その日、僕らは一日家でのんびりと過ごすことに決めた。
家の周囲を散歩したり、プールで遊んだり、香織に夏休みの宿題の解らない所を教えたりして、いつもの僕達らしく過ごした。
こうして二人でいると、あっという間に時間が過ぎていく。
明日からまた、僕は仕事へ行かなくてはいけない。
オープンが近いだけに、定時に帰宅という訳にはいかないだろう。
それでも1週間死ぬ気で仕事をした分だけ、今までより早く帰ることが出来そうだ。
せめて香織と一緒に夕食を出来る時間までには帰宅できるようにしたい。
そのために、この1週間頑張ってきたのだから。
「次の休みはいつになるか、まだ判らないんだ。寂しい思いをさせるかもしれないけど…」
「大丈夫。お母さんと色々予定しているの。毎日一緒にお夕食を作るから、楽しみにしていてね」
「香織が作ってくれるの?楽しみだな。じゃあ、早く帰ってこなくちゃね」
昨日、僕が帰るまでの1時間ほどですっかり仲良くなった二人は、既に明日からの予定を幾つか決めているらしい。
一緒に買い物へ行くとか、おいしいデザートの店へ行くのだとか、あれこれ話してくれる香織に、よくあれだけの時間で、そんなにプランが出来たものだと感心してしまった。
母に香織を取られたようでチョット悔しいけれど、二人が仲良くなってくれたことを僕はとても喜んでいる。
「廉君のお母さんって、とっても素敵な女性(ひと)ね。綺麗で優しくて、お料理も上手で…あたしも大人になったら廉君のお母さんみたいになりたいって、憧れちゃうわ」
そう言って笑う君は、母がどんなに自分と会うことを楽しみにしていたか知っているのだろうか。
毎日ソワソワと待ち続けていたのは僕だけじゃない。
母は本当に香織に会うことを楽しみにしていた。
母が彼女の事を気に入るだろうとは思っていたけれど、香織が母を慕ってくれた事が僕にとっては何よりも嬉しかった。
母は、女の子をとても欲しがっていたから。
いや…
正確には『女の子を』では無いのかもしれない。
たぶん母は、『自分の子を』欲しがっていたのだと思う。
僕は知っている。
母が子どもを望めない身体だという事も
父以外の誰かを深く愛している事も
そして無意識に…
僕の中に『誰か』を見つめている事も
僕を産んだ母親は3才の時に他界している為、僕は写真でしか顔を知らない。
今の母は僕が6才になる年に父が再婚した相手だ。
それでも母を知らない僕にとっては、唯一の母親である事に変わりは無い。
彼女はとても優しくて料理も上手で理想のお母さんだと思う。
だから父と再婚したときも、
子どもが好きな母は僕をとても可愛がってくれ、幼い僕はすぐに彼女に懐いた。
母親が出来たことで、すぐに自分にも弟か妹が出来ると思い込んでいた僕は、何度も母に兄弟が欲しいと駄々をこねたものだ。
そんな時、母は何時も困ったような顔をして、『コウノトリさんがなかなか来ないのよ。ごめんね』と言っていた。
幼い僕は、それを素直に受け止めていたけれど、いつの頃からか真実を知るようになった。
夫婦が寝室を共にする事を知ったのは友人の家に泊まりに行ったときの事だった。
父と母は、仲が良いけれど、寝室を共にはしていない。
それが当たり前だと思っていた僕は、初めて両親に違和感を覚えるようになった。
時々、僕を通して遠くを見ている母の視線に最初に気付いたのは、いつの事だっただろう。
仲の良い両親が、夫婦のように寄り添うのは誰かが周囲にいるときだけだと気付いたのは、何が切欠だっただろう。
僕は成長すると共に、二人が夫婦として愛し合っていないと確信を持つようになっていった。
父の部屋には、亡くなった僕を産んだ母親の写真が大切に飾られている。
父は、今でも彼女を深く愛しているのだ。
そして、母もまた…
一つの事に気付くと、次々に色んな事が見えてくる。
母の実家である春日家は、一族結婚の古いしきたりを重んじる家系だ。
それに気付いたとき、僕は確信した。
たぶん父と母は、家の為に半ば強制的に結婚させられたのだろう。
幼い頃、いつも優しく抱きしめて添い寝をしてくれた母さんは、時々夢の中で、僕ではない男の子の名前を呼んだ。
―― 龍也…イイコね…
その子の名前を呼び僕を抱きしめる、愛おしげな表情(かお)を見るたびに、幼い僕は母さんが遠くへ行ってしまう気がして怖くなった。
それは誰?
