おばあちゃんは言葉を切って紅茶を口に運び、暫し黙り込んだ。
ひとつの真実を知るたび、その内容の重さに胸が痛む。
いつも微笑んでいる優しいおばあちゃんの、こんなに厳しい顔は見たことが無かった。
きっと長い間ずっと心の奥底に閉じ込めていたことだけに、言葉にすることが難しいのだと思う。
何かを言いかけてはやめ、言葉を捜すように考え込む。
そんな仕草を繰り返しては、ポツリポツリと話す姿は、とても小さく見えた。
「年を取ると忘れっぽくなるけれど、忘れたい事はどうしても忘れられないの。
いっそ忘れることが出来たらどんなに楽だったか…。
親なのに、俊弥を助けてやることも、苦しみを受け止めてやる事もできなかった。
私に出来ることは、俊弥が最後まで望んだこと。香織が俊弥の娘である事実を隠すことだけだったわ。
香織は典香の娘として引き取られることになったけれど、私は典香にすら兄が香織を残していった本当の理由を告げることが出来なかった。
真実など知らないほうが、香織を幸せにしてくれるような気がしたのよ。
だから典香と祐成さんには、俊弥は知人の保証人になって多額の借金を背負った為に香織を育てることが出来なくなったのだと、嘘をついたの。…ごめんなさい」
おばあちゃんはパパとママを申し訳なさそうに見た。
ママは首をゆっくりと横に振っておばあちゃんの肩を抱いた。
「いいのよお母さん。…でもどうして話してくれなかったの?
香織が私達の娘になったのは、運命だったのだとずっと思って育ててきたのよ。
4年間不妊治療を続けても子供に恵まれなくて、もう諦めて養子を貰うことも考えていた私達に、神様が香織を遣わしてくれたのだと思ったわ。
血が繋がらなくてもいいとさえ思っていた私に、血の繋がりのある娘が出来たんですもの。お兄さんにどんな理由があっても、香織に対する愛情が変わるわけでも無いし、私達が親であることを変える事もできないのよ。
…もう全部話して楽になって? 私達夫婦を気遣って言葉を選んだりしなくてもいいのよ」
「ありがとう、典香。…ずっと後悔していたの。借金だなんて俊弥を傷つけるような嘘をついてしまったこと。
何もかも失った俊弥から名誉さえも奪ってしまったと、ずっと苦しんでいたの。
全てを話して、俊弥が香織を愛していたとわかってもらえたら…私も少しは楽になれるかもしれないわね…」
おばあちゃんは哀しげに瞳を閉じ、過去を紐解くように、ゆっくりと話し出した。
***
俊弥からの手紙の内容。
それは余りにも悲惨な恋の結末を告白するものだった。
俊弥は有名企業の社長子息の秘書だった。
優秀だった彼は社長に見込まれ、三十前にして次期社長の片腕としてその将来を有望視されていた。
そんな中、彼はあるパーティで一人の女性と出逢った。
二人は惹かれあっていたが、彼女は良家の娘で、俊弥の上司である社長子息との婚約が決まった身だった。
会社をより深く結ぶ為の政略結婚故、逃げることも破談にすることもできず、彼女は自分の意志など関係なく嫁ぐしかなかった。
だが愛人を何人も抱える上司にとって、彼女は形だけの妻だった。
幸せとは言い難い結婚生活に心を痛めた俊弥は、彼女と逃げなかったことを心から悔やみ、一生見守り続けることを決意していた。
そんなある日、彼女もまだ俊弥を愛していることを知った。
互いの気持ちを知った二人の距離は急速に近くなり、逢瀬を繰り返すようになる。
やがて…彼女は俊弥の子供を身ごもった。
徐々に現れる変化をいつまでも隠し続けられるはずもなく、やがて彼女の妊娠は夫の知るところとなる。
だが既に堕胎はできない時期に入っていた為、妻の不貞が外部に漏れぬ様、彼女を別荘に監禁してしまった。
彼女の見張りは全て女性で固められ、外部との接触を一切禁じられた。
もちろん俊弥も例外ではない。
彼女の夫の右腕として全幅の信頼を得ていた俊弥は、監禁に関する全ての手続きを一任されたが、それでも彼女と連絡を取ることは難しかった。
二人の仲を悟られない為とはいえ、愛する女性を自ら監禁する事は辛く、会うことも救い出すことも出来ない無力さに俊弥は苦しんだ。
