく、踏みしめる砂はひんやりと火照った体を冷やしてくれる。
空には小さな星が遠慮がちに瞬き、細い三日月が海辺を照らす様はどこか物悲しかった。

拓巳と二人砂を踏みしめ、ゆっくりと砂浜の温度を足でじかに感じながら歩く。
夕食の時に飲んだお酒で火照った体を冷やしてくると伯母に告げ、拓巳は陽歌を散歩に誘った。
伯母に気を使ってくれたのだろうと陽歌は拓巳に感謝した。
海の香りのする夜風を吸い込み心を落ち着けると、先ほどの伯母の顔が頭を過ぎった。

「陽歌、大丈夫か?」

「あ、うん…ちょっと伯母さんの事考えていただけ」

「そっか……手紙、読んでみるか?」

ずっと握り締めていた手紙を見つめる。
この中に茜が陽歌に託したことが書いてあるのだと思うと、緊張に手が震えた。


茜の気持ちを受け入れる事が出来るのか?
茜の願いを叶える事が出来るのか?
それを考えると何が書かれているのか読むのが怖かった。
月明かりだけでは読めないだろうと拓巳がライターを取り出した
この時になって、ようやく拓巳が煙草を吸うことを思い出した。自分の前では決して吸わない為、すっかり忘れていたのだ。
拓巳の優しさを感じて心が温かくなった。

ここに、私を支えてくれる人がいる。

たとえこの手紙に何が書いてあっても、全てを受け止めよう

護ってもらってばかりの自分はもう嫌だ。



陽歌は心を決めて封を切った






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