右京は電話を切ると寝室の時計を見た。
時刻は既に11時半を過ぎている。今すぐに来いと言われても、既に深い眠りの底にいる娘を起こすことには流石に躊躇いを感じた。
「あー…蒼、晃が今すぐに来て欲しいって言うんだけど…」
振り返ると蒼は瞳を閉じてベッドの淵に座っていた。精神を統一している様子に思わず先の言葉を飲み込む。
やがて細く開かれた瞳で空(くう)を見つめ、静かに口を開いた。
「……還ってくる…」
「え…?」
「感じるのよ右京。……茜が…還ってくるわ。行かなくちゃ…私が導かなくちゃいけない。茜がそう語りかけてくるの」
蒼がベッドから立ち上がると腰までの長い黒髪が蒼を追いかけるようにサラサラと流れた。凛として顔を上げる彼女の横顔は、窓から射し込む青白い月光に照らされ、とても神秘的に映った。瞳には彼女が茜を強く感じるとき独特の不思議な光が宿っていた。
「杏は起すのか?」
「可哀想だから起さないようにそっと連れて行きましょう。毛布に包んで抱いてきてくれる? 私は準備をしてくるわ」
背後でサラリと絹の音がして蒼がガウンを脱ぎ捨てる気配がする。
右京は頷くと急いで着替えを済ませ、杏の部屋へ向かった。
蒼い月の光の下に生まれた蒼。
夜明けを導く茜色の空の下に生まれた茜。
双子星の魂が引き合うように、運命は再び廻りのときを迎えていた。
+++
陽歌の乗ったタクシーが診療所の前に到着したのは日付けが変わった直後だった。
車の気配に気付いた晃が、呼び鈴の鳴る前に自宅のドアを開ける。
ここへ来るまで緊張続きだった陽歌は、目の前でタイミング良くドアが開いたことに心臓が跳ね上がるほど驚いた。
込み上げる感情が大きすぎて、どちらも言葉を発することができなかった。
青白い月の光が時を止める中、二人は静かに見詰め合っていた。
晃が手を差し伸べると、陽歌はその胸に飛び込んだ。
心臓の音が大きく響くのを感じながら、しっかりと抱き合った。
鼓動が一つになる。
想いが一つになる。
ただ、傍にいたい…
ただ、傍にいて欲しい…
愛しいと思う気持ちが溢れ出し止められない。
出逢ってからの時間とか、互いをどれだけ知っているかとか、そんな事は関係なかった。
理屈ではなく心が求めていた。
「陽歌さん…僕は…君に恋をしてしまったらしい。この年になってもう一度誰かを好きになるなんて思ってもみなかった。しかも出逢ったばかりなのに…。こんな風に思うなんて信じてもらえるだろうか?」
「信じます。私も…ずっと先生が好きでした。何年もこうしてあなたと逢える日を夢に見てきました。こんな風に思うなんて信じてもらえますか?」
「…ああ、信じるよ」
「…茜さんが…私をここへ…晃先生の元へ導いてくれたんです」
「茜はきっといつまでも独りでいる僕を心配して君を呼んだんだね。だとしたら僕が君に惹かれるのは必然だったのかもしれない」
「…私との出逢いが…必然?」
『必然』という言葉に、陽歌は何故か心が騒いだ。
何か大切なことを忘れているような…。
何かを見過ごしているような…。
つい最近も同じような感情が込み上げてきたことがあった。いつだったろうかと陽歌はもどかしい気持ちで記憶を辿った。
「梶さんにも感謝しなくてはね。彼が君の婚約者を名乗らなければ、僕は自分の気持ちを認めることが出来なかっただろうから」
拓巳の名を聞いた瞬間、陽歌はハッとした。
脳裏に拓巳の台詞がリプレイされる。
『苦しみを人生における必然だと言い切り、自分を幸せだと言える彼女って…本当に凄い人だと思う』
『必然』という言葉が何度も浮かんでは消えていった。
その時、突然目の前がユラリと歪み、景色が変わった。
何が起こったのかわからなかった。
それまでいた玄関も、目の前の晃も、一瞬の内に消え去り、陽歌はベッドのようなものに横たわっていた。
