安田さんが失踪した香織の父親?
おばあさんの言葉を理解するまで、随分とかかった気がする。
それは僕だけではなかったようだ。
父も何を言われたのか解らないといった顔で固まっているし、秋山夫妻も唖然としている。
香織にいたっては、驚きの余り涙も止まり、声すら出ない様子でおばあさんを見つめていた。
そして、意外な事に紀之さんも顔色を変え、おばあさんを凝視していた。
「香織を迎えに来たあの日、俊弥は顔を変え『安田』と名乗って他人として私に接してきました。私も最初は気付きませんでした。でも玄関から香織の荷物を運び終えて戻るとき、彼は迷わず表玄関の脇にある、家人専用の玄関へと向かったのです。
まるで香織がそこから出かけることを知っていたように…。
何度も家に来たことがあるかのような自然な行動に、凄く違和感を感じて彼を引き止めました。
何故か、このまま彼を行かせてはいけない気がしたのです。母親のカンだったのかもしれませんね」
「そんな…。安田が…香織の父親? だったら何故香織を…?」
「香織ちゃんを護る為に周囲を欺いた。…とは考えられないか? 彼には幾つかの顔があるようだな」
父の言葉でハッとした。
幾つかの顔があるといえば、確かにそうだ。
安田が香織を狙った可能性を示唆したのは紀之さんだ。
余りにも状況が納得できたばかりに鵜呑みしてしまったが、
彼が裏切ったと確証できるものは何も無く、全て推測にしか過ぎない。
考えてみれば彼には納得のいかないことばかりだ。
安田は春日が母を見張る為に送り込んだスパイだと紀之さんは言った。
何故、彼は追われているはずの一族の渦中に身を置いたのだろう。
一族が香織の存在に気付かないよう、内部から見張る為か?
いや…しかしいくら整形して姿形が変わっていたとしても、それはリスクが大きすぎる。
そんな危険を冒して潜り込むくらいなら、身を隠していたほうがよほど香織も安全なのだ。
なのに何故だ?
「榊……榊 俊弥だと? どういう事だ? 安田が…榊だって?」
それまで放心したように話を聞いていた紀之さんが、搾り出すような声で呟いた。
「何故あいつが生きている? 榊はあの後『鵺』の手に掛かって死んだと聞いているぞ? それに…姫の父親ってどういう事だ、廉っ!」
思わず息を呑む程の怒気を帯びた顔付きは、ただ事ではなかった。
「あの野郎、他に女がいたのか? だからあいつは裏切ったのか? しかも子供まで…クソッ!」
榊は『鵺』の手に掛かって死んだと思われていた?
だったら俊弥さんの死と同時に香織の存在を知る者はいなくなったという事だ。
香織が一族に追われる可能性はほぼ無くなったと言って良いだろう。
それでもあえて、姿形を変えてまで一族に入り込まなければならなかった理由があるとしたら…。
考えられる可能性は一つしかなかった。
頭の中で組み立てていた形がピタリと固まっていく。
ツギハギの仮説が、深い眠りから覚めた真実へと変化してゆく。
全身の毛が逆立つような感覚だった。
紀之さんは僕の隣の一人がけのソファーに深く沈み込むように座り、両手で顔を覆うようにして俯いた。
小刻みに震える肩は、泣いているようにも、笑っているようにも見える。
やがて大きく深呼吸して、顔を上げた彼の視線は、真っ直ぐに香織に向かっていた。
「香織姫が…百合子の異母姉妹…とはね。ククッ…。同じ姉妹でも随分違うもんだな。一族にがんじがらめにされ、意思など関係なく婚約させられる百合子と違い、香織姫は自由だ。同じ父親の血を引いているのに、一人は捨てられ、もう一人は幸せに生きていたって事か?」
「紀之さん!それは違う。あなたは香織の事情を何も知らない。そんな風に言う事は僕が許さない。
香織だって父親に捨てられたと思ったショックでその記憶を失うほどに心が傷ついた時期もあった。今日の事故でその記憶が戻って、あなたが来るほんの少し前まで、こうして座ることすら出来ないほど憔悴していたんだ。
それでも必死に現実を受け止めようと気丈に振舞っている。
今また安田が父親だと知らされて、あなた以上にショックを受けているのは、ここにいる香織なんですよ」
