香織が荷物を纏める為に部屋へ戻ったのを見届けてからリビングへ行くと、夜が明けて間もないというのに、両親は既に起きていた。
「おはよう。父さんがこんなに早く起きるなんて珍しいね」
「ああ、廉おはよう。俺だって緊張するんだよ。なんたって大切な一人息子のデビューを明後日に控えているからな。グースカ眠れる訳ないって。…なっ?俺だって父親らしいとこあるだろ?」
戯(おど)けてみせたが、本当は香織の事が大きな理由なのだろう。
多分父さんも、香織にこれほどの危害を加えられるとは考えなかったのだと思う。
何も言わないが、香織の事、いや、今後の僕らの事を凄く心配しているのだろう。
「廉、寝ていないの?」
コーヒーを差し出しながら表情を曇らせる母さんに、
曖昧な笑みをみせ、カップを受け取り口を付ける。
いつもと同じコーヒーが、何故か今日はやたらと苦く感じた。
「……うん。眠れなかった。一晩中香織と話していたんだ。出逢ってから今日までの楽しかったこと」
コーヒーをテーブルにおいて両親に向き直ると、二人は黙って次の言葉を待った。
アンティークの時計の規則的な音が、夏の早朝の爽やかな空気を震わせる。
この部屋だけ時間の流れが違うような錯覚を覚えるほど、静かに時を刻む音だけが響く。
香織の様々な表情が脳裏に浮かび、時を刻む音に過去へと引き戻されるような感覚に包まれた。
静かな時間がゆっくりと流れていく
「…僕達、別れることにした」
自分でも信じられないほど静かな声が部屋に響く。
時計が、時を刻む音を止めた。
父さんは大きく溜息を吐き、ソファーに沈み込むように身体を預けると天を仰いだ。
母さんは手にしたコーヒーカップを取り落とした事にも気付かず僕を凝視している。
「二人で決めたのか?」
「…うん」
「なあ、廉。俺も雪も、廉には一族の者との結婚は望んでいないんだぞ。お前が本当に好きだと思う娘と恋をして、いずれ結婚することが出来ればそれが一番良いと思っているんだ」
「僕は香織と別れても婚約なんかしない。おじい様の思い通りになるつもりは無いよ。パーティの席でハッキリと言うつもりだ」
「婚約を破棄するのなら別れる必要はないだろう? それとも香織ちゃんが別れたいと言ったのか?」
「いや、そうじゃない。……でもこうするのが彼女にとって一番安全だ」
「後悔しないのか?」
「……僕が怖いのは彼女が再び危害を加えられることだ」
ギュッと拳を握り硬く瞳を閉じる。
瞼の裏に香織の笑顔が浮かんだ。
「僕は彼女を護りたい。たとえ香織が他の誰かのものになっても、傷つけられる事無く幸せでいてくれればそれでいい」
顔を上げると目の前には眉間に皺を寄せ苦しげな表情をする父さんがいた。
「辛いぞ。…彼女が苦しんだり、悲しんだりしている時に手を差し伸べることも出来ず、ただ見守ることしか出来ないんだ。」
香織が悲しんでいる姿を、何も出来ずただ見つめることしか出来ない。
それを思うと臍(ほぞ)を噛む思いだろう。
「香織ちゃんにいつか好きな男が出来て、お前を忘れてしまっても…ずっと見守り続ける事ができるのか?」
僕を忘れた彼女をずっと見守り続ける。…それはどんなに苦しいことだろう。
香織が僕以外の男にあの笑顔を向け、その男の為に尽くす。
柔らかな唇で僕以外の誰かを呼び、口付ける。
僕だけのものだったはずの全てを、知らない誰かに奪われてしまうのだ。
それは気が狂いそうなほどに苦しいことだろう。
…それでも
「彼女の笑顔を護ると決めたんだ。そのためにどんなに苦しむことになっても構わない」
僕の決意に、父さんは「そうか」と小さく呟いた。
「信頼のおける運転手とボティガードを一人、手配して欲しいんだ。香織を今日の午後帰す」
「随分急ぐんだな。この家のセキュリティなら問題ないだろう?」
「香織をここへおくのは危険だ。…それに…彼女が帰ることを望んでいる」
「……わかった。安田の部下を呼ぼう。彼らなら大丈夫だろう」
「ありがとう。僕は香織の様子を見てくるよ。母さん軽い朝食を用意できる? 香織に持っていってやりたいんだ」
母さんがキッチンへと消えるのを見届けると、父さんは大きく溜息をついた。
「廉、すまない」
「え?」
「俺達で終わりにしたいと思っていたのに…結局この忌まわしい血族結婚の輪廻を断ち切ることが出来なかった。くそっ!いつまで同じ事を繰り返せば気が済むんだ」
「父さん…」
「『たとえ他の誰かのものになっても、傷つけられる事無く幸せでいてくれればそれでいい』―か。…お前と同じ事を言った男を知っているよ。彼は最後まで最愛の女性を見守り続けて亡くなった。どれほど苦しかっただろうな。自分の愛する女が他の男の元へと嫁ぎ、自分を忘れて暮らす姿を見守り続けるなんて…強い男だったよ」
自分の愛する女が他の男の元へと嫁ぎ…
自分を忘れて暮らす姿を見守り続ける…
それは、もしかして母さんの事だろうか
「……それって…もしかして翔って人?」
「え…廉、お前?」
―知っているのか?
