陽歌は真っ白な世界の中にいた。
ここは彼女の居る場所だと、先日の記憶が蘇る。
顔を上げるとすこし先に茜の後姿があった。
その瞬間、茜が陽歌の中から去ろうとしていると悟った。
このまま光の中に溶け込んだら、彼女は二度と手の届かない世界へ逝ってしまう。
陽歌は大声で茜を呼び止めた。
だがその声は光の中に吸収され、茜には届かない。
陽歌は必死で茜の後を追いかけた。
上も下も、右も左も、距離感さえもない光の世界は、無重力のような浮遊感があり上手く走れない。
何度も転び、声の限りに叫び、陽歌は茜を必死に追いかける。
茜に近づくにつれ、陽歌の姿は徐々に茜と出逢った頃の少女の姿に近づいていった。
「茜さん、行かないでっ! せっかく晃さんに会えたのに…。やっと暁君と暮らせるのに、どうして逝っちゃうの?」
声が届いたのか気配を感じたのか、茜が突然ピタリと足を止め、ゆっくりと振り返った。
眼を大きく見開いて「何故?」と唇が動く。陽歌がここにいることが信じられない様子だった。
『何故ここに…? ついて来てはいけないわ。あなたまで消えてしまう』
「やっぱり茜さん、本当に私の中から消えるつもりだったのね。そんなの駄目! イヤよ。どこへも行かないで。逝っちゃダメ。お願い」
茜はその場にへたり込み泣きじゃくる陽歌に近づくと、頬にそっと触れ涙を拭った。あの頃のままに優しい手を、陽歌は思わず握り締めた。
『陽歌ちゃん、私の願いを叶えてくれてありがとう』
「…茜さん…」
『あなたは私を家族に会わせてくれて、想いを伝えてくれた。もう思い残すことは無いわ』
「どうして? やっと還ってこれたのよ。大好きな人達と一緒に暮らせるのよ。ずっと待っていたんでしょう?」
『私は晃と生きたかった。暁を育てて三人で暮らしたかった。…でもね、既にこの世の者ではない私には、それは叶えられない望みなのよ。でもこれからはあなたが私の瞳で家族を見つめ、愛していってくれる。だから私はとても幸せよ。何も思い残すことは無いわ。これで永遠に眠りにつくことが出来る』
「そんな! 眠るなんてダメよ。何度でも叩き起こしちゃうんだから。ゆっくりなんて寝かせてあげないんだからっ! だからっ…お願い消えないで。私と一緒に生きていこうよ」
茜は宥めるように優しく陽歌の頬を撫で、横に首を振った。
『私はこの世での役目を終えたの。本当なら16年前に私は転生するはずだった。でも私は輪廻の輪から外れてもこの世に留まることを選んだの』
「どうしてあの時天使になったの? 生まれ変わって来世でもう一度晃さんに逢おうとは思わなかったの?」
『罪を犯した私達は二度と逢うことが出来ないはずだった。あんな形でも再び愛し合えたのは奇跡だったのよ。だから、次の世での再会は望めないわ。だったら輪廻の輪から外れても、彼だけは救いたかった…』
「二人の間に宿ったのが暁君だったから晃さんが減刑されたっていうのは嘘なんでしょう? だって、茜さん最期のときに神様にお願いしていたじゃない。晃さんの罪を背負うから彼を許して欲しいって」
『…それは…半分は本当よ。暁は使命を担って生まれてきたの。どんな障害も乗り越え、命を賭して彼を世に送り出す。それが私の天命だったの。彼が宿った時、晃は出産を反対したわ。何日も悩んでようやく出産を許してくれた。でもその決断は私の死を決定するものだった。…この意味が解る?』
陽歌はハッとして顔を上げた。
もしも晃が出産を反対していたら、暁は産まれる事無く、茜は生きていたかもしれないのだ。
そして陽歌は茜とも晃とも出逢う事無く、今とはまったく違う人生を送っていたかもしれない。
運命が歪められたという茜の言葉の重さを改めて実感した。
『私の死が確定した時点で、彼は転生の際に担ってきた役目の一つを終えたの。それによって運命は修復の方向へ動き始めていたわ。だから私は陽歌ちゃんと出逢ったの』
