応接室を開けると、中にいた5人の視線がいっせいに僕達に集まった。
香織の両親の秋山 祐成(ゆうせい)氏と典香(のりか)夫人は面識があるが、香織のおばあさんは初対面だ。
おばあさんの榊 六香(さかき りっか)さんは、着物を上品に着こなす老婦人で、まだ50代だと言われても通用するほど若々しく見えた。
秋山夫人が香織に駆け寄り抱きしめると、『無事で良かった』と涙を流した。
改めて、一族の争いに関係のない香織の家族を巻き込み、苦しめてしまったのだと深い罪悪感に見舞われる。
香織は泣くことも笑うこともせず、ただ『大丈夫だから』と答えると、僕に救いを求めるように視線を彷徨わせた。
あんなことがあって、しかも久しぶりに両親に会えたというのに、なぜか困惑した表情に腑に落ちないものを感じる。
それは僕の父も同じだったらしい。
『ご両親にも泊まって頂くので、今夜は家族でゆっくりと過ごしなさい』と香織に言葉を掛けてから、仕草で僕にエスコートするよう促した。
この二日間の出来事について、大まかなことは香織の家族にも既に話してあるらしく、全員が一様に硬い表情をしている。
部屋の中には張り詰めた空気が漂い、緊張した視線が僕達に注がれていることが息苦しかった。
香織も同じ気持ちだったのだろう。
繋いだ手からビクリと緊張が伝わってくる。
『大丈夫』と伝えるように手を握りなおし、父が示すソファーにエスコートし座らせた。
それから香織の家族に一礼をして向き直った。
「秋山さん、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。
今回の事は危険を軽視し、警戒を怠った僕の責任です。
部下を信頼していたとはいえ、彼女の傍を離れたばかりに最悪の事態を招くところでした。本当に申し訳ありません」
殴られる覚悟で深々と頭を下げると、両親も一緒に席を立ち頭を下げた。
暫しの沈黙の後、秋山氏が口を開くまで、多分10秒も無かったと思う。
だが、それ以上に長い時間に感じた。
「浅井さん、廉君、頭を上げてください。線路に落下した事はもみ合った上での事故だ。私はこの件で廉君を責めるつもりはないんです。
廉君、君は大丈夫だったのかい? 随分無茶をして香織を命がけで救ってくれたそうじゃないか。一歩間違えば君だって命を落としていたんだ。君が本当に香織を大切に思ってくれている事には感謝しているよ」
秋山氏の寛容な応対にホッとして顔を上げる。
と、同時に投げかけられた次の言葉に全身が硬直した。
「…でもね、君との事が原因で今後も故意に狙わる可能性があるならば、このまま交際を続けることは賛成できないんだ」
一番恐れていたこと。
ある程度覚悟はしていたけれど、こうもはっきりと秋山氏から言われると苦しいものがある。
彼女を手放すなんてできない。
第一別れたからって、香織が狙われない保障はどこにもない事は今日の出来事で証明されたばかりなんだ。
「そのことなんですが…」
絶対に別れないと言ったら、今度こそ殴られるだろうと覚悟を決め口を開いたとき、それまで黙って聞いていた香織が口を開いた。
「待って、パパ。あたしなら平気よ。だから別れろなんて言わないで」
「香織、このまま彼と付き合っていたら、また同じことが繰り返されるかもしれない。それを承知で交際を認めるなんてできるはず無いだろう?」
「別れたって狙われるのよ。あたしを狙った人の本当の目的は廉君と別れさせることじゃなく、あたし自身なのかもしれないわ」
寝耳に水の事実に愕然として、思わず香織の両肩を掴んで向き直った。
「何だって!どういう事?」
「村田さんは、あたしに会いたいという雇い主の所へ連れて行こうとしたの。あたしはそれに抵抗してあんな事になってしまったのだけど…」
「直接君に会おうとした…?」
「…ええ。その人の名前は聞けなかったけど、村田さんは『あの方は時間に遅れる事を酷く嫌う』と言って、電車が遅れて予定が狂った事にイライラしていたわ」
初めて彼女自身から語られた一連の出来事に改めて震えるほどの怒りが込み上げてきた。
その雇い主というのは春日のおじい様にほぼ間違いは無いだろう。あの人が時間に厳しいのは有名な話だ。
だが…解らない。それが事実なら、目的は何だ?
