俺にあの部屋を教えたのは…安田だよ
紀之さんの言葉に、部屋がグニャリと揺らいだ気がした。
運転手兼ボディガードの彼は、物心付いたときには僕の傍にいて、両親も全幅の信頼を置いていた。
不在がちな父の代わりに、時には相談に乗り、色々な面でサポートしてくれた存在だった。
香織のこともいつだって応援して、アドバイスをくれたのに…
「嘘だ!だって、あの人は僕が子供の頃からこの家に…」
「もともと安田は春日の命(めい)で雪さんが再び失踪しないよう見張るために浅井家に送り込まれたんだ。彼女は昔、結婚を嫌って逃げた事があるらしいな」
「安田さんは香織を護って怪我をしたんだ。ありえない」
「怪我を負いながらも助けようとした安田を誰が疑う?疑いを逸らす為に最初から死なない程度の傷を負わせる計画だったんじゃないか?」
「まさか! 出血が酷くて下手したら死ぬところだったんだ。あれが演技だったっていうのか?」
「思いがけない邪魔が入って怪我だけでは誤魔化せないと考えたかもしれない。関係者以外通ることの無いあの道に助けが来るなんて想定外だっただろうしな」
「…まだ、安田さんと決まったわけじゃない。彼を裏切り者に仕立て上げようとするあなたの策じゃないとどうして言い切れる?」
「お前が安田を信じたい気持ちは解らないでもないが、誰が情報を流したか冷静に考えれば解るはずだ。彼女を助けたとかいう男は数キロ先から犯人グループを尾行していたと言ったな? つまり、あの場所で予め待ち伏せしていた訳では無く、彼女を襲うためのタイミングを指示されたと考えるほうが筋が通るんじゃないか?」
紀之さんの言葉にハッとする。
あのタイミングであの場所を教えることの出来る人物。
それは車を運転していた安田さんしかいない。
信じたくは無い。
だが、辻褄が合うのは事実だ。
ドクン…
体中の血が逆流を始めるのを感じた。
もしも、安田さんが春日の者なら、香織の警護を任せた彼の部下も仲間である可能性は高い。
こんなことなら、香織がどんなに拒んでも最後まで傍にいるべきだった。
「香織が…危ない」
「危ないってどういうことだ? まさか昨日の今日で彼女を一人にしたのか?」
「……香織を家に帰した。紀之さんが来る少し前に安田さんの部下に彼女を警護させ送るよう命じたんだ」
「なっ…くそっ、来るときにすれ違ったあの車か」
「紀之さん!車を貸してください」
ドアの前に落ちていたポルシェのキーを拾い、血相を変えて駆け出す僕の腕を、紀之さんが掴んだ。
「お前免許もってねぇだろうが。チッ! 行くぞ廉、俺が運転してやる」
意外な申し出に
驚いて一瞬動きを止めた僕から素早くキーを奪い、「ボケッとすんな。行くぞ」と言い捨て駆け出した紀之さんを、釈然としない気持ちで追いかけた。
彼が僕を助けてくれる理由が解らない。
昨日まで僕等を別れさせようとしていたのに、何故?
罠だろうか…
それでも今は、彼の気まぐれに感謝するしかない。
香織さえ無事なら、これが罠であっても構うものか。
もうあんな思いは決してさせない。
香織…
必ず助ける―…
車に飛び乗り重量感のあるエンジン音を響かせてアクセルを強く踏み込む。
フルスピードで木々の緑を切るように駆け抜ける赤いポルシェは、通常では体感できない速度で山道を下っていった。
木々の緑が形を成す事無く視界から飛び去り、視野は通常より遥かに狭い。
アマチュアレーサーとしての顔をもつ紀之さんの腕は一級品だ。
巧みな運転技術は確実に香織の車との距離を縮めていった。
市街地を抜け高速へ向かう道は、夏場はいつも渋滞する。
香織の車もそれは間逃れない事を、カーナビに表示される彼女の車の位置が示していた
浅井家で所有する全ての車に、位置確認用の発信機が付けられていたことに、今日ほど感謝したことは無かった。
香織の位置を確認しながら運転技術を駆使して裏道を進む紀之さんは、渋滞を物ともせず進んでいく。
この分なら香織の車が高速に乗る前に何とか追いつけそうだと、少しだけ見えた希望に縋る思いで彼女の無事を願った。
そんな僕の姿がどう映ったのか、紀之さんは不意に皮肉混りの口調で問いかけてきた。
「彼女を帰したって事は…別れたのか?」
「……あなたには関係ない」
「関係ない?ハッ!笑わせる。散々人を容疑者扱いしておきながら、自分は肝心な質問に答えることもせず逃げるのか?」
