横転する車体
激しくひび割れた防弾ガラス
所々に飛び散る血痕にその衝撃の凄まじさを痛感する。
血の匂いがアスファルトの熱にむせ返る。
立ち込める排気ガスが金属の擦れた匂いと混ざって不快感を煽る。
鳴り響くクラクション
向けられる好奇の視線
人々のざわめき
目の前の光景が現実のものだと思いたくなくて、心が受け入れを拒否していた。
「か…おり…香織は…?」
彼女の姿を求めて無意識に呟いた自分の声でハッとする。
飛びかけていた理性を手繰り寄せると、すぐに香織の姿を探した。
車を覗き込むが後部座席には誰もおらず、その傍には車から救出されたらしい男が、頭から血を流し救急車の到着を待っていた。
流れる血を拭った跡が所々乾きどす黒く変色している為、顔が良く解らなかったが、背格好から香織の警護を頼んだ小村とかいう運転手だと判断した。
「おいっ!お前、小村とか言ったな? 香織はどうした? 無事なのか?」
「え…? あ…っ、あ、浅井様? すっ、すみませんっ! 車が大変なことに」
「車? そんなものどうでもいい、香織はどうした?」
「え? お嬢様なら先ほど駅で降りられました。警護には村田さんが同行していますので心配はありません。私は荷物をご自宅までお届けに伺うところでした」
「駅だと? どういう事だ?」
「実は私の運転が未熟なため、お嬢様は別荘を出て程なく車に酔われてしまいました。朝から余り体調が良くないとの事でしたので、渋滞や長距離の乗車を心配した村田さんが、電車でお帰りになることを提案したのです」
村田というボディーガードは、身長が190cm以上ある厳(いか)つい男だった。
大柄で筋肉質の柔道選手のような男が、いかにも窮屈そうに暑苦しい黒のスーツを着て、サンドレスの華奢な女の子と歩いていたら、えらく目立つことだろう。
彼女を狙っている者の為に自らターゲットですと宣言しているようなものだ。
「お嬢様は車には弱いけど電車は大丈夫なのだと仰って、私を気遣ってくださいました。本当にお優しい方です。もしもあのままこの車にご乗車していらしたらと思うと…」
「解った、もういい。お前は病院で指示を待て。…決して僕と父以外の者に何かを話すことは許さない。……たとえ、それが警察であってもだ。解ったな?」
たとえそれが春日の使いのものであっても…
そう言いたいところをグッと堪えると、すぐに紀之さんの車に向かった。
何度携帯を鳴らしても出ない彼女に焦りが募る
今頃香織の身に何か起こってはいないか、不安で不安で仕方が無かった。
香織の体調を心配して急きょ予定を変更したと小村は言ったが、村田という男が味方である可能性は薄い。
彼女を無事に家へ送り届けるとは到底思えなかった。
香織を降ろしたのは一つ手前の駅だと言った。
この辺りの路線も駅も知らない僕は、紀之さんに簡潔に事情を話しナビで検索を掛けてもらった。
ここから駅までは距離にして約8キロ。
渋滞に嵌った紀之さんの車で移動するのは不可能だった。
何度か車窓から見たおぼろげな記憶とナビの示すルートを重ねながら地図を頭の中に叩き込み、最短ルートをシュミレーションしてみる。
「駅まで走ります。ここまで付き合ってくれてありがとうございました」
「ああ、気をつけて行け。…さっきの事だが…他言は無用だ。バレた時にはお前も命は無い…解っているな?」
「解っています」
「お前は俺の味方だと思って良いな?」
真剣な目で僕を見つめる紀之さんに、その場しのぎのいい加減な返事など通用しない。
彼の考えを全て納得できた訳じゃない。
だけど…
おじい様に対抗できる権力がどうしても欲しい
香織をこんなことに巻き込む事無く、あの笑顔を護る事のできる強さが欲しい
「……ええ。だけど雅さんの事を納得したわけじゃない。本当に他に方法はないのか考えてみたい。婚約の事も…もう少し時間を下さい」
紀之さんは眉を顰めて何か言おうとしたが、僕は返事を待たずに駆け出した。
香織の無事だけを願い、ただひたすら駅を目指す。
頭に叩き込んだはずの地図だが、実際に走るのは車道ではなく歩道で、シュミレーションしたようにはいかなかった。
