香織が帰ってから30分ほどした頃、携帯に緊急連絡が入った。
泉原グループが開発したセキュリティシステムで、携帯から特殊なコードを発信することで危機を知らせるものだ。
個人を特定する暗証番号を携帯に入力すると警備会社に電波が届き、指定の連絡先に緊急を知らせるシステムになっており、誘拐や強盗などの事件に巻き込まれた際にも早急な解決に役立つ為、一族の殆どの者がこのシステムを利用している。
そして今、緊急を告げたのは香織の設定コードで、安田さんの携帯から発信されたものだった。
すぐに運転手を呼び出し、警備会社とGPSを確認しながら電波の発信された場所へと向かう。
警備会社からの通達で既に警察も動き出しているはずだが、誰よりも早く彼女の元へ行きたかった。
何が起こったのか分からない不安の中、一秒でも早く彼女の元へと祈る僕は、ほんの少し前、些細な意地で彼女を別荘まで送らなかった事を心から後悔した。
何を拘っていたのだろう。
紀之さんと香織が何を話そうと、香織が僕を好きだという気持ちは変わらないはずだと、どうして自信を持てなかったのだろう。
どんなことがあっても護ると決め、彼女に何も告げなかったのは僕だ。
それなのに、一瞬の迷いで彼女を危機に曝すことになってしまった。
僕は馬鹿だ―…!
こんな事なら、僕から離れる可能性など恐れずに、真実を告げるべきだったんだ。
彼女は僕の我が侭のせいで―…
ごめん、香織。
どうか…無事でいて…
***
別荘まであと少しの場所に差し掛かると、道路際に数台の車やバイクが無造作に停まっていた。
これより上は高級別荘地で、特定の人間しか行くことが無く、日中でもめったに車の通りもない。
これだけの車やバイクが道を塞ぐように停車していても、この近辺の住人は事件に数時間は気付かないかもしれない。
あの安田さんの緊急連絡がなかったらと思うとゾッとする。
離れたところに車を停め、心配する運転手を待たせて独りで駆け出した。
車やバイクの台数からして二人や三人といった人数では無いことに警戒し、車から持ち出した木刀を構える。
物音一つしない中、神経を張り詰めて、車やバイクをすり抜けて行くと、少し先に見覚えのあるベンツが止まっていた。
これでも護身には、幼い頃からそれなりの備えをしている。
警戒しながら近づいて行くと、車の陰に安田さんが倒れているのが見えた。
その周囲にも数人の男が倒れていて、辺りには物音一つ無かった。
この男達は安田さんが倒したのだろうかと眉を顰(ひそ)めつつ、更に車の反対側へ移動すると、その先に香織が男にもたれるようにして意識を失っていた。
身体の血が逆流するような怒りに煽られる。
相手が敵か味方かなど、考える余裕も無く手にした木刀を握り締め、先端を相手に向けた。
気配に気付きゆっくりと振り返った男を睨みつけた。
「香織を放せ」
「……お前は彼女の何だ?」
感情の無い冷たい視線で僕を見つめる男は、香織を横抱きにして立ち上がった。
「彼女に触れるな!」
「質問の答えになっていない。俺はお前と彼女の関係を訊いているんだ」
「君に答える必要など無い」
「なら、彼女を渡す訳にはいかないな」
「何っ!彼女は僕の恋人だ。その手を放せ」
「出来ないね。助けたからには最後まで護る義務が俺にはあるんでね。お前が彼女を襲った奴らの仲間じゃないとどうして言い切れる?恋人だと言われても信用できないな」
「香織を…助けた?」
「お前は本当に彼女の恋人なのか?」
「そうだ」
彼は僕を値踏みするようにジロジロと見た。
僅かに紫がかった黒髪に整った顔立ちは、見るものを惹きつける美しさだが、その瞳は冷たく人を威圧するものがある。
香織を助けた事実が確かなら悪い人間では無いのかもしれない。だが、彼女が彼の手に在るうちは味方とは決して言えない。
彼の気迫に呑まれまいと睨み返した。
「僕の事を訊く前に自分の説明をしたらどうだ? 君が彼らの仲間じゃないとどうして言い切れる? おかしいじゃないか。通常この道はこの先の別荘地に用のあるもの以外は使わない。ただ単に通りかかって香織を助けたとでも? ありえない話だ」
「偶然通りかかった訳じゃない。だが、誤解するな。あんな奴らの仲間だと勘違いされては困る」
「仲間じゃないと証明できるのか? 仲間が全員やられたから香織を連れて独りで逃げようとしたんじゃないか?」
僕の言葉に明らかに不機嫌に眉を寄せた男は、吐き捨てる様に言った。
「あいつらは全部俺が倒したんだ。彼女が目覚めたら訊いてみるといい。…大体恋人だというなら、もっとシッカリ彼女を護ってやれ。俺があと少し遅かったら、彼女はどうなっていたと思う?」
奴らが香織にしようとした事を、彼の口から告げられ、血が凍る思いだった。
それが本当なら、確かにあと数分でも彼が遅かったら、香織は心にも身体にも深い傷を負っていた。
いや、それだけじゃない。
一生脅しを受けながら恐怖に脅えて生きていくことになったかもしれないのだ。
