香織は昨日と同じ病院で手当を受けた。
精神安定剤で昏々と眠る彼女を見つめて、僕は言いようのない不安を抱えていた。
興奮状態で泣き続ける彼女を抱いて救急車に乗ったものの、僕から離れようとせず、質問にも満足に答えられない彼女を見て、僕は改めて彼女の心の傷の深さを知った。
別荘で別れたときは、健気にも最後まで笑顔で通した香織だったが、命の危険を目の当たりにし、彼女の耐えていたものは脆くも崩れ去った。
目が覚めたときの事を思うと不安で仕方が無かった。
気丈に振舞っていただけに、その心の負担は僕には計り知れないほど大きなものだっただろう。
心に後遺症は残らないだろうか。
僕を見るのも嫌になったのではないだろうか。
彼女を手放さず護ると決めたけれど、香織がそれを拒絶すれば、僕には彼女を縛る権利は無い。
拒まれないことをひたすら祈るだけだ。
青白い顔には、所々擦り傷がある。
村田に噛み付き引き剥がされたとき、唇を切ったらしく、愛らしい唇には痛々しい痕が残っていた。
「香織…どうか…ずっと僕の傍にいて」
祈るような気持ちで手を取りその甲に口付ける。
「僕が命に代えてもきっと護るから…」
僕に応えるように…
細い指がピクリと動いた。
**
『香織っ!にげろーっ!』
廉君の声に顔を上げると、いるはずの無い彼の姿があった。
硬直し動くことも出来ないあたしの目の前には、迫り来る貨物列車。
幻でもいい。死ぬ前にもう一度会えてよかった…
そう思ったら恐怖は消え、心から笑うことが出来た。
これが最後なら…あたしの笑顔を覚えておいて欲しい
あたしはあなたに出逢えて、恋をして、とても幸せだったから…
廉君、最後に会えて嬉しかった…
あなたの事が大好きだったわ―…
きっとあたしは、その場に相応しくない、幸せな表情をしていたと思う。
轟音と共に迫り来る貨物列車の風圧に、よろめきそうになった時、強く腕を引かれ、誰かに抱きしめられた。
信じられなかった
廉君の温もりに包まれていることが…
きっとこれは夢。
あたし…きっと死んだんだ。
だから、神様が望みどおりの夢を見せてくれているんだ。
だって信じられない。
あたしは線路に落ちて…だから廉君があたしを抱きしめているはずが無いわよね。
きっと夢…。
夢なら…泣いても良いよね?
ずっと我慢していたんだもん。
神様が幸せな夢を見せてくれたのは、きっと彼の腕の中で泣きたいと願った、あたしの最後の望みを叶えてくれたのだと思う。
もう、我慢しなくても良いよね?
ギュッと廉君の抱きしめる腕が強くなった。
それは、あたしに泣きなさいと告げる合図のようで…
まるで川が決壊したように涙が零れ落ちた。
怖かった
辛かった
哀しかった
寂しかった
会いたかった
あらゆる感情が涙となって怒涛の勢いで押し寄せてきた。
頭が真っ白で、あたしはただ夢中で廉君にしがみ付くと、耐えてきた感情を全て吐き出すように泣いた。
それからどのくらい時間が経ったのか
気がつくと、あたしは真っ白な空間にいた。
まるで金縛りにあったように身動きが出来なくて、立っているのか横になっているのかも分からない。
…あたし…死んだのかな?
廉君の温かな腕はいつの間にか消えていて、ゾクリと冷たいほどの白さに病院で目覚めたときの、苦しげな廉君の表情を思い出した
護りきれなかった自分を責め、涙を流していた廉君。
彼が苦しむ姿を見たくなくて、別れを決意したのに…
これじゃ何の意味も無いじゃない。
あたしが死んだら廉君は哀しむわ。
きっと、あの時以上に自分を責めて、一生苦しみ続けると思う。
嫌よ…そんなの嫌。
お願い、神様。
彼を哀しませたくないの
どんなに苦しくても
どんなに辛くても
絶対に耐えて見せるから…
お願い…
彼の元へ還して
もう二度と、あんなに哀しい顔をさせたくないの…
その時、フワリと温かな感触が手の甲に伝わった。
『香織…どうか…ずっと僕の傍にいて』
廉君…
あたし…傍にいてもいいの?