車で何度か通ったことのある道を必死で思い出し、標識を頼りにひたすら走るが、地理に不案内な土地であるため、焦る気持ちとは裏腹に思うようにはなかなか進まなかった。
真夏の午後の容赦ない太陽は、じりじりと照りつけ僕の体力を奪っていく。
繁華街に差し掛かると人が増え、ぶつからない様に避けながら走るペースは乱れがちになっていった。
このままでは体力を消耗するばかりだと判断した僕は、人混みから離れてペースを取り戻そうと、裏道への角を曲がった。
そのとき、突然角の店のドアが勢い良く開き、中から男性が出てきた。
予想外の出来事に、反射的に避けようとしたが、勢いのついた身体は簡単に止まらず、彼を押し倒すようにして転倒した。
衝撃は強かったが、気持ちが高ぶっているため痛みは感じず、すぐに起き上がり彼の落とした荷物を拾うと、謝りながら手渡した。
「すみませんでした。急いでいたもので…」
「いや、こちらこそ良く見ずにドアを開けたので…あれ、お前?」
「あっ、あなたは!」
そこには…
昨日香織を助けてくれたあの男性が驚いた顔で立っていた。
「昨日はどうもありがとうございました。せっかくお会いできてきちんと御礼をしたい所なのですが、今は…」
「…えらく焦ってるな。お前、もしかしてまた何かあったのか?」
「え?」
「まさか昨日の連中が…?」
「…いえ、昨日の連中とは違うのですが…似たようなものです。すみません、急ぐので失礼します」
僕の様子が切羽詰っていた為か、一刻の猶予も無いことを瞬時に悟ったのだろう。
柳眉を顰め不快感を露わにした彼は、駆け出そうとする僕に待ったをかけた。
行く先を駅だと知ると、ここからの最短ルートを教えてくれると言い、更に意外な申し出をしてきた。
「俺のバイクを貸してやる。お前運転できるか?」
そう言った彼の視線の先には、昨日彼が乗っていたバイクがあった。
年式はかなり古いはずなのに、細部まで磨き上げられているところを見ると、とても大切にしているのだろう。
昨日今日出逢ったばかりの僕なんかが借りても良いものなのだろうかと戸惑った。
「あれを?」
「送ってやれたらいいんだが、生憎と今はメットが一つしかないんでね」
「大切にしているんでしょう? 僕なんかに貸していいんですか?」
「彼女が危ないんだろう? お前には縁があるらしいし貸してやるよ。ただし絶対に傷つけるな。アレは親父の形見だからな」
「本当に…ありがとうございます。僕は浅井といいます。必ずお礼に伺いますから」
深々と頭を下げ僕の名刺を押し付けると、彼はそれを見て一瞬驚いた顔をした。
どう見ても高校生の僕が、浅井グループの専務を名乗っているのだから、それは驚くだろう。
「お前が…浅井グループの…浅井…廉?」
まるで僕の名前を知っているかのような口ぶりに驚いた。
やや放心したように何か呟いたが、訊き返した僕に、彼は『なんでもない』と言うと、元の緊張した表情に戻り、すぐに駅までの道を説明し始めた。
彼の表情に違和感を感じ、気にはなったものの、今は香織の元へ行くことが先決で、追及している暇などなく、彼の説明を頭に叩き込むことに集中した。
そして僕は、『なんでもない』事を、記憶の隅へと追いやってしまった。
もしもこの時、聞き逃した言葉が耳に届いていたら
僕はこの時点で彼が母さんの息子であることに気付いていただろう。
そして義兄(あに)が僕の存在を既に知っており
目の前の僕が義弟(おとうと)だと気付いたことにも…
―…母さんは…幸せか?―
彼がこのとき、
どんな気持ちで切ないまでの思慕を呑みこんだのか
僕には知る由も無かった。
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龍也が思わず呟いた母への思慕。目の前の廉が義弟だと知って、彼の胸中はどんなにか複雑だったでしょうね。
さて、事故を間逃れた香織ですが、安心は出来ませんでした。
龍也にバイクを借りた廉は、果たして今度こそ香織に追いつけるのでしょうか?
2007/11/15