僕の言葉にハッとした紀之さんは、ばつが悪そうに香織に向かって『すまない』と言うと唇を噛んで黙り込んだ。
強く噛み締める唇は、震えて徐々に紫に変色していく。
真実を知らないが故、やりきれない怒りに苦しむ紀之さんに、胸が痛くなった。
紀之さんは香織の事情を知らないし、香織の家族はもちろん一族の悲劇など知らない。
父ですら百合絵さんの心中の事実を知らないらしい。
つまり、僕だけが双方の事情と、その接点に気付いているのだ。
そこにいた全員が僕らの会話を呆然として聞いている中、気まずい雰囲気が流れる。
どこから説明しようかと考えていると、重い空気を切り裂くような強い口調で父が口火を切った。
「紀之、一体どういう事かな? どうしても直接廉の耳に入れたい緊急の話しがあると言うから客人がいらっしゃるにも関わらず廉に会うことを許可したんだ。本来なら君をここへ通すなどあり得ないんだぞ。だが、香織ちゃんを助ける為に車を出してくれたと廉から聞いていたから、心配する君の様子に免じて、挨拶だけならと思ったんだ。
それなのに…まさかそんな失礼な口を利くとは思わなかったな。
大体、どうして君が香織ちゃんを責めるんだ? 君の妹との婚約を廉が渋っているせいか?」
「違うよ、父さん。僕が説明する。…紀之さん、いいよね?」
紀之さんは一瞬眉を顰め、渋い顔をしたが『ああ』と低い声でつぶやいた。
それを受けて、一つ深呼吸してから全員の顔をグルリと見渡した。
緊張した面持ちの香織の手を握って、大丈夫だからと気持ちを伝えるようにその手の甲を優しく撫でる。
コクリと頷くのを確認してから、口を開いた。
「紀之さんは香織の事情を知らないし、他の皆は紀之さんの怒っている意味が解らないと思う。まずは紀之さんの誤解を解かないといけないんだけど…
紀之さん、あなたは榊 俊弥という人物を誤解をしている。あの人は誰も裏切っていない。誰かを捨ててもいない。だた愛する人の最後の願いを叶えようとしただけなんだ」
「…誤解? 恋人を見捨てて逃げた男が裏切っていない? 愛する人って姫の母親だろう? その人の願いを叶えるためなら百合子と母親は犠牲になっても良かったっていうのか?」
「紀之落ち着け! 廉の話を最後まで聞け」
怒りの静まらない紀之さんを、父さんが一括した。
流石に紀之さんも浅井家当主には口答えできる立場ではなく、不満げに口を噤んだ。
「最初は単に何処か符合する似たような話だと思っていた。だけど…紀之さんが榊 俊弥の名前を知っていたことと、彼が『鵺』によって殺されたと聞いて確信したんだ。
…確かにこれは僕の仮説で確証はない。だがそう考えることで全て理屈が通る。紀之さんには納得できない部分があるかもしれないけれど、どうか感情的にならずに冷静に聞いて欲しいんだ」
僕は一旦言葉を切って、紀之さんの様子を窺った。
彼は必死に冷静になろうと努めているようだった。
全員の視線が僕に集中し、次の言葉を待っている。
息苦しさに声が詰まりそうになるのをやり過ごす為、大きく息を吸い込んで言葉を繋いだ。
「百合絵さんが産んだ子は一人じゃなかったんだ」
繋いだ手を通して香織が緊張の余りビクッと震えるのが伝わってきた。
言葉の意味を問う視線を受け止めて、その手を両手で包み込むと、混乱している香織に一言一言を説明するように丁寧に言葉を続けた。
「つまりね…香織と紀之さんの義妹の百合子さんは…双子の姉妹なんだよ」
静まり返る部屋。
香織の瞳が大きく見開かれた。
「………な…に? …何を馬鹿なことを…大体双子って…全く似ていないし…何をどう考えたらそうなるんだ?」
紀之さんの擦れた声が部屋の静寂に吸い込まれていく。
導きだした幾つかの答えを順に頭の中に並べてみる。
それから繭の中の真実を取り出すように、慎重に言葉を選んで話し出した。
手紙にも綴られることのなかった、哀しい真実を。
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香織の母親はもしかして?と思っていらした方も多かったのではないでしょうか?
百合子と香織は姉妹でした。
廉が気付いた真実とは…。
2008/02/04