その日の午後、安田さんの部下が車を回してくれた。
香織はここへ初めて来た日と同じサマードレスを着て、ニッコリと笑ってお辞儀をした。
その笑顔が作り物だということが、僕にはわかる。
二人にお礼を言うと、父さんは香織の頭にフワリと手をおき、
母さんは香織を抱きしめてポロポロと大粒の涙をこぼした。
それでも香織は最後まで微笑を崩さなかった。
最後の最後、僅かな時間でも君を傍に留めたいと望む女々しい僕を叱咤するように、
香織は僕に送られることを頑なに拒み、別荘での別れを望んだ。
「素敵な思い出をありがとう」と言ったときも…
独りで車に乗り込んだときも…
その笑顔の奥の哀しみを微塵にも見せず、車が走り去る最後の瞬間まで微笑み続けた。
どんなに辛いときも、君は微笑むんだね。
最後まで涙を耐えたのは、君の涙が僕の決意を鈍らせると知っているからだろう?
君を送り届けることを拒んだのは、耐え切れなくなる姿を見せたくなかったんだね?
香織の健気な気持ちが痛いほどに伝わってきて胸がいっぱいになる。
彼女を労わる気の利いた言葉をみつける事も出来なくて
車窓から僕に投げかけた、哀しいほどに綺麗な微笑を…
抱きしめるように受け止める事しかできなかった。
**
彼女がいない自室はこんなにも広かっただろうか。
ソファーに沈み込み身体を横たえ目を瞑ると、堰き止めていた砦が決壊したように、耐え続けた感情が溢れ出した。
滲む視界に浮かび上がった彼女の幻は、心からの笑顔を僕に向け佇んでいる。
触れることの叶わない幻に手を伸ばし、虚しく空を掴んだ手は震えていた。
昨夜別れを決めてから、彼女の車が消えるまで、一粒の涙も見せなかった香織
その気丈な振る舞いに頭が下がった。
今、彼女は車の中で涙を流しているのだろうか。
付き添いに気を使い、まだ耐え続けているのではないだろうか。
香織が涙を流すまでは、僕が泣くわけにはいかない。
彼女が声を上げて心を開放するまでは…
僕は…泣くわけには…いかないんだ。
出逢った頃から君はどんなときも微笑んでいたね。
だけど僕は君が心から笑っていないことに気付いていたよ。
君に惹かれてゆく中で、いつか本物の笑顔を見たいとずっと思っていた。
君に毎朝勉強を教えるひと時に見る笑顔が本物であることが、心から嬉しかった。
二人の想いが通じてからは…
僕の前ではいつだって本物の笑顔だったね。
苦しみも悲しみも微笑みの裏に隠す君だけど
僕の前でだけは心からの涙を見せてくれた。
いつだって僕にだけは素顔の君でいてくれたね。
それなのに…
最後の最後に作り笑いをさせてしまった僕を許して欲しい。
「香織…ゴメン」
彼女を想って出てくるのは、懺悔の言葉ばかりだ。
護れなくてゴメン。
悲しませてゴメン。
怖がらせてゴメン。
辛い思いをさせてゴメン。
最後まで…強がらせて…ゴメン。
「何しょぼくれてるんだ? 廉。香織姫に振られたのか?」
突然声を掛けられ、驚いて振り返ると、
いつの間にか戸口に立ち、腕を組んでニヤニヤしている紀之さんと目が合った。
瞬時に昨日のホテルでのことを思い出し、不快感が込み上げる。
「何をしにきた」
「随分な口の利き方だな。ククッ…姫から昨日の事を聞いて喧嘩でもしたのか?」
楽しげな笑い声を聞いた瞬間、僕の中で何かが切れた。
自分が何をしたのかなんて覚えていない。
凄い勢いで湧き上がった怒りに、身体が突き動かされていた。
胸倉を掴みあげ、腕を捻り上げると強く壁に押し付ける。
彼の手から飛んだ車のキーが耳障りな音を立てて床を滑っていった。
紀之さんは信じられない顔をして僕を凝視したが、一番驚いたのは僕自身だった。
「香織と喧嘩をしたかだって? ふざけるな!香織を襲わせたのはお前だろう!」