「待って? それじゃ茜さんは暁君を産んで死ぬ為に転生させられたっていうの? 私が茜さんと出逢ったのは、運命が私と晃さんが引き寄せる方向に動いたからだっていうの? そんなのって…っ…」
『哀しい話だけど…私達は愛し合いながらも互いを苦しめる為に出逢ったの。私は晃に刑を科す為に、晃は私を死に導く為に現世で添わされたのよ。今だからこそ解るけれど、生きている時に聞いても信じられなかったでしょうね。…愚かな罪を犯した私達に相応しい残酷な刑だわ』
「そんなの酷いわ。神様のする事じゃないわ」
『仕方がないのよ。私は巫女だったから…。神を裏切り人々を傷つけた罪は、より重いの。代々神に仕える家系だった私と王族だった彼は契ることを許されなくて、私達は国を捨てて逃げたのよ。だけどそれは重大な国家への裏切り行為で結局私達は捕まってしまったわ。王の主治医だった彼は、呪いにより病の床に伏している王を見捨てた罪人として幽閉され、私は神を裏切った者として、怒りを鎮める贄(にえ)となった。生きたまま胸を裂かれ心臓を捧げられたのよ。彼は…私の惨い死を知って、絶望の余り自ら死を選んだの。でもそれによって王の呪いを解く薬を処方できる唯一の者がいなくなってしまった』
「…そんな…」
『…私達のしたことは、多くの民を傷つけ、王を裏切り、結果的に二つの国を滅ぼしてしまった。死んだ後も決して許されない重罪だった。私は本来なら転生を許されない身だったのよ。でも前世の罪を清算するために、数百年続くレクシデュール王家に掛けられた呪いを浄化するという役目を担って転生することを許されたの。そして王家の末裔である父の娘として、再びこの世に生を受けたの。不思議ね。父には私が愛した男性(ひと)と同じ一族の血が流れていて、茜の中にもその血は受け継がれていたなんて』
「呪いを浄化するって…まさかそれが病気の原因?」
『そう。私は死をもって一族の呪いを浄化する為に病を抱えて生まれたの。私の死によって呪いは解け、同時に使命を持って生まれた王家の血を次代へ受け継くこともできた。あの時そのまま天に召されていれば、天命を全うし呪いを解いて罪を償った私は、もう一度転生することが許されたでしょう。けれど…彼との再会を望めない世界で生きるより、私は晃を救う道を選んだの。陽歌ちゃん、あなたが言うように彼の刑が短くなったのは私が天使となったからよ。でもそれによってあなた達が出逢った訳じゃないの。あなた達は結ばれるべき運命の二人。晃の罪が許された時点で出逢っていたはずだわ。私のした事は、本来なら何十年後か、もしかしたら次の世の事だったかもしれない出逢いを、ほんの少し早めたに過ぎないの。私の事を馬鹿だと思う? それでも…彼を少しでも早く救いたかったのよ。私がしてあげられることはもうそれしか残っていなかったから』
「そんなの…哀しすぎるよ。前世では茜さんが晃さんの運命の女性だったんでしょう? それなのにどうしてこんなに哀しい別れ方をしなくちゃいけないの?」
『逃げてしまったからよ』
「え?」
『私達が運命に立ち向かっていれば、もしかしたら結ばれていたかもしれないわ。たとえ結ばれずに人生を終えたとしても、生まれ変わった次の世できっと幸せになれたと思う。でもあの時の私達は自分達の立場も重責も忘れ、二人が幸せになる道を優先してしまったのよ』
「…でも…重罪を犯したのは晃さんも同じでしょう? なのに晃さんにだけ私が運命の女性として存在している。茜さんは独りなのに…っ…そんなのって、茜さんが可哀想だよ。酷すぎるよ」
『転生をすれば必ず運命の相手が決められる。存在に気づくかどうか、出逢えるかどうかは別として、全ての人にね。私がもしも転生を拒まず生まれ変わっていたら…きっと新しい運命の相手に出逢えていたでしょうね。でも私はそれを望まなかったの』
「晃さんだって同じ事を望んだかもしれないわ」
