パパの口から『義務』という言葉が出たとき、あたしは育ての親にも愛されていないのだと思った。
託されたから仕方なかったのだ。
兄に押し付けられたから、ママはあたしを育てる羽目になった。
パパはあたしを愛しているわけじゃなく、仕方なく義務で育てただけなのだ。
そう思ったら、色んな感情がごちゃ混ぜになった波があたしを呑みこんで、訳が解らなくなった。
冷静になれば解ることだった。
パパやママが本当の娘として愛してくれたからこそ、あたしはこれまで両親の愛情を疑うことがなかった。
封印した過去を、再び思い出すことも無く今日まで幸せでいられたのだ。
理事長先生に諭されるまで、そんなことにも気付かず、自分だけが苦しんでいると思い込んでいた身勝手さを恥ずかしく思った。
パパやママが苦しくなかったはずが無い。
どんな気持ちであたしの言葉を受け止めたんだろう。
本当に悪いことを言ってしまったと思うけれど、心の奥底に溜め込んだものを全て吐き出した事で、わだかまっていたものがようやく消えた気がする。
泣くだけ泣いてスッキリしたら、それまでの不安や苛立ちがスウッ…と消えて、ゆっくりと心が静まっていった。
だけど興奮しすぎた身体は、震えと脱力感で思うように力が入らず、あたしは廉君に寄りかかったまま動くことが出来なかった。
泣きすぎたせいで、目が腫れて視界が狭い。
ぼんやりと頭に霞がかかり、思考能力も機能停止状態に入りつつあった。
今日はもう休みたい…
放心状態でぼんやりとそう思った時、おばあちゃんが何かを言ったー…
ー俊弥はあなたを捨てたわけじゃないのよー…
聞き覚えの無い名前に、すぐには反応出来なかった。
しゅんや…?
知らないはずなのに何処か懐かしいその響きを辿り、ゆっくりと過去を紐解いていく。
その名前の記憶を手繰り寄せたとき…
あの手紙にあった『俊弥』という文字を思い出した。
その瞬間、それまで機能を停止していた思考が覚醒し、フル回転を始めた。
俊弥…って…あたしのお父さん?
あたしを捨てたわけじゃないって、どういうこと?
顔をあげると、いつもは穏やかなおばあちゃんの顔には、苦悩を思わせる深い皺が刻まれていた。
それを問うのはおばあちゃんを苦しめるのかもしれない。
直感でそう思ったけれど…
それでも、あたしは知りたかった…
「捨てていない? じゃあどうして…お父さんはあたしをおばあちゃんに託したまま姿を消したの? どうして迎えに来なかったの? どうしてあたしを愛してくれなかったの?」
あたしの声は擦れて、まだ少し震えていたけれど…
静かな部屋には十分すぎるほどハッキリと響いた。
***
ようやく落ち着き始めた香織を再び動揺させるおばあさんの発言。
これには秋山夫妻も慌てたようだ。
情緒不安定な香織に父親の話をして更に追い詰めてどうするのかと…
また以前のように発作を起こしたり言葉を失ったりしたらどうするのかと…
ご両親は香織を案じ、おばあさんに非難の視線を向けた。
目の前の香織はまだ放心状態で、父親の話を冷静に聞き受け入れるには、無理があると思うのは当然だろう。
しかし香織は気丈にもそれを望んだ。
何故父は姿を消したのか
何故迎えに来なかったのか
何故愛してくれなかったのか
その答えを模索し苦しむ香織にとって、『捨てたわけじゃない』という言葉は救いだったのかもしれない。
「これまで私は香織に俊弥の事を隠し、偽る事ばかりを考えてきたわ。香織にだけじゃなく、典香にも真実を告げていなかった。
いいえ…正確には、あまりにも真実が重くて告げられなかったの。
知らないほうが幸せだと信じて、一生私の胸に収めておくつもりでいた…。
でも、決心しました。香織はいろんな意味でショックを受けるかもしれないけれど、真実の中に父親の愛情があったと知ることで、きっと俊弥の事も、私に託された理由も受け入れることが出来るでしょう」
これから語られる真実に、よほどの秘密があるのだろうか。
念を押すように何度も『現実を受け入れるように』と、繰り返すおばあさんにコクリと頷いて答える香織。