僕らが別れた事は香織を帰すことを知った時点でとっくに村田が報告していただろうに…
それだけでは満足できない何かがあったというのか?
「…何故君と会う必要があるんだろう。
単に僕の彼女で、一族結婚の妨げになる存在だから二度と近寄らないように仕向けたいのだと思っていたけど…」
もしかしたら、香織の言うとおり彼女自身に理由があるんだろうか。と、
疑問を投げかけるように父に視線を向ける。
父も解らないといった仕草で頭を振ると、眉間に皺を寄せ考え込んでしまった。
「ねぇパパ、あたしは廉君の傍にいたいの。廉君はあたしを護ってくれるって約束したわ。お願い」
「ダメだ香織。廉君は良い青年だと思うが、お前を危険な目に遭わせると分かってる交際は認められない」
「イヤよ! たとえ別れても狙われるのよ。だったら別れる必要ないじゃない。お願いパパ、あたし達の事を認めて!」
「香織。私達には親としてお前を幸せにする義務があるんだよ。こんなリスクの高い危険な交際を許すことは出来ないんだ」
それを聞いた香織はまるで電気仕掛けの人形のようビクリと動きを止めた。
暫く黙って俯いていたが、やがて小刻みに肩を振るわせ、クスクスと笑い始めた。
それまで縋るように潤んでいた瞳は冷たく影を落とし、どこか狂気めいたものが滲んでいる。
「親としての義務? 本当の娘じゃないのに…」
「―っ!香織?」
「…思い出したの。あたしは本当の父親に捨てられたの。そうでしょう?」
突然の衝撃的な告白にご両親も僕らも言葉を失った。
思い出した過去を語り始めた香織の声は、淡々としており感情の抑揚もなかった。
プールの底で見た感情のない瞳を思い出しゾクリとする。
ようやく合点がいった。
プールに飛び込んだり、おかしなことを口走ったりと、不安定だった先ほどまでの状態は、本当の父親の事を思い出したショック状態だったのだ。
香織の心が冷めていく様子がこの部屋の恐ろしいほどの静けさを漸増(ぜんぞう)させていく。
誰も動くことが出来なかった。
「あたしを幸せにする『義務』って何ですか? 失踪した父に対しての義理立てですか? 他人の子を立派に育てられなかったと思いたくないからですか?」
両親に向き直り、恐ろしいほどに冷たく告げる香織。
他人行儀な物言いに、夫人はショックで泣き出し、秋山氏は言葉を失い苦しげに唇を噛んだ。
ただ一人、おばあさんだけがその様子を冷静に見ていた。
「あたしなんかを娘として育ててくれた事には感謝しています。でも育てたから『義務』で幸せにしなくちゃいけないなんてそんな責任はいりません。娘を捨てるくらいですから、父はあたしの幸せなんて望んでいなかったと思います。
『義務』になんか縛られないで下さい。あたしは誰かの枷になって生きたくはないんです」
冷たい瞳は両親に向けられているが、何も映していない。
言葉とは裏腹に、崩れそうな心を支えようと無理をしているのは明らかだった。
掛ける言葉も見つからず、無言で震える肩に腕を回すと崩れるように僕に身を預ける香織。
その蒼白い顔も、触れる指先も、まるで今まで水底に沈んでいたかのように冷たかった。
「…香織ちゃん、それは違うと思うよ?」
香織をたしなめるような静かな声に、驚いて顔を上げる。
声の主は僕の父だった。
「本当の親子だとか、血の繋がりがあるかどうかなんて、『家族』の形には関係ないんだよ。廉と雪だって血の繋がりはない。それでも彼女は母親として廉を大切に思っているし、廉は雪を家族として受け入れている。
香織ちゃんはずっとご両親を本当の親だと思っていたんだろう? これまでご両親の愛情を疑ったことはあった? 養女だと知ったとたん両親の愛情を疑うなんて…そんなのおかしいと思うんだ」
まるで学校の講堂で挨拶をするときのように、静かに語りかける口調。