「俺の彼女が昨日、あいつらに鞄を引ったくられたんだよ。大切なものが入っていたから、取り戻す為に今朝から奴らを探していんだ。見覚えのある車を数キロ先で見つけて、ここまで後を追って来たんだが…。もしも、昨日俺達が奴らに関わることが無かったら…」
腕に抱いた香織を痛ましげに見つめ言葉を濁した彼を、これ以上疑うつもりは無かった。
僕は、自分の無力さを痛感するばかりで、彼に何も言う事が出来なかった。
「香織を助けて下さって…ありがとうございました」
「彼女は強かったよ。あいつらに向かって凛とした姿勢を貫いていた。泣くこともせず、自分の事より刺された人を気遣っていた」
その情景が想像できるからこそ、胸が痛くて、後悔の念は更に強くなった。
うなだれる僕に、はぁ…と、一つ溜息をつくと、彼は香織を僕に手渡した。
香織は先ほどとは違う服を着ていて、その手には男物のハンカチが握られていた。
頬を伝った幾筋もの涙の後が痛々しく、ギュッと細い身体を抱きしめた。
「それは俺の彼女の服だが、余りにも酷い格好だったんで着るように言ったんだ。返さなくていいから処分しておいてくれ」
「…本当に…ありがとうございました。改めて御礼に伺います。お名前を…」
「その娘と同じことを言うんだな」
それだけ言うと、フッと僅かに笑みを見せ僕らに背中を向けた。少し先に転がっているヘルメットを拾うと、自分のものらしいバイクへと向かって歩いて行く。
そういえば、一台だけ県外のナンバープレートのついたバイクがあったのを思い出した。
「救急車は呼んである。警察もまもなく来るだろう。俺はここで警察に事情を説明している時間が無いから、さっき話したことを伝えておいてくれ」
「待ってください。せめて連絡先を…」
「悪いが教えられない。どんな形で奴らに情報が渡るか分からないからな。今だってあいつらの仲間が報復しようと、独りでペンションで待っている彼女を狙っているかもしれない。それくらいしてもおかしくない相手だ。だからこそ、一時(いっとき)でも目を離す訳にいかねぇんだよ。わかるだろ?」
気持ちが解かるだけに、それ以上彼を引き止めることはできなかった僕は、黙って頷いてエンジン音を響かせる彼を見つめた。
一途に彼女を想う横顔に、以前何処かで会ったことがあるような、何処か懐かしい感覚を覚える。
どこかで会ったことはありますか?と訊こうとした時、遮るように背後から父さんの声がした。
「廉!香織ちゃんは無事かっ?」
緊迫した表情で駆け寄ってくる父さんの姿に、別荘にも警備会社から連絡が入った事を悟った。
それまで気付かなかったが、救急車のサイレンの音もかなり近づいているのが聞き取れる。
直ぐに警察も来て、倒れている男達は捕まるだろう。
「賑やかになってきたようだな。後は頼んだぞ」
ヘルメットを被りながらそれだけ言うと、彼は振り返りもせずにエンジンを吹かした。
小さくなっていく彼を見送る僕の背後で父さんが「彼は?」と尋ねてくる。
どう説明したものかと言葉を捜していると、少し後ろで母さんが放心していることに気付いた。
香織の余りにも痛々しい姿に驚いたのだろう。
彼女は無事だと告げるため、母さんに近づいた時―…
突然、母さんの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
驚いた父さんが声をかけると、ハッとして我に返った母さんは、自分でも何故泣いたのか解からなかったようだ。
香織のことがよほどショックだったのだろうと父さんは解釈したようで、直ぐに二人を車に乗せ、救急車と共に病院へと向かった。
病院へ向かう車の中、腕の中の香織を見つめながら、彼の言葉を繰り返し思い出していた。
『恋人だというなら、もっとシッカリ彼女を護ってやれ』
『一時(いっとき)でも目を離す訳にいかねぇんだよ。わかるだろ?』
彼ならば、恋人を護りきる事がきっと出来る…そんな気がした。
だったら僕は…?
香織が握り締めたままのハンカチを手に取りじっと見つめる。
そこには 【
Tatsuya.S 】と名前が刺繍されていた。
走り去る彼を見つめ母さんが流した涙。
そして、手の中にある『タツヤ』という名前。
バラバラのピースが少しずつ集まり始めていることを
この時の僕には気付く余裕すらなかった。
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散らばったピースが集まり始めています。今の廉には気付くだけの余裕がありませんが、運命は確実に彼らを引き寄せています。
もしもこの時龍也が振り返っていたら…。彼の目の前には十数年ぶりに見る母の姿があったはずでした。(あぁ切ない振り返れよ!
記憶を失ったはずの雪が何故、龍也の姿を見て涙を流したのか…。それはもう少し先で説明しますね
今回の出来事の龍也Side Storyはいずれ『Love Step』で。
2007/10/27