それが分娩台だと分かったのと、胸を抉られるような痛みに襲われたのは同時だった。
これが茜の最期の記憶だと、陽歌は瞬時に理解した。
呼吸が苦しくて徐々に意識が遠くなり、手足が痺れ始める。
それでも必死で心臓を宥めながら、最後の力を振り絞り命を送り出す。
差し出される大きな手を必死に握り締めて、痛みと苦しみに耐えた。
「茜、大丈夫か?」
目の前が霞み、遠のく意識が見たものは哀しげな晃の顔。
体が引き裂かれる痛みに悲鳴が上がる。
その瞬間、自分の中から命が生まれ出たことを感じた…。
抱きしめたいと願い手を伸ばす。
でもその手を上げる力は残っておらず、僅かに指が動いただけだった。
夜明けを迎える空が茜色に染まり、逝くべき時が近づいてくる。
薄れていく意識の中で最後に聞いたのは、晃の悲痛な叫び。
茜の頬を別れを告げる涙が伝った。
天へ召される光に包まれフワリと体が浮き上がる。
茜は光の中で全てを思い出した。
自分がこの世に生を受けた訳を。
自らの病と死の意味を。
そして晃と巡り逢った真の理由を。
晃と生きた世界から引き離されるのを感じた時、茜は天に向かって叫んでいた。
ああ…神様…
全ての罪は私が一人で背負いましょう。
ですからどうか…
どうか彼の罪を許してください。
どうか彼をこの世で孤独にしないで下さい。
お願いです。どうか…どうか…
どうか彼を導いてください。
現世で巡り逢うべき運命の女性へと…。
茜の叫びに反応したかのように、光の世界が振動し、次の瞬間、茜の背に白銀の翼が広がった。
茜のいう『神』によって、彼女は新たな試練を与えられた事を陽歌は知った。
声も届かず、触れることも叶わない。ただ見つめることだけが許される存在。
生も死もなく、愛する者が逝った後も、そこに在り続けなければならない哀しい者。
晃の罪を背負い彼を幸せに導く為、茜は転生を拒み、晃を守護する天使となったのだ。
晃の幸せだけを祈り、永遠の時の中に身を置く決意をした茜。
その愛の哀しさに…
その愛の純粋さに…
陽歌は涙が止まらなかった。
「陽歌さん? …陽歌…陽歌っ? しっかりしろ、大丈夫か?」
晃の声に我に返った陽歌は、自分が玄関に立っており、晃に支えられていると気がついた。長いように感じられたがほんの暫くの事だったようだ。
夢から覚めたように周囲を見回すと、分娩台も白い世界もなく、自分が生きていることを実感し震えが止まらなくなった。茜の最期を体感した事は陽歌にとって自身が死んだにも等しく、そのショックは大きかった。
意識がハッキリするにつれ、茜の感情が自分の深層部に沈んでいくのを感じる。
『おまえ自身が茜さんだ』と拓巳に言われた時、陽歌はまだ戸惑っていた。
だが、茜の死を生々しく経験し、陽歌の中で何かが変わった。
今は茜が自分自身であることをハッキリと認め、受け入れる事ができた。
だがそれは、最期の瞬間に彼女が願った晃の幸せが何であったかも、同時に知ることでもあった。
茜の最期の願いが『現世で巡り逢うべき運命の女性』である自分と晃が愛し合うことだったという事実は、陽歌の心に暗く影を落とした。
生きることも死ぬことも出来ず、愛する者の幸せをただ見つめていく茜を思うと、どうしても自分と晃の運命を素直に喜べなかったのだ。
哀しい愛し方をする茜が可哀想で、居ても立ってもいられない衝動に駆られる。
茜と自分は同じ物を見、同じ感情を共有し、16年間ずっと一緒に生きてきた一つの魂なのだ。
茜を助けたい、幸せにしてやりたいという、強い感情が込み上げてくる。
必死に遠のいていく茜の感情を手繰り寄せ、陽歌は呼びかけた。
教えて…。ねぇ茜さん、教えて。
あなたの背負った二人の罪とは何なの?
