「お前には俺が誰かを気にしている暇なんてねぇ筈だぞ?今は彼女のことだけを考えろ」
連絡先を聞き出そうとしつこく食い下がる僕を、彼は冷たく一喝した。
「…それから一つ約束しろ。バイクはお前一人で返しに来い。俺の事は絶対に誰にも話すな。いいか?」
「何故ですか? あなたは昨日のみならず、今日も助けてくれた。ご恩を受けながら名前すら知らず、きちんとお礼も出来ないなんて…そんな不義理なことはできません。
昨日の事で僕の両親はあなたにとても感謝している。今日の事を隠したとしてもきっとあなたを探し出すでしょう」
「…迷惑だ。俺を捜すなと…両親に伝えておけ」
「…何故そこまで頑なに拒むのですか?」
「…理由など無い。とにかく俺は礼など要らないしお前の両親に会うつもりも無い。通りすがりの俺の名などお前達には知る必要の無いものだ」
彼の瞳はとても哀しげで、僕は思わず言葉に詰まった。
ほんの一瞬の事で、すぐに昨日と同じ冷たく理性的な表情に戻ったが、
時々彼が見せる不安定な表情が気になって、先ほどの哀しげな横顔が胸に焼きついた。
まだ納得がいかず『でも…』と言うと、彼は黙って返却場所を走り書きした紙を押し付け、バイクのキーを投げてよこした。
突然の事に慌ててそれをキャッチすると、次の瞬間、まるで『もう黙れ!』と言う様に、有無を言わさずヘルメットを被せられた。
一瞬にして僕の負けは決まった。
計算された一連の動き。
反論する隙を与えない周到さに舌を巻きながら、目の前のバイクと彼を見つめた。
黒の艶やかなボディが見事なラインを描いている。
その後部にワイルドなボディとは不釣合いな、淡い桜色の『Sakura』という文字が妙に印象に残った。
「いいか、彼女が大切なら絶対に離れるな。命を懸けても必ず護ってやれよ」
早く行けと促す声に、ビシッと渇をいれられた気がして、返事の変わりに一つ頷きエンジンを吹かした。
滑るように走り出すバイクは、あっという間に風になる。
照りつける夏の暑さなど、まるで感じさせない心地良い爽快感。
エンジンの振動が僕の中で萎えかけていた感情を呼び起こす。
身体が熱くなる。
香織が別荘へ来た日、僕の腕の中で二人の鼓動が一つになった感覚が蘇った。
香織…
手放すことで君を護れるのならば耐えられると思った。
だが今日の事でよく解った。
紀之さんの言うとおり、離れたからと言って君を護りきれるとは限らない。
たとえ百合子さんと婚約をしても、きっと香織はいつまでも狙われるだろう。
だったら…
僕は君を決して手放さない。
この手できっと護ってみせる。
***
駅へ到着すると、周囲には人がごった返していた。
何かあったのか、窓口には問い合わせをする人が溢れており、改札はごった返していた。
普段なら閑散としている避暑地の小さな駅だが、夏休みの週末ということもあり学生や家族連れの姿が目立つ。
その中に香織の姿が無いことを確認すると、迷わず改札を飛び越えてプラットホームへと駆け込んだ。
駅員が驚いて僕を制止しようと追いかけてくるのが見えたが、そんな事構っていられなかった。
香織の名を呼び周囲を見回すと、見覚えのある姿が大柄な男といるのが見えた。
僕の声が聞こえたのか、香織は誰かを捜すような仕草をしている。
渡り階段で一つ向こう側のプラットホームだが、大きな荷物を持つ人とすれ違いながら進むその距離は、なかなか縮まらず随分遠く感じた。
いっそ線路に飛び降り横切りたいと思ったその時、駅員に腕を掴まれた。
後で知ったことだが、一つ前の駅で爆弾を仕掛けたという悪戯電話があり、この駅でも不審人物を警戒していたらしい。