今すぐにでも彼女をさらい逃げられるものなら、そうしただろう。
だが、別荘のセキュリティは厳しく、彼女はただの一歩も外へ出ることも出来ず、監視の女性と話すことすら許されなかった。
妊娠させたのが自分だと知れたら、彼女と引き裂かれ二度と会えなくなる。
表向きは上司の腹心の部下として完璧な仮面を着けながらも、二人で逃げる機会をひたすら待っていた。
強固な見張りが緩むチャンスは一度きり…
逃げ出すとしたらその時しかない。
失敗は子供の死を意味していた。
彼女の夫は最初から、不貞の子を認めるつもりも、生かすつもりもなく、
万が一、無事子供が産まれた場合は、俊弥の手で抹殺せよと命じていた。
片腕と認めるが故の闇の任務だが、我が子を殺すことなどできるはずも無い。
何とか二人を救い出したかった俊弥は、忠実な表の顔を崩す事無くたった一度のチャンスに懸けていた。
唯一のチャンス…
それは陣痛の始まるその日だ。
陣痛で苦しむ妊婦が逃げるなど誰も思わないだろう。
鉄壁のガードもそのときばかりは甘くなる。
その隙をみて彼女を連れ出し二人で逃げる計画だった。
二人はその日に懸けていた。
産まれ来る子供と共に幸せになろうと誓い、その日を夢見て待ちわびてた。
だが旅立ちとなるはずだった日、悲劇は起きてしまった。
裏切りを許さない夫に仕組まれた罠によって…
夫は彼女を監禁した理由を、表向きは妻の不貞を隠す為としていた。
だが、彼の本当の目的はそこではなかった。
自分を裏切った妻と、その相手への復讐の為だ。
彼は全て知っていたのだ。
妻の妊娠が判った時、部下に相手を探し出すように命じたが、どうしても解らなかった。
本来ならあれだけの情報網と財力で捜して、妻の不倫相手一人を見つけられないなど在り得ないはずなのだ。
だからこそ解った。
信じたくは無かったが、外部の人間で無いとすれば、身内しかいない。
ごく身近な人間へと視点を変えるとおのずと二人の関係は見えてきた。
形だけの結婚とはいえ、妻が自分の腹心の部下と愛し合っていた事実は彼のプライドを粉砕していた。
しかも俊弥は何食わぬ顔で自分を騙し続けている。
二人を許すつもりなど無かった。
監禁状態の妻を医師に診せる事も許さず、産みたければ自分独りで勝手に産めと言い捨てた。
孤独の中、精神的に追い詰められ、たった独りで頼る者もない不安な出産に彼女は苦しむだろう。
難産で苦しもうが、それで命を落とそうが、まったく助ける気は無かった。
それどころか、出産に失敗して親子とも命を落とせばいいとすら思っていたのだ。
堕胎が出来なかったから、出産させるしかなかった。
だが、あくまでも彼女が子供と生きることを認めるつもりなど無かった。
愛する女を自らの手で監禁し、孤独に苦しむ姿を見せ付けられても助けることも出来ず、最後にはその手で子供を殺める。
ポーカーフェイスで自分を騙し続ける俊弥が、最後には子供の亡骸を前に泣き叫ぶその時こそ、自分を裏切った妻と部下への残酷な復讐は果たされるのだ。
そして運命の日はやってきた…
彼女の見張りから陣痛が始まったと知らせを受けたのは、雪のちらつく朝だった。
上司から『必ず抹殺しろ』と念を押され顔色一つ変えず頷くと、俊弥は彼女の元へ向かった。
この瞬間、復讐の幕が開いたことも知らずに…
別荘までは車で約1時間の距離だった。
だが、30分も行かないうちに車は異音を立て始め、ブレーキが利かなくなった。
俊弥の車には予め細工をされていたのだ。
ブレーキの利かない車は山道を暴走し、別荘まであと20qの所で事故を起こしてしまった。
その頃、彼女は陣痛に堪えながら、なかなか来ない俊弥を待っていた。
見張りの姿が見えない今しか逃げるチャンスは無いと解っているのに、俊弥は一向に現れる様子は無い。
陣痛の感覚が短くなる前に、逃げなくてはと気持ちばかりが焦せる。
そのとき、生暖かい感覚が足を伝っていった。
破水したのだ。
時間が無いと判断した彼女は、とりあえず独りで逃げることを決意した。