僕は廉だよ?
ねぇ、お母さん…
タツヤって…誰?
タツヤというのが誰か気になって、夢から覚めた母さんに何度も聞いた事があった。
だが、母さんは夢を見たことすら覚えていなかった。
何故、毎晩のように見る夢を、まったく覚えていないのか。
ずっと不思議に思っていたが、ある時偶然、父が泉原家の当主様と話しているのを聞いてしまった。
母さんが昔、交通事故により記憶の一部を失った事。
失った記憶の中で、結婚していた事。
僕と同じくらいの息子がいた事。
そして、泉原家がその事実を封印した事。
真実は、幼い僕には余りにも衝撃的だった。
詳しい事情は解らないが、母は何かの理由でその人と引き裂かれてしまい、父と結婚することとなったのだ。
泉原家が権力を使い母の失った記憶に関する全てを封印した為、結婚の事実も息子の存在を知るものも、泉原家の当主様と父以外にはいないという。
一族最大の力を持つ泉原家が何故、そうまでして母の過去を隠さねばならなかったのか、僕には解らない。
だが母は、今も自分に息子がいたことも、愛する夫がいたことも知らず、毎夜夢を見続けている。
幼い頃、母さんが僕と間違えて呼んだ名前は、本当の息子の名前だったのだ。
もしかしたら、母さんが夢で涙するのは、その人たちの元へ帰りたいと心が願っているのかも知れない。
まだ幼かった僕は、失った記憶を取り戻すと、母さんはいなくなるかも知れないと思った。
どうしても母を失いたくなくて…
それから僕は、夢の話を一切しなくなった。
でも香織に出逢って母さんの気持ちが少しだけ解る様になった。
母さんは、その人を心から愛していたのだ。
記憶を失っても、夢であんなにも幸せに微笑む事が出来るほどに…
目覚めたときに覚えていなくても、毎日夢に見るほどに…
きっと…幸せな日をその人と生きていたのだと思う。
今なら、母さんが記憶を取り戻しても、祝福してあげる事が出来るかもしれない。
香織と出逢って、そんな風に思えるようになった。
夢を見る母さんは、いつだってとても幸せそうで、夢から呼び戻すのが可哀想になる。
目覚める一瞬前に、硝子の欠片のような綺麗な涙を流す姿は、とても儚く哀しげだ。
もし僕が、香織の記憶を失ってしまっても…
きっと毎夜夢に見て、心はその影を追い求めるだろう。
今の僕にはその気持ちが痛いほど解るから…
愛した人の記憶を失うほど哀しいことは無いと思うから…
出来ることなら、母さんの幸せだった記憶を取り戻してあげたい。
たとえ、それで母を失うことになっても…
幸せになって欲しい…
そう思う時があるんだ。
あれから10年以上経つ今でも、母さんは毎夜同じ夢を見て涙を流し続けている。
そして…僕の知らない人の名前を呼び、美しく微笑むのだ。
―― 翔…愛しているわ…
幸せそうに微笑む彼女は、どんな夢を見ているんだろう。
まるで満開の桜を思わせる艶(あで)やかな笑みで、愛しげにその人の名を呟く。
失った幸せな記憶…
母さんの愛した男性…
今、どこにいるんだろう
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ちょっと話が、廉と香織から脱線しました。関連作品…お解かりいただけましたでしょうか?
『翔』という名前がご記憶にある方、素晴しい(拍手)
少し前に『聖』や『武』の名前が出てきた時点で関連作品が『Love Step』だと気付かれた方もいらっしゃったのではないかと思います。
さて、『翔』とは誰だったでしょう?
「覚えてないー!」と仰る方は、大人のためのお題より
『Love Step』番外編【星に願いを】をご参照ください。
おおっ?こんなところに廉の名前があったか?とお気づきになるかも(笑)
2007/08/14