そこへ僕が入場券も買わず、改札を飛び越えたのだから、不審に思われても確かに文句は言えない。
だが、今はそれどころではなかった。
視線を向こうのホームへと戻すと、駅員に気を取られている間に何があったのか、香織が村田と揉み合っていた。
細い手首を捕まれ引きずられるように歩き出した姿に、怒りで身体に火が点いたように熱くなった。
助けに向かおうとする僕を、逃げ出したと勘違いし羽交い絞めにする駅員の腕を逆に捻りあげる。
唖然とする駅員に『あいつは誘拐犯だ!彼女を助けてくれ』と言い捨て、香織のもとへと走った。
階段を3段飛ばしで駆け上がり、反対のプラットホームまで数段の所まで駆け下りた時、香織は
自分より遥かに大柄なボディガードの手から逃れようと、必死の抵抗で噛み付いていた。
痛みのあまり乱暴に振り払おうともがく村田から、香織を引き剥がそうと駆け寄った、そのとき…
香織の身体が宙を舞った。
何が起きたのか解らなかった
ようやく香織が線路へと突き飛ばされたのだと理解したと同時に、僕は恐ろしい光景を目の当たりにした。
近づいてくる貨物列車の轟音
耳を劈(つんざ)くブレーキ音
人々の悲鳴とざわめき
目の前の光景が現実だと思いたくなかった。
「香織っ!にげろーっ!」
驚いて見開かれた香織の視線が、一瞬僕と交差した
その瞬間…
この状況下で在り得ないものを僕は見た。
恐れも
不安も
悲しみも
全てを洗い流したような幸せな笑顔
それが死を覚悟した彼女の僕への最後の挨拶だと悟ったとき…
言いようの無い感覚が僕を突き動かした。
何も考えている余裕など無かった。
自分がどう動いたのかなんて覚えていない。
気がついたら身体は動いていた―…
頭の中は真っ白で―…
ただ、彼女を助けることしか浮かばなかった。
夢中で線路に飛び降りると
香織の腕を引き寄せ強く抱きしめた。
君を失うなんて絶対に嫌だ!
僕は君を護る―…
たとえ…
この命に代えても―…
貨物列車の車体が僅かに僕の髪を掠める。
引き寄せた反動で転がるように線路脇の避難スペースへと滑り込んだ。
二人が身を寄せる避難スペースの真横を、騒音と共にものすごい風圧で列車が通り過ぎていった。
ヒステリックな女の叫び声のような甲高いブレーキ音が響く。
鼓膜を引き裂かれるような痛みに襲われ、車輪から飛び散る火花がチリチリと皮膚を焼いた。
ほんの僅かでも遅かったら、あの恐ろしい金属音に香織の悲鳴が重なっていただろう。
そう思うとゾッとした。
全身から冷たい汗が噴き出し、血が逆流するように激しく脈打っている。
特に怪我も無く生きていることが、まだ不思議だった。
無事を確かめるように香織を抱きしめると、細い身体が腕の中でガクガクと震え出した。
今になって恐怖が襲ってきたのだろう。
激しく震え、大粒の涙をこぼしながら僕に縋り付いてきた。
香織が無事で今、僕の腕の中にいる―…
まるで夢を見ているようだった。
これが現実だと確かめたくて、抱きしめる腕に力を込める。
柔らかな髪に唇を寄せて、僕は誓った。
香織…
君は僕がきっと護ってみせる
もう二度と手放したりしない
たとえこの手を血に染め…
魂を代償にすることとなっても―…。
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なんとか間に合いました廉。ようやく香織を助けることが出来ました〜!
引っ込み思案の冴えない廉も、この夏かなり男らしく成長してくれたのではないかと思っております(←親バカ)
さて、香織を手放さず護ると決めた廉ですが、度重なる恐怖に香織の気持ちは揺れ動きます。
二人の恋の行方は…。
2007/12/29