身内だけのほうが話しやすいだろうと、僕の両親が席を外そうとすると、おばあさんは一緒に聞いて欲しいと同席を願った。
ふらつく彼女を支え、寄り添っておばあさんを見つめる。
秋山夫妻も緊張の面持ちで、成り行きを見守っていた。
母がすっかり冷めたコーヒーの代わりに、新しい紅茶を淹れ始めた。
柔らかな香りが部屋を満たすと、それまでの緊張が緩み、ほんの少しだけ空気が和んだ。
まだ震えの止まらない香織は、両手でカップを支えるようにして紅茶を口に運ぶ。
その危なげな仕草に不安を感じたが、彼女は気丈にも寄りかかるのを止め、姿勢を正して顔を上げた。
僕を見つめ薄く微笑むと、無言で気持ちを伝えてくる。
ちゃんと全てを受け入れるから、傍で支えていてねー…
黙って頷き、小さな手を握り締めた。
それを見ていたおばあさんは安心したように頷いた。
それからゆっくりと全員を見渡し、静かに語りだした。
香織の両親にすら告げられていなかった真実をー…
***
クリスマスの近い雪の夜、香織の父、榊 俊弥は血にまみれたショールに包まれた香織を自らのコートで隠すように抱きかかえ、母の榊 六香の元を訪れた。
産まれてまだ数時間しか経たない、血だらけの赤ん坊に六香は息を呑んだ。
既に泣くことすら出来ないほどに衰弱した赤ん坊を病院へ連れて行く事を拒み、その存在を隠して欲しいと言う息子に六香は戸惑った。
本当に息子の子供なのかと疑う六香に、俊弥は間違いなく自分の子だと言い切り、娘の存在を良く思わない者がいる為、今は存在を知られるわけには行かないのだと告げた。
その夜、二人は必死で赤ん坊を温め続け、朝方なんとか小さな泣き声を聞いたときには、心からホッとした事を覚えている。
俊弥は榊の家の娘に贈られる『香』の一字を取った名を娘に与えた。
我が子を抱き、愛おしそうに『香織』とその名を呼んだ姿は、今も六香の胸に鮮やかに蘇る。
必ず迎えに来ると言い残し、俊弥は雪の中に姿を消した。
それから1週間ほどした年末の雪の深い夜、六香は俊弥から1本の電話を受けた。
自分はもう戻れない、香織を頼む。と、それだけ言うとブツリと切れ、以後息子から電話が来ることはなかった。
六香が1通の手紙を受け取ったのは、年が明け、暫くしてからのことだった。
そこには、俊弥が姿を隠さなければならなかった理由と、香織の母に関する事が書かれてあった。
その余りにも痛ましい内容に六香は涙した。
そして、その内容を誰にも知られないよう胸に仕舞い込み、すぐに手紙を燃やしたのだった。
たが、3枚の便箋のうち、母への思いを節に綴った最後の一枚だけはどうしても火をつけることが出来なかった。
3枚目の便箋には、息子の無念の叫びが聞こえたからだ。
六香にはその手紙が遺書のように見えた。
息子はもう生きていないのかもしれない。
そう思ったら、この一枚だけはどうしても捨てることが出来なかった。
お母さん、本当にゴメン。
娘を育てることも出来ずお母さんに託す親不孝を許してください。
今の俺に出来ることは、逃げることだけ。
香織の存在をどうか隠し続けてください。
俺の子だと誰にも悟られることのないよう、里子に出してください。
何の親孝行もできなくてごめん。
最後まで迷惑をかけてごめん。
息子など最初からいなかったと思って忘れてください。
どうか捜さないで欲しい。
さようなら
お母さんの幸せを心から祈っています。
俊弥
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ショールと共に本棚の裏に隠した息子の最後の手紙。
それが時を経て香織に真実を告げることになるとは
その時には思いもしなかった。
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俊弥は確かに香織を愛していました。
なのに何故、母親に託して俊弥が逃げなければならなかったのか…
次回もおばあさんの話が続きます。
2008/01/24