廉君とゆっくりと休日を過ごした翌日から、あたし達はとても忙しくなった。
廉君は、7時ごろ朝食を済ませるとお仕事に出かけていく。
玄関で見送るあたしの耳元に、「香織の手料理が待っているからね。夜は早く帰るよ」と、言って綺麗に笑うと、いってきますとキスをした。
新婚さんのような台詞に赤面するあたしにウィンクを一つ残して素早く車に乗り込んだ彼は、ボサボサの寝癖も無く、まるで社会人のようなスーツ姿で、なんだかとても大人に見えた。
いつもの瓶底眼鏡では無く仕事用のシルバーフレームのセンスのいい眼鏡を掛けている廉君を、クラスメイトが見かけても、きっと誰も気付かないと思う。
キリッと仕事モードに切り替えて出かけていく姿に、廉君の背負っているものの大きさや、決意を見た気がした。
あたしなんかとは違う世界の人のようで、少し距離を感じて心細くないと言えば嘘になる。
だけど廉君がどんな世界の人でも、彼が誰であっても、この気持ちは変わらない。
彼が好き…。
だから、頑張っている廉君に負けられない。
きっとあなたに相応しい彼女になるの。
あたし、頑張るからね。
今日から廉君のお母さんに、レディ教育をしてもらうことになっている。
もちろん、廉君にはナイショ。
だってパーティでビックリさせたいし、知ったらきっとそんな事しなくても良いって言いそうなんだもの。
***
廉君のお母さんと過ごす時間はとても楽しくて、充実していた。
毎日があっという間に過ぎていく。
お母さんと一緒に、毎朝畑に行き、夕食のメニューに使う野菜やハーブを摘み取るのが日課になった。
それから買い物に付き合ったり、オススメのお店でランチをしたりして、早起きしても半日はすぐに過ぎてしまう。
午後からは、ダンスや礼儀作法を教えてもらって、その合間にお菓子を作ったりもした。
夕方には二人で夕食の準備をして、廉君の好きなものを沢山教えてもらった。
仕事で忙しい廉君がいない日中を寂しいと感じる暇も無いほどに、毎日がとても充実していて
気がつくと、あたしが別荘へ来てから1週間が過ぎていた。
廉君にその日お母さんと過ごしたことを話しながら、あたしが作ったデザートを部屋で食べるのが、夕食後の二人の過ごし方。
別荘へ来た初日に、部屋でデザートを食べてから、何となくそうして過ごすのが当たり前のような雰囲気になっている。
廉君と過ごせるのは、帰ってきてから眠るまでの数時間だけ。
疲れているだろうし、ゆっくりと休みたいんじゃないかと思うけど、廉君はその日にあったことを色々と聞きたがる。
どこへ行ったのか、何をしたのか、誰と会ったのか…。
レディ教育のことは以外は、包み隠さず全て話していると思う。
廉君は心配性だなぁ。
あたしが寂しい思いをしないか気遣ってくれて、本当に優しいなぁ。
そのときのあたしは、廉君が毎日の行動を細かく聞くことについて、その程度にしか思っていなかった。
だから、廉君と過ごせなくても十分楽しんでいると解ってもらえるように、彼の前では楽しかった出来事だけを、とにかく沢山話した。
実際に、宿題で解らないところがあるということ以外は、特に悩みもなく、あたしは凄く楽しい毎日を送っていたのだから。
「今日も楽しかったみたいだね。夕食もとても美味しかったよ」
「うふふっ。デザートのパイも気に入ってくれたみたいで嬉しいわ。今日はあたしが一人で焼いたのよ」
「香織が一人で? 凄く美味しかったよ。どんどん料理の腕を上げているんじゃない?」
「お母さんにもそう言われたのよ。でね、明日は廉君にお弁当を作ってあげようかしらって、相談していたんだけど…どう?」
「え?弁当を作ってくれるの?そりゃ嬉しいけど、僕は朝が早いし、その時間に間に合うように作るのは、随分早起きしなくちゃいけないだろう?無理しなくてもいいよ」
「廉君は、いつもお昼はどうしているの?」
「会議のときは弁当だったり、お客さんと会食をすることもあるけど、ほとんどが社員食堂だね」
「へぇ…廉君がお仕事しているところ、いつか見てみたいなぁ」
「見てみたい? 香織が来たいならいつでもいいんだけど、今は荷物が搬入されたり、研修をしていたりで、雑然としている部分も多いし、思っているほど綺麗じゃないよ?」
「楽しそうね。あたしそういうの大好き」
「え?」
「あのね、そういう準備段階の雰囲気ってワクワクしない?
あたしね、何も無いところから企画や準備をする事が好きなの。
思い描いたようにどんどん出来上がっていく過程はワクワクするし、思いがけないトラブルやハプニングを乗り越えて何かを成し遂げるのって、大変だけど凄く楽しいわよね。
廉君のお仕事って素敵だな、って思うわ」
「ああ、そういえば香織は去年文化祭の実行委員をやっていたよね。そっか、そういうの好きなんだ。…じゃあ、明日にでも来てみる?」
「え、明日? 突然だけどいいの?」
「うん、だってパーティまであと4日だろう? その頃にはすっかり綺麗になって香織に舞台裏を見せてあげられないじゃないか。そうだな…明日の昼頃来て一緒にランチでもどう?」
「あ、じゃあ、あたしがお弁当を作って持っていくわ」
「本当?嬉しいな。じゃあ、お昼前に安田さんに送ってくれるように伝えておくよ」
「そんなに遠くないし、歩いて行ってもいいのに…。安田さんだって忙しいでしょう?」
「いや、ダメだ。一人で歩かせるなんて危ないこと、出来るわけ無いだろう?」
「危ないって…夜道じゃないのに。クスクス…廉君ったら、本当に心配性ね。そう言えば、ここ(別荘)へも電車で来ることに凄く反対して、安田さんにお迎えを頼んでいたし…」
あたしの台詞に、廉君は少し困ったような表情をした。
「うん、僕は心配性なんだよ。香織限定だけどね? 君が一人で出歩いて、ナンパでもされたらと考えただけで、仕事が手につかなくなりそうだ。
頼むから安田さんに送ってもらってくれよ?」
「クスクス…ナンパなんてされないわよ。あたしは廉君が思っているほどモテないって言っているでしょ?」
笑い飛ばすあたしを、廉君はギュッと抱きしめた。
―― 大切な君に何かあったら、僕は一生後悔する
彼が耳元で小さく呟いた言葉を、大袈裟だと思ったけれど…
後になって、この時廉君がどんな気持ちだったか、理解しなかったことをとても後悔した。
廉君があんなにも心配した本当の理由が、ナンパされる程度の事だったのなら、どんなに良かっただろうと気付くのは…
彼の心配が、現実のものとなった翌日の事だった。
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それぞれに目標をもって充実した日を過ごす廉と香織。
同じ屋根の下で夜を過ごしても、相変わらず表向きには健全です(笑)
廉を好きだと思う気持ちの強い香織は、必死に廉の世界を受け入れて近づこうと努力していますが…。
さて、次回は二人の心を掻き乱す波乱の予感です。
2007/09/04