『ダメよ。…晃は現世でも来世でも成すべき役割を与えられているの。彼が天命から逃げることは再び罪を犯すのと同じこと。一度自ら命を絶った彼は今度こそ輪廻の輪から外されてしまう。そんな事させられないわ』
「……晃さんの天命って何? そんなに大切なことなの?」
『それはいつか晃が自分で気付くでしょう。…これから彼と共に生きるあなたは、まだそれを知るべきじゃない。だけどきっと晃ならやり遂げられるわ。陽歌ちゃん、これからはあなたが彼を支えてあげてね。…決して私達のように運命から逃げて過ちを犯さないで。そうすれば引き裂かれる事なく何度でも生まれ変わって巡り逢えるわ』
「私じゃダメ。茜さんじゃなくちゃ…。私の想いは茜さんには叶わないもの。晃さんには茜さんが必要なのよ」
『陽歌ちゃん、一度転生を拒んだ私はもう二度と生まれ変わることが出来ない。大気の中に消えるしかないの。それに、罪を犯した私達はたとえ転生しても二度と愛し合うことは許されない。でもね、あなたが私の瞳を持つ限り、私の晃への想いは消えることが無いわ。陽歌ちゃん、あなたには本当に感謝しているの。どうか私の分も晃と暁を愛してあげて。きっと幸せになってね』
「やだ、茜さん! 一緒に居て。私と一緒に晃さんを愛していこう? ずっと一緒だったじゃない。これからもずっと一緒に生きていこうよ」
茜はゆっくりと首を横に振った。
『自分の足で立ってしっかりと生きるのよ。晃とあなたの幸せをずっと見守っているわ…』
「ヤダーッ! 茜さんの嘘つきっ! 晃さんと一緒に生きる為にもう一度還るって言ったじゃない。あれは嘘だったの? 私だけじゃダメなの。私の中の記憶だけでもダメなの。私達は16年間魂を分け合って生きてきたじゃない。茜さんは私の一部なのよ。一緒にいないと私は陽歌じゃなくなってしまう。今更心が半分なくなったら私どうすればいいの? お願い。私を独りにしないで。もう誰かが逝ってしまうのはイヤ。茜さん言ってたじゃない。生きたくても生きられない人は沢山いるって。パパやママは還って来たくても還ってくることはできないわ。でも茜さんは還って来られた。生きることができるのよ。また消えるなんて許さないわ。ねぇ、茜さんはここにいなくちゃダメなの。晃さんの処へ一緒に還ろう。ずっと一緒に彼を愛していこう」
陽歌は茜に縋って必死に訴えた。
茜は困った顔をして、陽歌をフンワリと抱きしめた。
『ずいぶん大きくなったのに、行かないでって泣くのはあの頃のままね』
クスクスと笑うと桜の花の香りがフワリと周囲に広がった。
茜の姿が徐々に光の中に消えていく。
陽歌が手を伸ばしたとき、茜はひと際眩しい光に呑まれた。
「いやっ、いやあーっ。茜さん逝かないでっ」
陽歌は絶叫してその場に泣き崩れた。
涙に濡れた両手には、桜の花びらが残されていた。
+++
陽歌は見慣れない部屋のベッドで目を覚ました。
頬には幾筋もの涙が伝った跡がある。
もう茜は消えてしまったのだと思うと、哀しみがこみ上げてきて、再び頬を涙が伝っていった。
ひとしきり泣いて気持ちが落ち着いてから、静かにベッドから降りる。
どうやら客間らしく、細かな彫刻が施された重厚なドアを開けて部屋を出ると、10畳ほどのリビングに繋がっていた。
リビングのソファーには晃が眠っていた。良い夢を見ているのか口元に微笑を浮かべ優しい表情をしている。
起すのは可哀想だったが、このままでは風邪を引いてしまうと思い、思い切って声を掛けた。
「…晃…さん…起きてください。こんな所で寝ていたら風邪を引きますよ?」
陽歌の呼びかけにも目を覚ます様子は無い。
カーテンの隙間から漏れる朝陽が、夢の中で何度も触れた癖のある茶色の髪を紅く染めていた。
閉じられた長い睫毛も、綺麗に通った鼻筋も、笑みを浮かべる薄い唇も、何もかもが愛おしい。
何度も口づけた記憶が蘇り、その時々の茜の感情が懐かしく込み上げてくる。
