静まり返る部屋に、秋山夫人の泣き声だけが響く。
余りにも哀しい恋の結末に誰もが口を開くことが出来なかった。
秋山氏は妻の肩を引き寄せ沈痛な面持ちで義母を見つめていた。
「榊さん。その『一族』というのは、泉原を筆頭とする私達一族の事を仰っているのでしょうか?」
長い沈黙を破ったのは、僕の父だった。
おばあさんは父を見つめ、深い溜息を吐いた。
「ええ…まるで何かに呼び寄せられるように香織は一族の男性に恋をして、父親と同じ苦しい道を選ぼうとしています。…因縁というのは恐ろしいものですね」
「待ってください。それが事実なら16〜7年前に自殺した女性がいたことになりますが、一族の中にはそんな事実も噂も聞いたことはありません」
困惑する父親を他所に、僕はこれまでの事を考え直していた。
おばあさんの話に何処か符合するもう一つの悲話を僕は知っている。
俊弥さんに裏切られたと誤解をして自ら命を絶った香織の母親と、愛人に裏切られ子供と心中を図った一族出身の女性。
考えれば考えるほど二人の姿が重なっていく。
もしかして同一人物なのだろうか…。
紀之さんから聞いた話は余りにも酷似している。
同じ日に聞いたから、関連付けて考えてしまうだけなのだろうか。
それでも湧き上がってくる疑問を流せなくて、あらゆる可能性を考察してみた。
色んな情報がグルグルと頭を駆け巡る。
それらを必死に引っ張り出しては整理してゆく。
やがて、一つの可能性にたどり着いた。
あくまでも仮説に過ぎないが、その可能性は皆無ではなく、仮説が正しければすべて辻褄が合うことに気付いた。
真実を確かめたい気持ちはある。
だが香織にとって事実を知ることは、はたして幸せなことなのだろうかと思い始めていた。
何も知らずにいたほうが幸せだとおばあさんは言ったが、本当にその通りなのかもしれない。
僕の考え違いであって欲しい…
そう祈るしかなかった。
その時、玄関の呼び鈴が鳴り、暫くして廊下が騒がしくなった。
使用人だけでは対処できない事態らしいと判断した父は、様子を見てくると言い残し部屋を出て行った。
まさか父や僕がいる別荘に、再び香織を狙う者が乗り込んで来るとは考え難いが、警戒するに越したことは無い。
誰が来ても即座に防御できるように、全神経を集中してドアの前で待機した。
暫くして父は難しい顔をして戻ってきた。
「香織ちゃんを心配して来たらしい。彼女の前でケンカするなよ?」
僕をチラリと見て、そう小声で囁くと、廊下に立つ人物へ視線を向ける。
「紀之さん? なぜあなたがここに?」
それまで考えていた内容が内容だっただけに、必要以上に動揺し声を荒げてしまった。
紀之さんも、僕の余りの驚き方にギョッとした表情を見せた。
「なっ…なんだよ? ちょっと報告ついでに香織姫の様子を見に来たんだよ。悪戯電話の効果はあったようだな。感謝しろよ」
「悪戯電話? …まさか、あの電車が遅れた原因の悪戯電話って…紀之さんが?」
「まあな、走って駅まで行ったって間に合わないだろうからな。少しでも駅に足止めできればと思ったんだが…大変だったらしいな。姫は大丈夫なのか?」
紀之さんの痛ましげな視線を受け会釈を返す香織に、ホッと息を漏らす。
そんな仕草に、彼の本当の優しさを垣間見た気がした。
「ところで報告って悪戯電話の事なんですか?」
「いや違う。実は…安田が病院から姿を消したんだ」
「何だって? 病院から姿を消したって…目を覚ましたんですか?」
「ああ、実は村田についてちょっと引っかかっていた事があったんで病院へ探りにいったんだ。そしたら偶然病室で小村が安田を刺そうとして揉み合っているところを目撃して…」
やはり小村も春日の犬か。と、唇を噛む。
香織を案じていた人のよさそうな長身の青年を思い出し、胸が悪くなった。
誰も信じられない…。
目の前の紀之すら、信じても良いものかと疑心が湧き上がってきた。
「もしかしたら村田かもと思っていたんだが、今日の事で確信した。まさか小村のほうが『鵺(ぬえ)』だったとはな」
「『鵺』だって!?」
「ああ、だが大した腕でもないらしい。手負いの安田に返り討ちにされて逃げられたんだからな。春日の暗殺集団『鵺』にしてはお粗末な奴だ。今頃は他の『鵺』に消されているだろうな」
まさか『鵺』が出てくるなんて、考えてもみなかった。
通常、春日の統御する闇の力と呼ばれているものには二つある。
一つは身内の裏切者を見出し抹殺する『魁鬼(かいき)』
一つは一族の秘密を知り脅かす者を抹殺する『鵺』。
どちらも暗殺集団には変わりないが、その本質はまったく違う。