そう問う視線を向けられた時、朝食を持ってキッチンから戻った母さんの姿に、父さんは慌てて口を噤(つぐ)んだ。
その話をそれ以上続けることはもう出来なかったが『亡くなった』という部分が引っかかって胸が騒いだ。
確かめる事はできなかったが、父さんの表情からも、多分それは母さんの愛した人ではないだろうか。
朝食を載せたトレイを受け取りながら、複雑な気持ちで母さんを見つめた。
朝食のトレイを持ち、部屋まで歩く。
たかがフレンチトーストとフルーツを載せたトレイがそんなに重いはずも無い。
リビングから部屋までの距離がそんなに長い訳でもない。
それなのにトレイを部屋まで運ぶという、子供でも出来る単純作業が何故か上手くできなかった。
それは、刻一刻と香織が僕の元を飛び去る瞬間(とき)が近づいている事を受け入れたくない自分の弱さなのだろう。
部屋の前まで来ても、ドアを開けるという単純な動作をすることを、身体が無意識に拒否して、指が動こうとしなかった。
自分が決めたことだ。
香織は僕の決意を何も言わず、涙も見せず受け入れてくれたじゃないか。
涙を見せれば、僕の決意が揺らぐのを解っていたから…
僕が苦しむと知っていたから…
僕が躊躇してどうする?
僕以上に辛いのは香織だ。
一つ深呼吸をし、キッと顔を上げるとドアを開ける。
部屋の片隅には荷物が寄せられており、既に荷造りが済んだらしい事が窺えた。
姿の見えない香織を探して寝室のドアを開ける。
そこには…
僕のベッドで枕を抱きしめ眠る香織の姿があった。
ほんの少し前、僕の部屋で眠る彼女に驚き、暴走しそうな感情を押さえつけた事がずっと昔の事のようだ。
あの時は、こんな気持ちで別れる日が来るなんて思いもしなかった。
今僕のベッドで眠る彼女はもう僕のものではない。
どんなに愛しくても、もう触れることすら叶わないのだ。
数時間後、彼女はもうここにはいない。
新学期が始まり、あの角を曲がっても、僕だけの香織はもうどこにもいない。
心が痛くて、切なくて、身体の芯が固まっていくような絶望感に襲われる。
苦しくて、哀しくて、いっそこの身を引き裂いて楽になれたらと思う。
翔という人は、こんな思いをずっと心に秘めていたのだろうか。
母さんを最後まで見守って逝った人
彼は…どんな想いを胸に抱いていたんだろう
どんなに切ない気持ちで母さんを愛し続けたんだろう
死の間際に望んだことは…
やはり母さんの幸せだったんだろうか…
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香織との別れが迫ってくることを受け入れきれない廉。
頭で理解するほどに感情はコントロールが利かず、これが一番良い方法だと自分で決めた別れですが、やはり想いは簡単に捨てられません。
自らの決断と切ない想いを翔に重ねる廉は、彼の生き様を知りたいと心動かされますが…。
2007/11/04