陽歌は驚きに大きく目を見開き、信じられない思いで心の中に問いかけた。
「…茜さん? …もしかして…私の中にいるの?」
胸の奥で桜の花が舞い、茜が微笑むのを感じた。
『…まったく、だから来ちゃダメだって言ってたのに…。あのまま私が消えたら、あなたまで一緒に消えちゃうところだったのよ。陽歌ちゃんの中に戻るしかなかったわ』
あの時、光の中で消えたと思った茜は、陽歌の中で再び同化していたのだ。陽歌は「やった!」と小躍りして喜んだ。
「じゃあ…これからはずっと一緒なのね?」
『ええ。最後に会った日は傍にいてあげられなかったけど、今度はずっと傍にいてあげるわ。泣き虫の陽歌ちゃん』
心に直接響いてきた茜の声に、胸が温かくなっていく。
クスクスと笑うイメージが広がり、桜の花が舞い上がるのを感じた。
「約束よ。…私はあなた、あなたは私。私達は二人で一人の人間なんだから…ずっと傍にいてね。次の世も、その次の世も、ずっと一緒よ。何度生まれ変わっても一緒に晃さんを愛していくの。約束よ」
胸の中に茜が微笑むイメージが広がる。
陽歌は込み上げてくる喜びを抑えきれなくなって晃の頬に唇を寄せた。
それが陽歌の感情か茜の感情なのかは、もうどちらでも良かった。
唇に触れる温度が、何度も唇を寄せた記憶を蘇らせる。
茜の感覚の全てが、今は自分のものであると素直に受け入れることが出来た。
その時、突然強い力で引き寄せられ、あっという間に晃の膝の上に乗せられた。
驚きに口をパクパクさせている陽歌に、晃は窓から射し込む朝陽より眩しい笑顔で言った。
「おはよう。寝こみを襲うのはフェアじゃないよ」
「ねっ…寝こみを襲うなんて…違っ…!!」
「あれ、そうなの? 残念だなぁ」
晃はクスクス笑うと、自分より頭一つ大きくなった陽歌を見上げた。
「朝方随分うなされていたね。何度も起したけど目覚めなくて…ずっと茜の名を呼んでいたよ」
「…茜さんと話したの。彼女は消えようとしていて、私、必死で止めたの。一緒に生きて欲しいって」
陽歌は晃が茜を死に導く為に現世で添わされた事実だけ伏せ、そのほかの事を大まかに説明をした。
前世からの因縁や茜の背負ってきた運命についても晃は黙って聞いていたが、前世の茜の死を聞いた時は痛ましげに眉を顰めて目を伏せた。
最後まで聞き終えると、晃は大きく息を吐(つ)いた。
「僕がまだこの世に生かされているのは成すべきことがあるから…か。天命ってのが何なのか…何となく解る気がするよ」
「え、本当に?」
「ああ、生きている間に成し得る事が出来るかは疑問だけどね。でも出来ないとヨボヨボになっても死なせてもらえないって事だろうなぁ?」
晃の言い方に陽歌は思わず声を立てて笑い、それまでの張り詰めた雰囲気が僅かに緩んだ。
「それで、茜は…やはり消えてしまったんだね?」
陽歌は首を横に振り、自分の胸を指して微笑んだ。
「…え? まさか…本当に? じゃあ茜はまだ君の中に?」
「ええ。私あんまり我が儘を言うから逝けなかったみたい。また困らせちゃったけれど、我が儘も時には役に立つものね」
クスクスと笑う陽歌に、晃は何かを思い出したように「そう言えば…」と言葉を繋いだ。
「茜は検診のたびに小児病棟で捕まってたよね。なかなか帰してくれない子がいて、大学の帰りに迎えに行くと約束の時間より必ず30分は待たされていた記憶があるよ。…あれは君だったんだね」
陽歌は自分の我が儘が二人に迷惑を掛けていたことを思い出し、頬を染めた。
「あの時はごめんなさい」
「いいよ。その我が儘のおかげで茜は逝けなかったんだろう?」
晃はクスクスと笑いながら陽歌を抱きしめると、胸に耳を押し当てた。
思いがけない行動に陽歌は慌てふためいたが、晃は全く動じず、目を閉じて陽歌の鼓動に耳を傾けていた。
「…こうして安定した胸の鼓動を聞いていると安心するよ。茜はもう二度と発作に苦しむ事無く、死の恐怖と戦うことも無く幸せになれる。…ありがとう陽歌」