あなたの死の意味とは何だったの?
解らない…。何故?
何故、晃先生の運命の女性があなたではなく私なの?
私だけが幸せになるなんて嫌よ。
ねぇ…どうしたらいいの?
どうしたら…あなたを幸せにしてあげられるの?
「大丈夫? 少しは落ち着いたようだけど、まだ顔色が悪いね。やはり貧血気味なのかな? 念のため診ておこうか」
茜の意識を追いかけて、深く自分に入り込んでいた陽歌は晃の声にハッとして現実に戻った。
心配そうに見つめる晃の琥珀色の瞳を見つめ返し首を振った。
「大丈夫、どこも悪くないわ。ただ…茜さんを感じていただけ」
「茜を…? どういうこと?」
「私の中には彼女の強い想いが眠っていて、あなた達にそれを伝える為に私はここへ呼ばれたの。暁君がまだ起きていたら呼んで貰えませんか?」
「俺ならさっきからここにいるんだけど?」
背後から暁の声が聞こえるのと、晃が不思議そうに頷くのは同時だった。
驚いて振り返ると、そこには腕を組んで壁に寄り掛かった暁がニヤニヤと笑っていた。
「完全に二人の世界で全く気付いてないのな。…ったく、いつまで玄関で抱き合ってるつもり? 右京父さん達が玄関先でイチャついているようだから入れないって、俺にボヤキメールを送ってきたんだけど?」
暁は可笑しくて堪らないと、肩を震わせて笑っている。
陽歌は頬が染まり、耳まで熱くなるのを感じた。
「そこ、いい加減退いてあげないと誰も入って来れないよ。右京父さんもいい加減痺れを切らして…」
ピンポ〜〜ン♪ピンポン♪ピンポン♪ピンポンピンポン…
暁が言い終える前に鳴った呼び鈴は、徐々にその感覚を短くしていく。
かなり苛立っているのか、それとも晃をからかっているのか、いずれにしても早く開けろと言いたいのが、ドアの向こうからビンビン伝わってくる。
晃は思わず呆れて「子供かよ?」と呟いた。
「クスクス…ほーら来た。そのまま抱き合ってたら二人ともビックリするだろうね。それとも安心するかな? 賭けてみる?」
晃は「それもいいね」と一瞬乗り気な様子を見せたが、陽歌は慌てて晃の腕からすり抜けて数歩下がった。
晃が陽歌の様子に笑いながらドアを開けると、右京が毛布に包まれた杏を抱きかかえ仏頂面で立っていた。
「人を待たせて随分と楽しそうじゃないか。呼び出したのはお前だろ?」
「鍵は開いていたんだから、入ればいいのに」
「バーカ。あの雰囲気で入れる神経の太いヤツがいたらお目にかかりたいよ。ドア越しに色々聞こえるから暫く待ってたんだぜ。でも一向に奥に移動する様子は無いし、しょうがないから暁に様子を見に行かせたんだ。ったく、軽いとはいえ6年生ともなるとこうしてずっと抱いているのも辛いんだぜ? いい加減ベッドに寝かせてやってくれよ」
「あぁ、そうだ。待たせてごめんね杏ちゃん」
晃が杏に
だけ優しい言葉を掛けると、右京は苦々しい顔で「ほら、どけよ」と晃をワザと押しのけて奥へと入っていく。
「暁のベッド借りるぞ。あそこなら夜中に起きても驚かないだろうからな」と勝手に暁の部屋へ向かった親友の後姿に苦笑しながら、晃もその後に続いて靴を脱いだ。陽歌も晃に促されリビングへと向かう。
だが数歩歩いた時、晃が何かを思い出したように玄関を振り返った。
「あれ? ねぇ右京、蒼は?」
晃の問いかけが陽歌の中の何かを揺さ振った。
あおい…
心の中の何かが、ビクリとその名前に反応した。
胸の奥が熱くなり、揺り動かされるような感覚が湧き上がってくる。
肌が粟立ち、陽歌は自身を抱きしめた。
…あおい…あおい…
まるで自分の半身を呼んでいる様な響きだった。
「あなたが……陽歌ちゃん?」
記憶の奥底に眠る、懐かしい声が蘇る。
