約束通りお弁当をもってホテルを訪れたのは、11時半ごろだった。
廉君は朝からトラブルが発生して、その処理に追われているらしく、あたしは安田さんにホテルの中を案内してもらうことになった。
着々とオープンの準備が整いつつある光景を目の当たりにしてドキドキする。
文化祭の実行委員の仕事などとは比にもならないキビキビとした動きで、段取り良く働く従業員の姿に圧倒された。
ホテルの館内を説明してもらいながら歩いていると、投げかけられる視線がやたら痛い。
その視線も様々で…
明らかに興味深げな視線でジロジロと見る人もいれば、視線を逸らしながらチラリと隠れ見る人もいる。
中には嫉妬交じりの嫌味をあからさまに聞こえるようにヒソヒソ話する女性社員。
ホテル内ですれ違う誰もが、あたしを特別視していた。
優しく話しかけてくる人もいて、それは楽しかったのだけれど…
『あなたが専務の婚約者なの?』と、ワイドショー並みの質問を受けてもどう答えていいものか戸惑ってしまう。
恋人ならまだしも、婚約者って…どこまで話が大きくなっているんだろう?
あたしたち、まだ高校生だよ?
でも彼らにとっての浅井 廉は、浅井グループの跡継ぎであり、ホテルのオーナーでもあり、自分達の上司なのだ。
誰も、彼を高校生などと思ってはいないのかもしれない。
だからこそ、学校では考えられない嫉妬の視線があたしに向けられたりするのだと思う。
廉君って本当に凄いと思った。
あたしって凄い人の恋人なんだ。
しかも、『婚約者』だなんて…噂がどんな風に伝わっているのかは定かではないけれど、少しくすぐったさを覚えてドキドキする。
でも、それと同時に湧き上がる不安。
学校での廉君と別荘での廉君の雰囲気が違っても、廉君の本質は変わらないとずっと思っていた。
廉君は廉君。
あたしの好きな廉君であることに変わりはない。
でも『目立たなくて冴えない高校生の浅井 廉』はいつかいなくなる。
やがては『若き企業家 浅井 廉』の顔だけが世間の知る顔となる日が来るのだろう。
だれもが気付かないと思っていた廉君の魅力が、誰もが知っているものになる。
廉君がコンタクトをして登校したあの日のように、周囲の見る目が変わってしまう。
そのとき…
あたしは平気でいられるのかしら…。
あたしだけが知っている廉君は、変わってしまうのかしら。
廉君はどんな格好でも、何をしていても、その本質は変わらない。
あたしが彼を好きな気持ちは絶対に変わらない。
そう思っていたけれど…
彼が実際に働いている姿を目の当たりにしたら、あたしは、彼を遠い存在のように感じてしまうのではないかしら?
社員を統率する立場にいる廉君はいつもどんな表情をしているんだろう。
あたしの知らない廉君の世界がこのホテルの中にある。
どんなことがあっても揺るがないと思っていた気持ちが
初めて僅かに陰るのを感じた。
用意された部屋で廉君を待つ間も、慌しく動きまわる人々を窓から見下ろして、企業家として彼らの上に立つ廉君の責任の重さを改めて感じてた。
声を掛けられるまで、あたしは、きっとぼうっとしていたのだと思う。
安田さんがお茶を差出しながら心配そうに覗き込んだ。
「香織さん、疲れたでしょう?すみません。従業員が失礼をしませんでしたか? 香織さんとお付き合いを始めてから、廉さんは誰の目から見ても明らかに変わりましたからね。どんな素敵な女性だろうって、従業員も興味深々なんですよ。許してやってください」
「どんな噂が先行しているのか怖いですね。あたしはどう見ても普通の高校生で、想像していらっしゃるような女の子じゃないですもの。きっと皆さんガッカリしたんじゃないかしら?」
「そんなことはありませんよ。あなたが廉さんをどれだけ変えたと思っているんですか? 香織さんが笑顔でいてくれることが彼にとって何よりの活力になるんですよ」
「…でも、さっき婚約者とか言われて…戸惑ってしまいました。あたし達まだ高校生なのに…」
「こっ、婚約者ですか? ……それは…また…ははは…随分気の早い者がいましたね」
安田さんは一瞬言葉に詰まって、誤魔化すように苦笑した。
きっと彼もそこまで噂が先行しているとは思わなかったのだろう。
「まあ、余り気にしないでください。彼らもどんな方が自分達の若き上司を射止めたのか気になってしょうがないのですから。 そんなことより、あなたは廉さんに微笑んでいてくださればいいんですよ。それだけで彼はいつもの倍の力を出すことが出来るんですから。あと30分くらいでこちらに戻られると思います。暫く寛がれてはどうですか?」
「あたしは平気です。それより、安田さんはお仕事へ行かなくてもいいんですか?」
「仕事なら今していますよ。香織さんに危険がないようにボディガードをする仕事がね」
「ボディガード?ナンパされないようにですか?」
安田さんはブッと噴出して、「そうかもしれませんね」と大笑いしながら言った。
「あはは…すみません。でも廉さんならそう言いかねないですよ。あなたをとても大切に想っていますからね。だからいろんな意味で護る必要があるんですよ」
「いろんな意味で?」
「そうですよ。ナンパからも厄介な輩からもね」
厄介な輩というのが気になって聞き返そうとしたとき、安田さんの携帯が鳴った。
深刻な話なのか、眉間に皺が寄り、先ほどの表情が嘘のような険しい顔にドキッとする。
いつもは優しい運転手の安田さんが、ボディガードだと言われてもピンと来なかったけれど、この時の表情なら頷けるものがあった。
「香織さん、少し出てきますので、ここから動かないでもらえますか?」
「はい」
「すぐに戻りますから、絶対に一人で部屋を出たり、私と廉さん以外を部屋に入れたりしないでくださいね」
「…? はい…」
何故そんなにも神経質になるのかと問いたかったけれど、「私が出たらチェーンを掛けてくださいね」と言い残すと、安田さんは大急ぎで部屋を出て行ってしまった。
一人になった部屋で何をするでもないが、一応客室でテレビもあればベッドもソファーもある。
テレビでも見て廉君が来るまで待とうと、ソファーに座った時、チャイムが鳴った。
少々早い気はしたが、安田さんの用事が済んだのか廉君が早く戻れたのだろうと、すぐにドアを開けようとして一瞬戸惑う。
『絶対に一人で部屋を出たり、私と廉さん以外を部屋に入れたりしないでくださいね』と言った安田さんの真剣な表情を思い出だして、念のためドアスコープを覗くが、そこには誰の姿もなかった。
「誰?…廉君?」
「…うん」
立ち位置が悪くてスコープの範囲に映り込まなかったのだと解かり、ホッとしてチェーンを外す。
『あなたは廉さんに微笑んでいてくださればいいんですよ』という安田さんの言葉を思い出し、最高の笑顔でドアを開けた。
「お疲れ様、廉く…」
「やあ、お留守番かい?」
ドアの前に立つ人を見て息を呑んだ…。
そこにいたのは廉君ではなく、彼がもっとも接触を避けたがっていた男性だった。
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ホテルで大人社会を垣間見て、不安が過ぎる香織。
揺るがないと信じていた廉への想いですが、廉がやがて自分の知る姿を失うかもしれないと不安を感じます。
この不安に付け込むように突然現れた人物の目的は…?
2007/10/22