陽歌は返事の変わりに、晃の頭を右手で包み込むようにふんわりと抱いた。
癖のある髪に頬を寄せ優しく撫でると、指の間をすり抜けてゆく茶色の髪が朝陽を受けて一層鮮やかな紅(あか)に染まる。
そんな事までが何故、こんなにも愛おしいのだろうと思った。
「僕はずっと茜を救えなかったことを後悔し続けていた。もっと生かしてやりたかった。もっと幸せにしてやりたかった。どうして僕にはその力が無かったんだろうって、ずっと自分を責めていたんだ。陽歌、僕は茜に誓うよ。茜に出来なかった分もきっと君を幸せにするって」
まるでプロポーズと聞き間違えそうな言葉に陽歌は驚いて目を見開いた。
「晃さん、それプロポーズされているみたい」
「アハハ…そうだね。でも陽歌だって、さっき凄く情熱的な言葉で僕を驚かせただろう?」
「私が?」
「何度生まれ変わっても僕を愛していくって」
「ちがっ…あれは茜さんに…って、あーっ! あの時もう起きていたの?」
「クスクス…君の声で目が覚めたんだよ。だけど独り言を言っているし、ずっと一緒とか愛していくとかドキドキするような台詞の連発で、僕のほうこそプロポーズされているのかと思ったよ。ビックリして起きるタイミングを失っていたら、いきなり頬にキスしてくるし、…陽歌って結構大胆だね?」
「…晃さんは結構意地悪なのね」
「今更? とっくに知っていると思ったよ。まぁ、僕としては陽歌からのプロポーズでも大歓迎なんだけど、できればプロポーズはあの場所で僕から…がいいかな?」
陽歌の脳裏に懐かしいホタルの舞う風景が蘇えった。
あの懐かしい森には今もホタルは棲んでいるのだろうか。
「ええ…いつかあの場所で…。あの森にまだホタルはいるの?」
「ああ多分ね。今夜にでも行って確かめてみよう。ホタルがいたらすぐにでもプロポーズするけど、覚悟はいい?」
今夜という急な展開に驚く陽歌の中で、『決断、即行動は相変わらずね…』ともうひとりの自分が笑う気配がする。
茜の気持ちが自分の感情でもあることがとても嬉しくて、陽歌もクスクスと笑った。
「ホタルがいなかったら返事を保留しちゃうかも?」
「うーん、それは困るなぁ。じゃあ君がプロポーズを受けるまで拉致監禁ってのはどう?」
「クスクス…またそれ? あ、まさかまた、僕の誕生日に結婚式をする!…なんて言わないわよね?」
「……誕生日まで一週間あるよ。…って言ったらまた怒って飛び出す? 今度はちょっとだけ余裕があるけど…ダメかなぁ?」
やや上目遣いで訴える晃の、子犬がおねだりするようなこの視線には茜だった頃から弱い。
『そういうところ成長していないのね…』と呆れ気味の茜の感情が伝わってくる。その時、「僕は成長していないかな?」と晃が呟いたので、あまりのタイミングの良さに陽歌は思わず噴き出してしまった。
笑いすぎだと拗ねる晃を宥めるように首に手を回す。
ゆっくりと引き寄せると、唇の触れるギリギリの距離で甘く囁いた。
「そうね…
私のウェディングドレスが虫に喰われていなければ考えるわ」
「大丈夫。ドレスはちゃんと大切に保管してあるよ。でもサイズは合うのかな? ……陽歌のほうが茜よりグラマーみたいだけど…ッ?」
言い終わらないうちに陽歌の平手が飛んだ。甘い雰囲気が一瞬で吹き飛ぶ。
晃は驚いて痛む左の頬を擦っていたが、実は叩いた陽歌自身が一番驚いていた。
何しろ自分の意思とは関係なしに手が勝手に動いたのだ。
陽歌は呆然として自分の右手を見ながら言った。
「……晃さん、茜さんが怒ってるみたいよ?」
晃は苦笑しながら「ごめん」と謝ると、陽歌を引き寄せて二人に甘いキスをした。
+++
晃が陽歌を伴ってリビングへ向かうと、蒼がブレンドした豆をミルで挽いているところだった。
部屋いっぱいに引き立ての豆の香りが立ち込めている。
陽歌は蒼の傍へ飛んで行き、興味深げに手元を見つめた。