振り返ると玄関のドアの前に腰までの長い黒髪の女性が立っていた。
初めて会うのに誰よりも近い人だと思った。
心の中で何かが砕ける音がして、陽歌の中で茜の感情が大きく膨らんでいった。
込み上げてくる茜の家族への強い想い。
こんなにも愛している人たちに自ら語りかけられない切なさが苦しくて、胸が痛い。
陽歌の中に再び、茜を助けたい、幸せにしてやりたい、と願う気持ちが強く込み上げてきた。
陽歌は瞳を閉じると茜に語りかけた。
茜さん、私の体を使って。
あなたの思うままに話して、触れて、愛してあげて…
あなたが愛した人たちに伝えたかった想いを伝えて…
あなたの口から直接…愛しているって言ってあげて…
深層部へ意識を深く沈め、茜の意識を探し当てると、グイと自らの意識に引き寄せた。
二つの意識が重なり一つに解け合っていく。陽歌は茜の意識を表層へと押し上げると、ゆっくり瞳を開いた。
目の前の蒼にニッコリと微笑みかける。
そこに居たのは陽歌であり、茜でもあった。
陽歌が静かに口を開く。
茜が想いを語り始めた。
「ただいま…蒼」
陽歌が口を開いたとたん、部屋の空気が一変した。
これまでの雰囲気とは明らかに違う陽歌に違和感を感じたのは晃だけではなかった。
だが蒼は驚く様子も無く穏やかに微笑み返した。
「おかえり…茜 」
蒼は茜をふんわりと抱きしめた。
「蒼は私のしたかった事に気付いていたのね」
「確信は無かったわ。でも私があなただったら…と考えれば簡単なことよ。私達は双子だもの。茜の考える事なら誰より分かるつもりよ。ごめんね。もっと早くに…如月さんから手紙を貰ったときに気付くべきだった。…そうすれば茜も晃君もこんなに長く待たずに済んだのに」
「ううん、この時間は必要なものだったの。機が熟したからこそ、こうして還って来る事ができたのよ。蒼が私の最後の我が儘を叶えてくれたおかげよ。本当にありがとう」
茜は蒼を抱きしめ返し、その肩越しにゆっくりと部屋を見渡した。
真っ先に視界入ったのは呆然と二人を見つめる晃だった。その瞳には薄っすらと光るものが滲んでいる。
陽歌と茜の関係を予想していた右京は静かに成りゆきを見守り、その隣で暁は胸がざわめくのを感じながら二人の様子を見つめていた。
時が止まったような静寂が部屋を包む。
目の前の出来事は夢で、小さな物音一つで全て消えてしまいそうな不安から、誰も言葉を発することが出来ないでいた。
「茜…本当に君なのか?」
長い沈黙を破ったのは、搾り出すような晃の声だった。
呼吸が僅かに音を纏っただけの擦れた声だったが、それは静かな部屋の空気を振動させるには十分だった。
16年間どんな景色の中にも追い求めていた愛しい影が、今、目の前に立っている。その事実がまだ夢のようで、触れると消えてしまうのではないかと怖かった。
「ええ、そうよ。晃」
「…陽歌は茜の生まれ変わりなのか?」
茜は微笑みながら首を横に振った。
「いいえ、違うわ。陽歌は陽歌よ。私は彼女に角膜を提供したの。今の私は彼女の瞳なのよ」
晃と暁は驚いて息を呑んだ。
右京も予想していたとはいえ、実際に茜の魂を宿った陽歌を前にして直ぐに言葉が出なかった。
「私にはどうしても叶えたいことがあった。陽歌の瞳を借りてその願いを叶える為に戻ってきたの。蒼には解るわね?」
蒼は黙って頷くと、茜を抱きしめていた腕を緩めて暁を振り返った。茜の背に手を添えて暁に向き直ると「あなたのお母さんよ」とニッコリと微笑んでその背を押す。
暁は言葉が見つからず、少しずつ近づいてくる母と呼ばれた女性に、懐かしい天使の面影を重ねて見ていた。
「暁…会いたかったわ」