だがドアは外から施錠されており開けることは出来なかった。
見張りの女性達が一人で出産する彼女に同情し、逃亡に手を貸すことを恐れた夫により、陣痛が始まった時点で全員が別荘から引き揚げるよう命令を受けていたのだ。
逃げ出すことも出来ず、どんどん間隔が短くなる中、彼女は一人で陣痛に耐え続けた。
一方、事故を起こした俊弥は、怪我をした足を引きずりながら必死に別荘へ向かって歩いていた。
必死に歩けども、痛みを堪えての歩みは、まるで子供を連れた女性のように遅い。
痛みは歩くたびに増し、冬の冷たい風に曝され、感覚すらなくなっていく。
それでも孤独に陣痛に耐え自分を待っている彼女を思うと、歩みを止めることはできなかった。
ようやく別荘にたどり着いた頃には、朝からちらついていた雪は本降りになり、いつもより早い冬の夕刻が足早に闇を連れてきつつあった。
雪の中に不気味なほどの静寂に包まれる別荘。
その前に立った俊弥は、別荘のドアというドアが全て外から施錠されている事に唖然とした。
周囲に警備の人影も無く、辺りはシンとしている。
彼女は無事なのだろうか。
不安は焦りに変わり、彼女の気配を捜す。
別荘内は静まり返っており、一刻を争うことを直感した。
ドアに体当たりして鍵を壊し、中に飛び込む。
彼女の姿を捜し、リビングのドアを開けたとき、俊弥は信じられないものを見た―…
血に染まった絨毯。
ローテーブルの上には産み落とされたままの赤ん坊。
聞き取れないほどのか細い泣き声に、かろうじて赤ん坊が生きていることを確認できた。
そしてその傍らには、手首に深い傷を負い大量の血を流した彼女が、突っ伏すようにして倒れていた。
彼女はどれほど孤独だっただろう。
どれほど俊弥を待ち続けていただろう。
初めての出産で、誰に頼ることも出来ず、たった独りで小さな命を産み落とした彼女は、精神的にも肉体的にもボロボロだった。
俊弥が現れないことへの不安は徐々に疑心へと変わっていく。
そのとき、彼女は見つけてしまった。
俊弥の名前が書かれた別れの手紙を。
それは俊弥が裏切ったと思い込ませる為に夫が仕掛けた罠。
見張りが去り際においていったものだった。
もしも彼女が冷静だったなら、それが罠だとすぐに解っただろう。
だが、長期の監禁と出産で心身ともにボロボロになっていた彼女に、それを冷静に確かめるだけの気力は残っていなかった。
俊弥の呼びかけに僅かに反応した彼女は、最後の願いを伝えると、腕の中で静かに息を引き取った。
俊弥があと少し早く着いていたら…
彼女がもう少しだけ、俊弥を信じて待っていてくれたなら…
夫が仕掛けた罠に嵌る事無く、二人で幸せに暮らせていたかもしれない…
だが彼女はその罠に嵌り、永遠に俊弥の元を去ってしまったのだ。
俊弥は逃げた。
泣いている暇は無かった。
彼らが自分を見つける前に、娘の存在を隠さなくてはならなかった。
足跡を消し去る雪が、二人の痕跡の全てを隠してくれるよう願いながら、小さな命を抱きしめて走り続けた。
――せめてこの子だけは…一族の手の届かないところで幸せに―…
彼女が消え逝く最後の瞬間の切なる願いを叶えるために―…
***
それから16年、香織は輝かんばかりの美しい娘に育った。
この夏休みに恋人に誘われて別荘で過ごすと聞いた六香は、毎日幸せそうに恋人の話をする香織が眩しかった。
俊弥の望んだとおり、香織はこのまま秋山の娘として幸せになるだろう。
両親のような辛い恋ではなく普通の恋をして、いつかきっと幸せな花嫁になる。
血生臭い『一族』などとは無縁の人生をおくるのだ。
きっと俊弥と彼女の分まで幸せになる―…
そう信じて疑わなかった。
あの日、香織を迎えに来た運転手が『一族』の使いだと知るまでは―…
Back /
Next
Copyright(C) 2008 Shooka Asamine All Right Reserved.
香織の両親の哀しい恋物語。香織もまた一族に関係のある人間でした。
香織の母親が誰か…お判りでしょうか?
次回、失踪した香織の父親のその後が明らかになります。
2008/01/26