廉には婚約者がいる―…
紀之さんの声が頭の中で何度もリプレイされて、眩暈にもにた感覚に襲われる。
グラリと身体が揺らぎそうになるのを支えたのは、肩を掴む紀之さんの手の強さだった。
「…婚…約者?」
「そうだ。結婚は避けられない。どんなに好きでも、最終的にはお前と別れることになる」
「そんな事…だって廉君はまだ高校生で…」
「そんなのは世間一般の常識だ。俺達の一族は10歳になる前には殆どの者が婚約者を決められる。…随分昔からのしきたりだ」
「そんな…本人の意思のない結婚なんて…」
「結婚なんて家同士の形だけのものだ。俺達一族の結婚生活に愛があるほうがむしろ少ないと思ったほうがいい」
「そんな事ないわ! 廉君のご両親はあんなに仲が良くて幸せそうじゃない」
「そう見えるか? やはり子供だな」
胸が抉られる痛みに耐え、黙って睨み返すあたしに、哀れみのような表情を浮かべる紀之さんに苛立ちが募った。
彼は私達を傷つけたいだけ。
どんな言葉も信じてはダメ。
そう思うのに、今までとは違う彼の雰囲気と、悲しげな瞳に心が乱れた。
『あなたが専務の婚約者なの?』
『こっ、婚約者ですか? ……それは…また』
従業員の台詞と安田さんの誤魔化すように笑った姿を順番に思い出す。
単なる偶然だと思いたかった。
でももしかしたら…
周囲の人は皆、婚約者の存在を知っているのかもしれない。
「信じられなければ自分の耳で訊いて確かめてみるんだな」
「……話すべき事なら廉君は自分から話してくれる。話さないのは知る必要が無いからで、あたしから訊くべきことじゃないわ」
やっと搾り出した台詞を聞いて、
紀之さんは「そうか」と呟いた。
「あたしに出来るのは、廉君を信じて彼のために笑うことだけよ」
「そこまでの覚悟があるなら勝手にしろ。忠告なんてするつもり無かったんだけどな。お前があんまり真っ直ぐで痛々しいから…ったく、俺らしくない」
「え?」
「真っ直ぐで純粋で…傷つくことを恐れない。……そんな風に想い合えるお前達が羨ましいよ…」
独り言のような紀之さんの言葉が何故か哀しくて…
この人は廉君が言うような悪い人ではないのかもしれないと思った
「もうすぐ…廉君が来るわ。ここで鉢合わせるつもり?」
「いや、もう俺が仕掛けなくてもジジイが動くのは時間の問題だ。その前に俺が動けば少しはマシかと思ったんだが…」
「…それって…」
「誤解するな。別にお前達の味方って訳じゃない。だが春日のジジイのやり方は酷すぎるからな。俺みたいに誤解させて仲違いの切っ掛けを作る程度の事で終わらせるつもりは絶対にないだろう」
険のある言い方と憎悪さえ秘めた冷たい瞳に、彼の知る恐怖を見た気がしてゾクリとした。
ドアに向かって歩き出す紀之さんを視線だけで見送ると、ドアノブに手をかけて肩越しにあたしを振り返る。
「気をつけろよ。あいつはもう動き出している。しっかり廉に護ってもらえ」
……次に会う時、お前がまだ笑顔でいられることを祈っていてやる
聞き取れないほどの小さな声でそう言うと、紀之さんはドアの向こうへ消えていった…
紀之さんが消えたドアを見つめたまま、動けずに放心していると、ドアのチャイムが鳴った。
警戒しながらドアスコープを覗き見ると、そこには今度こそ廉君が立っていた。
ホッとして涙が溢れそうになったけれど、グッと堪えて微笑んだ。
今のあたしに出来る精一杯の笑顔で『お帰りなさい』と明るく迎え入れ、出来るだけ普通に振舞うように必死に努力した。
搬入トラブルは無事に解決したらしく、表情も晴れやかな廉君に、暗い顔を見せないように、あたしは必死に話題を作っていつも以上に話していた。
笑顔が不自然にならないように…
不安に揺れる心を隠しながら…
紀之さんの事はどうしても話すことが出来なかった。
廉君をこれ以上心配させたくなかったこともある。
でも、一番の理由は、紀之さんから聞かされた事を話さなければならなくなるからだ。
知り得た事実を確かめるのが怖い。
彼の口から婚約者の事実を告げられたら…
あたし達の関係は変わってしまうのだろうか。
***
香織の待つ部屋へ入った瞬間、違和感を感じた。
会った時、香織が何故か泣きそうな顔をした気がしたからだろうか。
それとも、全てが未使用の部屋で、唯一乱れたベッドが艶かしく感じられたからだろうか。
何処か雰囲気の硬い香織。
ホテル内を見学した時に何かあったのだろうかと不安になる。
安田さんの話では、随分と質問攻めにあったり、失礼な視線で見る者もいたらしい。
僕には慣れたことでも、香織にとっては苦痛だったのかもしれない。
「香織待たせて悪かったね。疲れただろう? もしかして起こしてしまった?」
「え…っ?」
「ベッドが少し乱れていたから、横になっていたのかなって思って」
「あ…ああ、う…ん少しだけ。朝から頑張ってお弁当作ったから少し疲れちゃった」
エヘッと小さな舌を覗かせて笑ってみせる仕草も、いつもと何も変わらないのに、何故か違和感を感じた。
いつもよりはしゃいでいる様に見えるけど、それは上辺だけだ。
明らかに今朝僕に向けられた笑みとは違う今の笑顔は、付き合う前に良く見た無理に作った笑顔だった。
彼女はいつも笑おうとする。
どんな辛いときも、どんなに哀しいときも…
だけど僕にはそれが作ったものだと解かるんだよ。
何があった?
僕には言えないこと?
ストレートに訊けば良いだけの事なのに、何故か言葉にすることが出来ない。
自分でも何故そんな些細な事も訊けないのかと不思議だったが、安田さんが戻ってきたときに、部屋の香りが変わった事でやっと理由がわかった。
香織でも安田さんでもない香水の香りが部屋に残っている…
ほんの微かな残り香だったが、それに気付いた僕は直感した。
紀之さんがここへ来ていた。
そして…香織と…何かあった…?
乱れたベッドに嫌な予感が過ぎり、思わず香織を引き寄せた。
フワリと鼻腔を擽り心を癒す甘い香りが広がる。
その中に…
認めたくないもう一つの香りを見つけ愕然とした。
どうして…?
何故香織は何も言わない?
紀之さんが来たことすら隠しているのは何故だ?
女に手馴れた紀之さんが本気になったら、香織だって惹かれるかもしれないと、不安に思ったことが脳裏を過ぎる。
まさか…そんな事…
何処かギクシャクとする雰囲気の中、僕はどうしても紀之さんの事を訊くことが出来ず…
香織は安田さんに送ってもらって別荘へ戻っていった。
このとき、ちゃんと話をしていれば
あるいは、別荘まで僕も一緒に送ってやっていれば
香織の不安に気付き、安心させてやることも出来たかもしれない。
そして何よりも、紀之さんの忠告に警戒し
この後彼女の身に待ち受ける出来事を、未然に防ぐことも出来たかも知れなかったのだ。
それをしなかったことを
この1時間後…
僕は酷く後悔した。
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香織の不安、廉の疑心、二人はそれぞれ違う意味で互いに少しの距離を置いてしまいました。
すぐ目の前に迫った悪意にも気付かず…。
次回はちょっと痛いシーンがあります。苦手な方はすっ飛ばしてください。
2007/10/25