茜は暁に向き合うと頬に手を伸ばしたが、触れる直前で戸惑った様子を見せ、そのままギュッと自分の胸の前で握り締めた。
暁に寂しい思いをさせてしまったという罪悪感から、自分から触れることはできなかったのだ。感情を殺すように首を横に振ると、フワリと優しい香りが辺りを包む。
何処か懐かしい香りに、暁は胸が温かくなるのを感じた。
「…あなたが…母さん?」
茜は静かに頷いた。
「ごめんね…暁」
「え?」
「ずっと、謝りたかったの。本当にごめんね。育ててあげられなくて」
暁の中に不思議な感覚が広がっていった。
懐かしい香り。優しい微笑み。柔らかな話し方。目の前にいる女性は昨日出逢ったばかりのはずなのに、心のどこかで彼女を覚えていた。
かつて自分だけが見ることができた天使とは容姿も声も違う。だが、あの頃天使を母だと確信できたのと同じように、今、目の前にいる女性が自分の母親なのだと、理屈ではなく本能が理解していた。
「ごめんね。一度も抱いてあげられなくて」
どこか懐かしい優しい声が耳に心地良く響く。
まるで子守唄を聞いているような穏やかな気持ちになってゆくのが不思議だった。
「ごめんね。たくさん愛してあげられなくて。寂しい時に傍にいてあげられなくて。哀しいときに抱きしめてあげられなくて…それから…」
大粒の真珠が零れ落ち、止め処なく流れるのを拭うこともせずに懺悔する姿に、暁は堪らなくなって母を抱きしめた。
茜は一瞬大きく目を見開き、震える手をゆっくりと暁の背に回した。
背中に伝わる小さな手の温もりにキュッと胸が締め付けられる。その時、暁の中にたった一度だけ触れた母の手の温もりが、ハッキリと蘇ってきた。
生まれたばかりの自分の背に添えられた温もりが少しずつ失われていった哀しい記憶は余りにも衝撃的で、暁の胸を鋭い痛みで貫いた。
「自分を責めないで、母さん。俺、たくさん母さんに愛してもらったよ。いつだって見守ってくれていたのを知ってるよ。生まれた時からずっと傍にいてくれたよね。だから寂しいと思ったことなんて無かったよ」
「暁…」
「小学校一年の時だったよな。母さんは俺に大切なものを与えてくれた。それによって天使の力を失って消えてしまったけど…あの時からいつか母さんは俺達の処へ還って来るって知っていた気がするよ。……お帰り、母さん」
(注2:参照)
「…どうして? あの記憶は時と共に褪(あ)せていくはず。大人になるまで残るはずが無いのに…何故覚えているの?」
「曖昧な部分はあるよ。でもどんどん記憶が薄れていくって気づいた時に、覚えていることを出来る限り記録に残したんだ。あの時の事はやっぱり忘れたくなかったし…俺は天使の…母さんの事を覚えておきたかったんだ」
「暁…ありがとう…」
「礼を言うのは俺のほうだよ。あの時母さんが助けてくれたから、俺は大切な友達を救うことが出来た。…感謝しているよ」
「…暁…あなたは幸せなのね」
「幸せだよ。…母さんが俺を産んでくれたからね」
茜は強く目を瞑り大きく息を吸い込むと、暁の言葉を胸に深く刻み込んだ。
そして一言一言、幸せを噛み締めるように語った。
「ずっと見守っているわ。ずっとあなたの幸せを願っているわ。ずっとずっと愛しているわ。暁…私の愛しい子……誰よりも幸せになって…」
茜は暁の頬に触れ、愛しげに撫でた。
そして、幼い暁にいつも天使がくれた優しいキスを残してから、ゆっくりと離れた。
暁から数歩下がった時、晃が茜の名を呼んだ。
茜が惹き付けられるように、ゆっくりと振り返る。
互いの瞳が合った瞬間、どちらからともなく手を伸ばした。
長い時を経て再び腕の中に戻った温もりを、晃が強く抱きしめる。
茜は縋るように晃の胸に顔を埋めた。