見せしめに、より残酷な仕打ちをする『魁鬼』とあくまでも極秘に一族に関わった痕跡を消す『鵺』
どちらも敵に回すには余りにも恐ろしい相手だ。
会話を聞いていた香織が、青ざめて僕に手を伸ばした。
彼女の不安を察知し、その手を取るとギュッと抱きしめる。
腕の中で震える香織の耳元に『必ず護るから』と囁いた。
安田を追って『鵺』が動き出している事に、父も困惑してるようだった。
「父さん、すぐに安田を捜さないと…。彼にはもう後はない。きっと香織を狙ってくる!」
ビリッと室内が緊張した。
張り詰めた空気が息苦しいほどに纏わりつく。
「安田さんが…あたしを? どうして?」
「彼は僕らを裏切って、君が襲われる手引きをしたんだ。まだどこかで信じたい気持ちは残っていたけれど…逃げたって事は、やはり彼が裏切っていたということだろうね」
「嘘…そんな…」
見開かれた瞳から、大粒の真珠が再び溢れ出す。
香織は今日一日でどのくらいの涙を流したんだろうと思うと、次々に彼女を打ちのめす現実が恨めしかった。
父がセキュリティを強化するよう電話で告げると、数名のボディガードが直ぐに駆けつけた。
めったなことでボディガードを呼びつけることの無い父がここまでするのは、やはり『鵺』が動いていることが相当ショックなのだろう。
「秋山さん、榊さん、彼らに部屋の警護をさせますのでご安心ください。色々ご迷惑をおかけした上に、更に不安な思いをさせて申し訳ありません。安田は必ず私達が見つけますので…」
「浅井さん、その心配は不要です」
父の言葉をピシャリと跳ね除ける凛とした声が部屋を震わせた。
香織のおばあさんは真っ直ぐに父を見て続けた。
「私は彼を信じています。香織を迎えに来たあの日、彼は命に代えても香織を護ってくれると約束したんです」
「榊さん。あなたには私達の話している内容がどれほど危険を含むものかお判りにならないかもしれません。ですが、先ほど廉も言いましたが、安田は私達を裏切っている可能性が高いのです。姿をくらましているということであれば警戒しないわけには…」
必死に説得しようとする父を拒むように、おばあさんにはビッと右手をかざしその言葉を遮った。
有無を言わさぬ雰囲気に、あの父が思わず言葉を呑み込み口を噤んだ。
「廉君が香織を護って倒れた立場だったら、目覚めて一番最初に何をするかしら?」
「え…? 僕ならまず香織の無事を確かめますが……まさか?」
「彼もきっとそうするでしょうね。香織が無事だったからこそ自分が消されかけたのだと彼は理解するでしょう。彼が次に取る行動は、香織の無事を確かめて護ること…。
彼はおそらくここへ来るでしょう。でもそれは香織を傷つける為ではありません」
それまでの穏やかで静かな雰囲気が別人のような威圧感で、キッパリと言い放った。
彼女が何故そうまで安田を信頼できるのか、僕には解らなかった。
香織が再び狙われている事実に、焦りや苛立ちが募る一方なのに、おばあさんは安田を信じている。
その姿が、彼を信じきっていた昨日までの自分に重なって、裏切られ傷ついた心が悲鳴を上げた。
苛立ち、悲しみ、怒り…それらの感情が混ざり、どす黒い凶器となり牙をむく。
気がつくと声を荒げておばあさんに噛み付いていた。
「香織の無事を確かめて護る? 何故そう言い切れるのです? 香織を差し出して自分の身を護る為だとは思わないのですか? おばあさんが安田と会ったのは、香織を迎えに行ったあの日が初めてでしょう? 彼の事を知りもしないのに、命を懸けて護ると言ったくらいで、どうしてそこまで信頼できるんですか?」
激昂する僕に、おばあさんは宥めるような穏やかな口調で答えた。
「…安田と名乗っている男性を…私はここにいる誰よりも良く知っているから…」
「な…に?」
その瞬間、思考がフリーズしたのは、多分僕だけじゃなかったと思う。
驚く周囲の反応を他所に、
微笑むおばあさんは、何処か幸せそうな色さえ浮かべていた。
一連の様々な出来事に止めを刺すような衝撃。
おばあさんの口の動きが歪み、その声は時差が生じたように遅れて耳に届いた。
「…彼は…香織の父親、榊 俊弥なのです」
完全にショートした僕の思考回路は、その意味をすぐには理解する事が出来なかった。
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想像していた方、いらっしゃるでしょうか?
香織の父親は彼女を襲う手引きをしたと思われていた安田さんでした。
彼があのような行動を取ったのには理由がありました。さて、それは…?
2008/01/30