『僕の父』でも『浅井グループ当主』でもなく、彼女も良く知る『理事長』の顔だった。
「君は頭の良い子だからね、落ち着けばちゃんと全てを受け止めることが出来るはずだよ? ただ…ちょっとショックを受けたんだね。真実を思い出した直後だけに、お父さんの『義務』という言葉に」
それまでの人形のような冷たい表情が、苦しげに歪んだ。
ギュッと瞳を閉じ、俯いてしまった香織の頬をハラハラと涙が伝っていった。
「君のお父さんが『義務』と言ったのは、決して君の思っているような理由からじゃないよ。
これは親になってみないと解らないかもしれないけれど…親というものは本当に馬鹿な生き物でね、我が子のためならどんな苦労も厭わないし、愛する子供が幸せになる為なら、どんな馬鹿な事も、無茶な事も身体を張って出来るものなんだ。
…だけど可愛いからと言って、何もかもをただ許すのは愛情ではない事くらい頭の良い君の事だから解るだろう?」
そこまで言うと一旦息を継ぎ、ゆっくりと足を組み替え、僕へと視線を移した。
「私には同じ親として、君のお父さんの気持ちは良く解るよ。廉には悪いが私が君の父親でも、こんな危険な環境にいる男と付き合いをさせたいと思わない。
『好き』という感情でどんなことにも耐えられると思っているかもしれないが、その気持ちだけで全てを補える程、世の中簡単じゃない。
むしろ苦境が続けば続くほど、愛情が薄れる事だってあるんだ。
感情的になっている君にそれを正しく伝え、冷静に考える力を与えること。そしてその上で君が見出した幸せに導くことが、子供を見守り道を示す親としての『義務』なんだよ。解るかい?」
香織の膝の上でギュッと握られたこぶしの上に、ポタポタと涙の粒が落ちて砕けていく。
今にも崩れそうな細い肩が痛々しくて、回した手にグッと力を込めた。
「時には優しく見守り、時には盾となり護り、時には…強い意志を持って憎まれる役を買って出なくちゃいけないときもある。…お父さんが『義務』と言ったのは、君を本当に愛しているからで、決して君の本当のお父さんへの義理立てでも、君が実子でないことへの後ろめたさからでもないんだ」
「香織…僕もそう思うよ。僕はたとえ血が繋がっていなくても、育ててくれた母さんが愛してくれている事を感じるし、他人だと思ったことは無い。
香織のご両親はこんなにも心配して、駆けつけてくれたじゃないか。それだけで、どれほど香織の事を愛してくれてるか解るはずだろう? 哀しい過去を思い出して不安になるのは解るよ。だけど、こんなときだからこそ、家族の愛情を信じないといけないんじゃない? 幼い頃からずっと、誰より君を愛して大切に見守ってくれたのは、失踪したお父さんじゃなく、今ここにいるご両親だろう?」
僕の胸に顔を埋め嗚咽しながらも、香織はコクリと頷いた。
香織の嗚咽がすすり泣きに変わり、やがて静かに収まっていく。
だれも言葉を交わす事無く、香織が落ち着くのを静かに待った。
今夜はもう休ませたほうが良いと判断し顔を上げると、
父と視線がぶつかった。
どうやら同じ考えだったらしく、瞬時に僕の意図を察して一つ頷き、口を開こうとした。
その時…
それまで黙って見ていた香織のおばあさんが口を開いた。
「香織…俊弥(しゅんや)はあなたを捨てたわけじゃないのよ」
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香織の気持ちを両親はどんな思いで聞いたのでしょう。
どんなに愛情を注いでも子供には伝わらなかったり…親って虚しいなあ〜と思いながら書いていました。
香織の両親の気持ちも書きたかったのですが、これ以上長くなるのもチョット…って事でカットです。
さあ、香織のおばあさんの爆弾発言で、次回、ついに香織の過去に迫っていきます。
2008/01/22