「茜…茜…本当に君なんだね。ずっと待っていたよ。君が還って来るのを…。もう離さない。二度と…」
「…晃…私もずっと会いたかった。こうしてあなたに触れたかった。…でも…これが本当の最後よ」
「……え?」
晃は再会できた喜びに浮き立っていた心を、鷲掴みにされ床に叩きつけられたような衝撃を受けた。
思わず抱きしめる腕に力が入り、否定を求めるように唇を奪う。
茜は苦しげに眉を顰めたが、晃を宥めるように激しい感情を受け止めた。
「どうして…やっと還ってきたのに、君はまた僕を独りにするのか? もう嫌だ。…僕は…今度こそ君と一緒に逝く」
「ダメよ晃。そんな事をしたら陽歌ちゃんが哀しむわ」
「…っ!」
「自ら命を絶つことは罪。二度と…同じ罪を犯してはいけないの。あなたにはまだ現世で成すべきことが残っているわ。天命を全うしなければならないの」
「二度と…同じ罪を?」
「あなたは試されているのよ。前世の罪を償う為に…。」
「前世? そんなもの関係ない! たとえ何度罪を重ねたとしても、どれほどの罰を背負うことになっても、僕は君を手放さない。もう二度と…君を失うのは嫌だっ!」
悲痛な叫びを上げ、抱きしめる腕に更に力を込める晃を、茜は優しく抱きしめ返し、名残を惜しむようにその胸に頬を寄せた。
「この体は陽歌ちゃんのもの。もう逝かなくちゃ…」
「ダメだ…逝かせない」
「晃…ごめんね。私は気づいていたの。私が逝った後、あなたが独りで生きる事を選ぶだろうと。だけど私はあなたにそんな哀しい生き方をして欲しくなかったの。誰かを愛して幸せな家庭を築いて欲しかった。だから、陽歌ちゃんに18歳になったらあなたに会って幸せを確かめて欲しいと頼んだのよ。あなたが再婚せずまだ独りだったら…陽歌ちゃんとあなたが愛し合うことを望んでいたの」
「…じゃあ陽歌が僕に惹かれたのは、君の感情なのか?」
「違うわ。…確かに、あなたに出逢う前から夢の中で惹かれていったのは私が目覚めたせいよ。でも私が目覚めなくても二人は出逢って自然に惹かれあっていたはずよ。だって…晃と陽歌ちゃんは現世で結ばれる運命にあったんだもの」
「な…っ? バカな、だって僕は茜と…」
「…晃、私達は本当なら、現世では結ばれない筈だったの。…私達は前世で許されない恋をして、多くの人を傷つけ…大罪を犯した。…私達は罪を償う為に転生したのよ」
「…まさか…? そんなこと…嘘だろう?」
「人は死ぬと過去の全てを思い出すわ。…そして何故生かされたのか、何の為に存在したのか、その意味を知るの。私の病にも死にも意味があったの。…私は前世の罪を償う為に、病をもって過去の戒めを解き放つ為に生まれ変った。そしてあなたに…刑を科す為の存在として出逢ったのよ」
「茜が僕に刑を科すだって? …笑えない冗談だ」
「解らない? 私達が愛し合ったことで、本来結ばれるはずだった陽歌ちゃんとあなたは出逢うことなくすれ違った。そして私を失ったあなたは長い間時間を止め、孤独な時を生きてきた。運命を歪められ、一生孤独の中で生きていく事があなたに科せられた罪だったの」
「…じゃあ何故陽歌は僕の前に現れたんだ?」
「…それは…暁を授かったからよ」
「暁を?」
「暁には暁の担(にな)うべき使命があって、彼はその為に生まれたの。私達の間に授かったのが特別な意味を持つ子だったから、あなたは減刑されたのよ。私は一度歪められた運命を修復する為に陽歌ちゃんに出逢ったんだわ。あとは時期だけだった。私の死後、時を経てあなたと陽歌ちゃんが再び出逢うまでには、あなたの罪が消えるだけの時間が必要だったのね。