『僕が命に代えてもきっと護るから…』
廉君…
あたし…あなたを好きでいてもいいの?
手の甲に柔らかな唇の感触を感じたとき、それまで動かなかった身体が、指先から溶け出すように開放されていった。
還りたい
あなたの腕の中へ
あなたが好き
ずっと傍にいたいの
**
眼を覚ました香織を、医師は一晩入院するよう説得したが、僕はそれを強引に振り切って別荘へ連れ帰った。
香織は目覚めてから一言も話さない。
感情が抜け落ちたように何処か虚ろで、僕の問いかけには答えるものの、声を発することも無い。
極度の疲労や恐怖から来る一時的なものだろうと医師は診断したが、彼女の心の傷は思った以上に深い事を思い知らされた。
医者の勧めどおり、入院させたほうが彼女の為には良いのだろうと思う。
だが、夜間に付き添うことが出来ない以上、独りで病院に残すなど、とても出来なかった。
僕はもう、片時も彼女から目を離さないと決めていた。
どんなことがあっても、誰に何を言われても、彼女を護る為ならどんなことも厭わないと決心していた。
別荘へと帰ってきたのは、昨日とほぼ同じ時刻だった。
まるで昨夜を再現するように、彼女は母屋の風呂へと行き、僕は自室でシャワーを浴びてから、
プールサイドで彼女を待ちながら、昨日から今日までの事を考えていた。
かすり傷と少々の打撲だけで済んだのは、本当に奇跡と言って良いだろう。
あの時、彼に出会い駅への最短距離を知ることが出来、バイクを借りることがなかったら、香織は確実にこの世に存在していなかっただろう。
彼にはどんなに感謝しても足りないくらいだ。
返却場所を指定されたメモを見て、一つ溜息を吐く。
彼の連絡先は書かれていない。
いつ返しに行けばよいのかも分からないという事実に、今になって気がついた。
あの時は精一杯冷静なつもりでいたけれど、そうではなかったらしいと改めて自分を振り返る。
香織が無事だったのは、全て彼のおかげだ。
彼ならどんなときにも冷静に判断し、瞬時に最善の判断を下すことが出来るのかもしれない。
彼のような人が僕らの味方だったら…
そこまで考えたとき、ふと、何か引っかかるものを感じた。
何かを忘れているような…
大切なことを見落としているような…
その感覚が何なのか、記憶を手繰り始めたとき、まるで映画の予告編を観るように昨日の出来事が滅茶苦茶に入り乱れて脳裏に浮かんだ。
次々と入り乱れフラッシュするシーン。
鮮明に思い出そうすればするほど記憶に靄が掛かっていく。
もどかしさに苛立ちながらも意識を集中し記憶を辿ると、突然あることを思い出した。
その瞬間、雷に撃たれたような衝撃で立ち上がると、部屋を飛び出し地下へ駆け込んだ。
昨日の今日ならば、多分まだここにあるはずだと見当をつけて、それが保管されていそうな場所を探し回る。
思ったとおり、それは整理棚の中にあった。
「…動転していたとはいえ、どうしてすぐに思い出せなかったんだろう」
僕の声は擦れていて、誰もいない地下室に妙に大きく響いた。
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廉が思い出したモノとは…
勘の良い方なら予想はつくのではないでしょうか?
声を発する事無く虚ろな香織を心配する廉。彼は香織を癒すことが出来るのでしょうか。
香織は恐怖を乗り越えることが出来るのか。もう少し辛いシーンが続きますがお付き合いください。
2008/01/05