コーヒーの豆の調合も、茜が選んだミルでそれを粉にしていく様子も、全てが新鮮なようで懐かしかった。
「陽歌ちゃんもやってみる?」
確かに茜の記憶にはあるが、ミルを使った経験のない陽歌は、見よう見まねで手を動かしてみた。
ミルのハンドルから伝わる振動が懐かしい。鼻腔を擽る香りが、徐々に体に馴染んでいくのがわかった。
蒼がサイフォンでコーヒーを落とす間も、陽歌は瞬きもせずに見つめていた。
火を降ろすタイミングが難しいと、蒼にスパルタ教育を施したのが昨日の事のように蘇り、思わず笑みが零れた。
「これはね、茜が晃君のために考えたブレンドなのよ。陽歌ちゃんも覚えて晃君に淹れてあげてね? サイフォンで淹れるのは慣れるまで結構大変だけど…」
「教えて下さい。私、やってみたい。お願いします」
「いいわよ。でもスパルタだから覚悟してね?」
蒼は綺麗にウィンクすると、嘘よと付け加えてクスクス笑った。
蒼の笑い方も声も、茜にそっくりだ。
陽歌の知っている茜の写真よりも少し年令を重ねているが、やはりとても綺麗で、茜が生きていたら見分けがつかないほどだっただろうと思った。
「蒼さん。…あのね、お姉さんって呼んでも…いい?」
陽歌の遠慮がちなお願いに、蒼は一瞬大きく目を見開き、ゆっくりと表情を崩すように笑った。
「もちろんよ。私は陽歌ちゃんを妹だと思っているもの」
蒼の笑顔はまるで真っ白な月下美人のように艶やかで美しいと思った。
同時に桜の花が舞うように微笑む茜のイメージが流れ込んでくる。
二人の姉に大切にされている実感が、陽歌をとても幸せな気持ちにしてくれた。
リビングのドアが開き、制服に着替えた暁が、寝ぼけ眼(まなこ)の杏をつれてやって来た。
自分の部屋で寝た筈なのに、何故目覚めた時に暁の部屋にいたのか解らないらしい。全員が揃っているリビングを見てキョトンとしていた。
身内の中に一人だけ知らない女性がいることに驚いてたらしく、「だあれ?」と訊いている。
蒼が「いつか晃君のお嫁さんになる人よ」と説明すると、「およめさん?」と興味深げに陽歌を見つめてくる。暁はニヤニヤと意味ありげな笑いを父親に投げかけ、冷やかすように口笛を一つ吹いた。
穏やかな朝の空気が、子供達の登場で一気に賑やかになる。
蒼が慌しく朝食の準備をはじめ、陽歌もそれを手伝った。
今日は月曜日。暁も杏も学校がある。もちろん陽歌以外の全員が仕事へ行かなくてはならない。
慌しい一日が始まりを告げていた。
右京は蒼が手渡すコーヒーを受け取りながら眉間に皺を寄せている。どうやら晃の二度目の結婚宣言を聞いて、学習能力の無い親友に頭を抱えているらしい。
しかも正式なプロポーズは今夜だというのだから、順番が違うだろう?と呆れるのを通り越し、疲れ果ててソファーに突っ伏している。
幸せオーラ全開の晃のテンションは、陽歌がやって来た土曜日から丸二日寝不足の右京には、かなり堪えたらしい。
それは晃も同じ条件なのだが、テンションがハイの彼には全く問題がないらしい。晃が「右京も体力が無くなったね。年なのかなぁ?」とからかうと、右京は「誰のせいで疲れてると思ってるんだよ。この幸せボケが」と悪態を吐いた。
晃はそれを軽く笑い飛ばし、コーヒーを楽しみながら新聞を広げる。
右京はソファーに体を投げ出して、「30分寝る」と言って目を瞑った。
窓の傍では賑やかな父親達を横目に、暁が杏の髪を梳いてやっている。どうやら高端家に泊まった朝は、杏のご指名を受け彼が髪を結うらしい。
兄妹のように育っただけあって、暁は杏をとても可愛がっていて、杏もまた暁を慕っているようだった。
茜の望んだ愛する人との幸せな日常。
陽歌が求めていた温かな家庭。
その全てが目の前にあった。
幸せな光景に心が満たされていく。
陽歌は幸せを噛み締め、茜に心から感謝していた。
茜さんありがとう。
あなたの導いてくれた幸せはこんなにも温かい。
