Little Kiss Magic 3 第33話



病院で意識を取り戻したとき、廉君はあたしの手を握っていた。
夢の中から呼び戻してくれた温かな手は、やはり彼だった。
嬉しく思うと同時に、疲労を滲ませる表情に、また彼の負担になってしまったのだと申し訳なく思った。

廉君に抱き寄せられ、避難スペースへ滑り込んだ後の記憶は途切れ途切れで良く覚えていない。
何もかもが夢現(ゆめうつつ)で…
どこまでが夢でどこまでが現実だったのかも解らなかった。

命の危険を目の当たりにすると、これまでの出来事が走馬灯のように蘇るという話を聞いたことがあるが、実際にあたしもあの瞬間そうだった。
生まれてから今日までの色んなシーンがフラッシュして、瞬時に脳裏を駆け巡っていった。

そして…あたしは思い出してしまった。

ずっと忘れていたこと。

忘れようとして、記憶の奥底にしまっていた真実を…。


目覚めてからも意識がぼんやりとしていて、廉君の問いかけにも上手く答えることができなかった。
それは薬が効いていたからだけでなく、哀しい過去を思い出してしまったせいだったのかもしれない。
入院せずに別荘へ帰ると言われたときも、頭の中は思い出した事実でいっぱいに占められていて、黙って頷く事しか出来なかった。


別荘に戻ってからも、あたしはまだフリーズしたままだった。
余りにも衝撃的な事実に、心の整理がつかず、どうしていいか分からないままに母屋のお風呂から戻ると、廉君はいなかった。

不安定な心を抱えたあたしは、廉君がそこにいなかったというだけで、まるで世界に自分ひとりだけ取り残されたような気分になった。
不安で、言いようのない哀しみと孤独感に心が侵食されていく。
彼が先ほどまで居たことを感じさせるプールサイドのチェアーにもたれると、水面に映る月を見つめた。
蒼白く揺らめくその姿が、病院で見た血色のない廉君の表情に重なって、視線が釘付けになった。

廉君はあたしが危険な目に遭ったことで、凄く責任を感じている。
彼を哀しませたくなかった。
夢の中で、あたしは廉君の傍に戻りたいと願った。
どんなに苦んでも、どんなに辛くても、きっと耐えてみせると思っていた。
だけど目覚めたあたしの目の前にあったのは、自分を責め、あたしを護る為に、仕事も家族もプライベートも全てを犠牲にしようとしている廉君の姿だった。
夢の中で願ったことはこんな現実じゃなかった。
彼の傍にいたいとは思うけれど、彼を不幸にしたいとは思わない。
あたしを護ることだけを考えていたら、廉君は何も出来なくなってしまう。
このままじゃあたしは廉君の足枷になる。

そんなのは嫌だ!

あの日、激流の中であたしは誓ったはずだった。
決して誰の枷にもならない生き方をすると。
決してあの人と同じ生き方はしないと。
それなのに、廉君の重荷でしかない自分の状況が悔しくて、どうしていいかわからなかった。

どうしたらいい?

いっそあたしなんていなければ…

そんな事ばかり考えている自分が益々嫌になる。

グルグルと堂々巡りを繰り返す思考は、いつしか自分自身を追い詰めていった。

自分が何者なのかわからなくなるとき。
哀しみで胸が潰れそうになるとき。
あたしはいつの頃からか救いを求めるように泳ぐようになった。
水の中にいると外界の音が遠のき、自分の鼓動を凄く近く感じる。
母の胎内に居るようで、いつの間にか心が穏やかになる。

この水底に沈んだら、あの日と同じようにもう一度忘れられるだろうか。
この夏の忌まわしい出来事も…
思い出した哀しい過去も…
廉君との思い出の全ても…

水面に揺れる銀の月があたしを誘う。

このまま水に溶け込んで何もかも忘れてしまえばいい

そうすれば廉君もあたしから解放される

苦しいのはほんの少し

足枷になって生きるくらいなら

ずっと恐怖に脅えて生きるくらいなら

この水の泡になって消えてしまえばいい

いけないと、心の中でもう一人の自分が叫んでいた。

だけど、身体はまるで別の意志に操られるように

水面へと引き寄せられていくのを止めることはできなかった―…



***



部屋へ戻るとネグリジェを着た香織がプールサイドに立っていた。

思いつめた表情で水面を見つめている。
銀の月に照らされた水面が反射して、香織の横顔に陰影を作る。
温もりも優しさも感じられない冷たい横顔。
蒼白く照らされ、今にも水面に吸い込まれてしまいそうだ。

そこに居るのに、手が届かないような…

すぐ傍なのに、ガラス越しで見ているような…

まるで彼女が魂を持たない人形のような錯覚に囚われる。

ゾクリと背筋が寒くなった。


「香織…気分はどう? 少しは落ち着いた?」

出来るだけ平静を保って近づくと、香織はゆっくりと顔を上げた。

そして次の瞬間…

ユラリと傾いだ身体が月夜に反射する水面へと消えた

水しぶきが星のように煌き飛散する

声を出すことも忘れ、金縛りにあったようにその場に立ち尽くす。
彼女が消えた水面に大きく広がった波紋が、やがて収まる頃になって、ようやく僕は焦りを覚えた。

なかなか水面に上がってこない香織に、心臓がフルスピードで騒ぎ出す。
昼間とは違い、夜の闇で頼れるものは月明かりと、プールサイドの僅かな外灯だけだ。
それすらも水面に反射して、水中の彼女の様子をはっきりと窺い知ることは難しかった。

自殺という二文字が頭を過ぎった。

まさか…

香織は潜りが得意だ。
つい先日だって、随分長く水に潜って驚かせたじゃないか。

どんなに言い聞かせてみても、今のこの状況を遊びで潜ったと考えるのには無理があった。
部屋着の上だけを脱ぎ捨て飛び込むと、薄明かりの中香織の姿を追う。


香織はすぐに見つかった


水底に…まるで胎児のように自分を抱きかかえて。


香織の肩を掴み、意識を確かめる。

水に煽られ生き物のように揺蕩(たゆた)う髪を掻き分けその表情を覗き込むと、薄っすらと 瞳を開く。
ホッとすると共に、その生気のない乾いた瞳にギクリとした。
何も映していないその瞳は、まるで初めて見る人のように僕を見つめていた。
とにかく早く浮上しようと手を取ると、突然僕を突き放し、逃げるように泳ぎだした。

中学のとき水泳部にいたとは聞いていた。
ここへ来てからも何度も一緒に泳いだことはある。
だけど、香織の本気の泳ぎがこれほどだとは思わなかった。
体力作りの為に、ほぼ毎日泳いでいる僕が追いつけない。
しかも彼女は全く息継ぎをしようとしないのだ。

まるで自分を追い詰めるような泳ぎに危機感を感じたときだった。

香織は突然スピードを落とし…

力尽きたようにゆっくりと沈んでいった。





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精神的に追い詰められ、衝動的にプールに飛び込んだ香織。
彼女が思い出した過去の深い傷とは…
次回、香織の過去の傷に触れます。

2008/01/15