「逃げる?だれがっ!」
「別れたんだろう? それが逃げじゃないっていうのか? それとも自分以外の男にヤラれそうになった女はもう要らなくなったか?」
「違う!僕は別れたくて別れた訳じゃない。彼女を護る為だ」
「護る?別れて関係を断ち切って、それで護ったとでも思うのか? 俺にしてみれば、護りきれない責任を逃れようとしているだけだ」
「責任逃れなんかじゃない!僕の傍にいるとまた彼女が狙われるからだ。あなただって解っているはずだ」
「解っているさ。だからこそ甘いって言うんだよ。別れて彼女の安全が保障されたと思っているのか?」
「…どういう意味だ?あなたは僕らを別れさせたかった筈なのに、まるで過ちを犯したように僕を責めるのは何故だ?」
「勘違いするな。別れたのは正しい選択だ。ただし一族の為じゃない、あの娘の為だ」
香織の為といわれて益々混乱する。
そんな僕に、紀之さんは衝撃的な事実を語りだした。
「3月頃だったな。廉がすごい勢いで頭角を現したって噂がジジイの耳に届いたのは。安田からその理由が彼女だと聞いて、ジジイは俺に調べるよう命じたんだ」
車の照り返しが眩しいかのように目を細めて遠くを見る。
目の前の光景ではなく何処か遠くを見つめる彼の横顔から、何故か視線が逸らせなかった。
「彼女はごく普通の女の子で凄くイイコだ。だから、ジジイには別に害はないと報告したんだ。初恋なんて淡雪と同じですぐに終わるってな。…それなのに安田から何を聞いたのか知らないが、すぐに別れさせろと言い出したんだ。
…彼女が財産目当てで近づいた下衆(げす)な女なら簡単だった。少し脅すなり金でも握らせてやればいい。だが、純粋にお前を信じるあの娘は、一族の事もお前の婚約の事も何も知らなかった」
香織が学校前でポルシェに押し付けられていた光景を思い出す。
あの日に還ることが出来たら、決して香織を傷つけたりしないのにと、虚しい思いが胸を過ぎった。
「何も知らないなら深く関わる前に、喧嘩でもしてすれ違ってくれればいいと思っていたんだ。
ホテルで彼女を訪ねたのも、誤解をさせてすれ違う切っ掛けを作るつもりだったんだが…彼女が余りにも真っ直ぐにお前を信じているんでな。試してみたくなったんだ。お前達の絆って奴を」
「…それで婚約者がいると香織に教えたのか?」
「ああ。婚約者がいると知ったらお前への気持ちも冷めるか裏切られたと怒り出すと思ったが、彼女はお前を信じ続けた。だが、こんな形で別れるのなら告げる必要は無かったな。お前にはガッカリしたよ。夏休み前の威勢はどうした?お前の本気ってのはこんなにもアッサリと諦められる程度だったのか?」
「くっ…馬鹿にするな!そんなに簡単に嫌いになったりできるはず無いじゃないか! 本気で好きだから諦められなくて苦しいんじゃないか!
本気で人を好きになったことがない紀之さんには解るもんか」
「人を好きになったことがない? 随分と生意気な口を利くな。お前みたいな青臭い恋をしている奴に言われたくないね。
何も知らないクセにお前だけが辛い恋をしていると思うな。おまえ達のせいで、俺達がどれだけ振り回されたと思う?自分だけが被害者面するな」
紀之さんは僕をギロリと睨むと、怒りを含んだ口調で捲くし立てた。
いつも要領よく物事をこなす彼は何事もおいてもスマートでそつが無い。
人を皮肉る言い方をすることはあっても、人前でこんな風に声を荒げたり感情を露わにしたのは初めてだった。
「僕達のせいで…? どういう意味だ?」
「……元々お前と婚約するのは俺の妹の百合子じゃなかったんだよ」
「え?」
「本来ならお前と婚約するのは、聖の妹の聖良だった筈なんだ」
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廉の婚約者の名前が出てきました〜。
百合子さん…時間軸は少し先のお話ですが、既に登場しています。
分かった方スゴイです。ええと、彼女は『夢幻華』の中で出てきた、暁と恋人契約をしていた女性です。
時間軸はこの少し先(約2年後)になりますが、彼女は東京を離れ、地方の大学へ行き暁と出逢います。
『夢幻華』の中で、暁は百合子に杏の面影を、百合子は暁に想い人の面影を求めて付き合っています。
紀之により廉と聖良の意外な事実が明らかになりましたが、次回は更に新事実が…
2007/11/07