私の心を通して、一緒に幸せを感じていこうね。
私の瞳に映るものを、一緒に愛していこうね。
約束よ。ずっとずっと…一緒に生きていこうね。
+++
ホタルの舞う森で晃が陽歌にプロポーズをしてから6日目…
晃は一人、花の香りの立ち込める丘に立ち、沈みゆく太陽を見つめていた。
太陽が西に傾くにつれ、丘は徐々に燃えるようなオレンジ色に染め上げられていった。
茜が植えたすずらんが花をつけ、優しく吹く風に揺れている。
サラサラと木々が枝を揺らす間から、夕陽が黄金の木漏れ日となってキラキラと煌いていた。
この太陽が沈む頃、陽歌は晃の元へやってくる。
そして晃の誕生日である明日、二人はあの教会で永遠の愛を誓うのだ。
晃は茜の愛した丘の風景を見つめながら、花嫁が来るのを待っていた。
陽歌に出逢うことは運命だったのだと茜は言った。
陽歌が茜と出逢ったのも、決して偶然などではなかった。
全ては必然。
運命の導くままに、茜の導くままに二人は惹かれ恋に堕ちた。
因縁も呪いも信じなかった晃だが、今は素直に受け入れたいと思い始めていた。
陽歌に対する想いは、茜を愛した頃のように刹那を生きるような激情ではない。
だが、春の陽だまりのように温かく、夏の風のように涼やかに、晃の全てを包み込み癒してくれる。
急(せ)くことなく、ゆっくりと流れる幸福な時間の中で、寄り添い、愛を育み、温かい家庭を築く。
死の恐怖と戦うことも、時間に追われることもなく、満たされた心で家族に囲まれて過ごす、かけがえの無い時間。
茜と夢に見て叶えられなかった幸せが、今、目の前にある。
永遠に思い出の中を彷徨い、愛しい影を追い求めて命尽きるのだと思っていた頃には、自分にこんな日が来るとは考えてもみなかった。
一度は失った愛を取り戻し、新しい形で育むことができるなど、まるで夢をみているようだ。
茜の愛したこの丘を陽歌は愛しそうに見つめ、陽歌の愛する風景を茜は共に愛するだろう。
吹く風の子守唄も、木々の間から零れる太陽の欠片も、全てが三人の新しい愛の形を祝福しているように晃には映った。
沈みゆく夕陽が、空を茜の逝った日の色に染める。
瞳を瞑り大気の中に茜を感じると、晃は空に向かって穏やかに語りかけた。
茜、僕らは明日、永遠の愛を誓う。
君はそれを望み、僕らを祝福してくれているんだろう?
僕は今も君を感じるよ。
吹く風の中に…
煌く木洩れ日の欠片に…
僕らを取り巻く全ての自然の中に…
君が残した深い愛は、今もこの世の息吹の中で生きている。
そして君の魂は、陽歌の中で共に生き続けていく。
僕らはずっと一緒だったよね。
そしてこれからもずっと一緒だよ。
茜、きみの瞳に映るもの。
それは愛した人全ての幸福。
陽歌、きみの瞳に映るもの。
それは未来に続く輝く道。
僕は愛する二人の瞳に映るこの風景を共に見つめて歩いてゆこう。
陽歌と二人でゆっくりと、優しい時をたくさん刻んでゆこう。
二度と繋いだ手を離す事無く、生きてゆこう。
ねぇ、茜。一つだけ約束して欲しいんだ。
今度は僕を置いて逝かないで…。
僕はもう…二度と君を看取りたくないんだ。
いいね、約束だよ。
振り返ると陽歌が長い坂道を歩いてくるのが見えた。
真っ直ぐに晃を見つめて腕の中に飛び込んでくる。
結婚式の日、雪のように微笑んだ茜はとても儚く美しかった。
だが今日、晃の瞳に写る陽歌は、燃え立つような生命力に溢れている。
この丘を彩る全ての色に祝福されているように艶(あで)やかで美しい。
ああ…綺麗だよ。
今度こそ幸せになろう。
陽歌と共に三人で…長い人生を共に生き、添い遂げよう。
きっと幸せにすると誓うよ。
夕陽が沈む…
沈みかける刹那にひと際明るく輝く夕陽が、茜色の空を一層鮮やかに染める。
二人を祝福するように。
幸せにと語りかけるように。
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