でも生きていた頃の私はそんな事を知らなかったから、陽歌ちゃんの中に強い想いを残してしまった。そのせいで随分彼女を苦しめてしまったわ。願いを叶えてもらった今、私はいつまでも彼女の中に居るわけにいかないの」
「僕だけが罪を許されて君は幸せになる事無く逝こうというのか? そんな事を僕が許すと思う? 君は陽歌と共に僕の傍で生きるんだ。この世から消えることは許さない」
「晃…ダメよ。この体は陽歌ちゃんのものだもの。また彼女を苦しめてしまうかもしれない。それに私はあなたに悲しみを与える存在。消えなくちゃいけないの」
「ねぇ、茜。もし全てを知っていたとしても、僕は君を愛していたよ。どんな苦しみが待っていようと、どれほど大きな悲しみが未来にあろうと、君を知らない人生を生きるくらいなら、血を吐いて生きる方がましだ」
「…あ…きら…」
「苦しみは甘んじて受ける。罪なら一生かかって償う。足りないというなら次の世でも償い続けよう。だから…もうどこへも逝かないでくれ。僕の傍から離れるな。一度失った君を再び失うなんてごめんだ。陽歌はこの世で僕と出逢い愛し合う運命だったんだろう? …だったら彼女の瞳である君も、僕に愛される運命にあるんだ」
茜は晃の首に腕を回し、唇を重ねた。
溢れる涙が頬を滑り、唇へと伝っていく。
別れのキスは哀しい涙の味がした。
「ありがとう…晃。その言葉だけで私は十分幸せよ。…ごめんね。一緒に生きれなかった事。私と歩けなかった分も陽歌と幸せになってね。私の想いはこの世界の中にずっと生きている。あなた達が幸せであるように、ずっと祈り続けて見守っているわ」
茜の決意は揺るがなかった。
共に生きようと願う晃を振り切るように、茜は意識を手放し、晃の腕の中に崩れ落ちた。
同時に、皆の心に直接茜の声が響いてきた。
ありがとう…
あなたたちに支えられて私はいつだって幸せだった。
蒼…大好きよ。
右京…大好きよ。
暁…愛しているわ。
そして晃…
ずっとずっと愛している。
私の愛する人たち…
どうか幸せになって。
いつだってあなたたちのことを見守っているわ。
いつだってあなたたちの幸せを祈っているわ。
あなた達に出逢えて、愛されて、私は誰よりも幸せだったよ…
茜の想いが、茜の愛が、全員の心に温かく沁みていった。
茜の声は徐々に小さくなり消えてゆく。
陽歌から茜が消えたのか…
それとも彼女の中で深い眠りについたのか…
誰にも判断できず沈黙が続いた。
陽歌は晃の腕に抱かれ幸せな笑みを浮かべ眠っている。
その表情に皆の幸せを願う、茜の微笑が重なった。
儚い命にささやかな幸せを求めた、哀しいほど優しい女性(ひと)。
神がこの世に存在するのならば…
どうか彼女をこのまま逝かせないで欲しい。
どうか、彼女を還して欲しい。
そう、皆で祈らずにはいられなかった。
どうしてもその場を動く気持ちになれず、リビングのあちこちでそれぞれが落ち着く場所に座り込み、誰からともなく、ポツリポツリと茜の思い出を語り始めた。
懐かしい日々は尽きる事無く夜通し語られてゆく。
優しい気持ちで満たされた、幸せな家族の時間が穏やかに流れていった。
茜の愛した幸せな空間がリビングを包み込む。
それは夜の闇が遠のき、やがて東の空が徐々に染まり、茜色のベールで包まれるまで続いた。
天と地の境に亀裂が入り、徐々に広がる光の矢が空を切り裂いていく。
新しい朝が明ける。
陽歌と晃の新しい一日を祝福するように、太陽が茜色の空を黄金に染めていった。
(注2:ビケトリ出逢いの物語の一部に触れています。詳しくは『ETERRNAL FRIENDS』を読んでみてくださいね。)
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