「なっ…何のことだ?」
「とぼけるな! 昨日香織に何があったか知らないとは言わせない。この春日の犬がっ!」
怒りに任せギリギリと掴んだ胸倉を絞り、首を締め上げる。
紀之さんの顔色が変わっていく様を鼻先で冷笑し、抵抗しようとする腕を更に捻り上げた。
痛みに歪む顔に脂汗が浮かぶのを見て、せせら笑った。
「痛い? 苦しい? 香織はもっと辛かったんだよ? ねぇ、紀之さん。彼女がどんな気持ちだったか解る?」
「ぐっ…廉…っ……待て。話し…をっ…」
「香織は10人もの男に輪姦(まわ)されるところだったんだよ? 彼女の叫びなんて誰も聞こうとしないでさ。ねぇ、彼女が何をした? 春日はどうしてそこまで冷酷になれるの?」
僕の言葉に益々蒼白になる紀之さん。
香織を失った哀しみと怒りの矛先は完全に彼に向けられ、抑えきれない感情に拳を固めると力いっぱい振り切った。
「俺じゃないっ!」
ガスッと鈍い音がして、拳に衝撃と痛みが走る。
紀之さんの鼻先を霞めた拳は、顔面を逸れ
鈍い音を響かせて壁に減り込んでいた。
「…しらばっくれるな。お前でなければ誰だっていうんだ?」
「違う…俺はっ…確かにホテルに彼女が来る事を調べて…脅す真似を…した。だが彼女を…襲わせたりしていない」
「…ホテルで何を話した」
「廉…放せ…苦し…」
腕を緩め紀之さんをソファーに投げ出すと、テーブルの上のペーパーナイフを取り上げ切っ先を鼻先に向けた。
「話せ。その爪を一枚ずつ剥がされる前に…」
心に穴の開いた僕には彼を哀れむ感情などなく、その声はどこまでも冷たい。
僕の変化に驚いたらしい紀之さんは、咳き込みながらも呼吸を整え居住まいを正すと、それまでの軽い態度を変え向かい合った。
彼は香織がホテルへ行くことを春日の情報筋から知り得て、彼女を脅し身を引かせようとしたと白状した。
ホテルでの事を、順を追って話す紀之さんに偽りはなさそうだった。
むしろ香織襲われた事を本当に知らなかったらしく、詳細を聞き、あからさまに表情を変えた。
「彼女が襲われたのはいつだ?」
「昨日…ホテルからの帰りだ。あなたが香織に会った後ですよ」
言葉遣いが普段通りになっている自分に気付き、少し冷静になったようだと、自分の中のもう一人の僕が分析していた。
おかしな感覚だった。
紀之さんに怒りをぶつけた自分も、冷静に話している自分も、まるで別人のようだった。
淡々と会話を続ける自分を、テレビの画面に映し出されるドラマを観るように静観しているもう一人の自分がいる。
「あなたじゃないなら、いったい誰が…」
紀之さんは暫く考え込んでいたが何か思い当たったらしく、ハッとして顔を上げた。
「…もしかしたら…いや、それなら辻褄が合う。…だが」
「だが何? いったい誰が香織をっ?」
「廉、俺がどうしてあの部屋に彼女がいる事を知っていたと思う?」
誰かが春日に情報を流していた。
あの日、香織がホテルへ行くことを知っていた人物。
あの部屋を知っている人物。
一人しか思い浮かばなかった…
「……春日筋の情報って…まさか…そんなこと」
紀之さんは哀れむような視線で僕を見ると黙って頷いた。
「俺にあの部屋を教えたのは…安田だよ」
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廉ってキレると怖いんです(^^;) でもって結構強いんです。
護身術とか一通りやってますからね、立場上。
紀之の中では廉は気弱な男の子なので、急に男になった彼に驚いたでしょうね。
愛は強しです(笑)
さて、紀之の爆弾発言にショックを受ける廉。紀之が告げる意外な真実とは…。
2007/11/05