夜の闇が森を覆いつくす。
銀に輝く月が枝の間からほのかに零す僅かな月明かりを頼りに、俺は山道を必死に走っていた。
刺すような激痛が腹部を駆け抜ける。
傷口が開き、血が伝い始めるのを感じながらも、足を止めることはできなかった。
一歩足を出すたびによろける身体を気力で支え、引き攣る痛みに耐えながら別荘へと向かう。
意識が混沌とする中、周囲の景色が徐々に変化していった。
グラリと景色が歪み、辺りが真っ白に染まる。
意識が徐々に現実から離れようとする。
力が抜け倒れそうになるのを必死で堪え、顔を上げたとき…
目の前には過去の哀しい日の風景が広がっていた。
真夏だというのに、辺りには降り始めた雪が、薄く積もり始めている。
月明かりだけが光源だったはずの闇が、白く染まった雪の反射で眩しくさえ感じされた。
ああ…俺は夢を見ているのだ。
思い出したくない哀しい日の夢を…
犯した罪を懺悔するように繰り返す悪夢…
苦しくて…
哀しくて…
それでも愛しくてどうしても忘れられない。
たとえ悪夢でもいい…
それでも…彼女に逢いたい。
意識は徐々に白銀の世界へと堕ちていった―…
その年初めての雪が辺りを純白に染め上げる山道を、俺は必死に走っていた。
雪に包まれた別荘。
ドアを蹴破り室内に駆け込むと、リビングのドアの前で一旦躊躇する。
この先にあるのは何度も繰り返し夢に見るあの日の惨状。
…思い出したくない哀しい記憶。
…見たくない愛しい人の最後の姿。
それでも…
どんなに苦しくても…
彼女に逢いたい…
心を決めてドアを開けると、そこにはいつも夢に見る惨状があった。
愛する人の血に染まった姿。
傍らのテーブルの上にはか弱い声で泣く、産まれたばかりの小さな命。
そして手首に深い刃物の傷を負い、大量の血を流した彼女の腕の中には―…
既に呼吸をしていない、もう一人の赤ん坊がいた。
彼女を抱き上げ死の淵から呼び戻そうと必死に呼びかけると、薄っすらと目を開け『ごめんなさい』と呟いた。
「百合絵…どうしてこんなことを…」
彼女は力の入らない指で、足元に落ちた手紙を指差すと涙を流した。
それは俺の名前で彼女に当てた手紙だった。
上司に寝返り百合絵を捨てたと思わせる内容に絶望した彼女は、発作的に我が子の首を絞めて、心中を図ったのだと悟った。
「ショックで…どうして…いいか…分からなくて…赤ちゃんと…死のうと思った…の…。気がついたら…この子は…呼吸をして…なかった…。……でも…どうしても…二人は…殺せなく…て…」
テーブルの上の泣き声は、徐々に弱くなっていく。
このままでは唯一残された命までが死んでしまうのは確実だった。
「ごめん…なさ…俊弥…。手紙を…信じた……私を…許し…」
「遅くなってすまなかった。不安な思いをさせてしまって…。クソッ!全部バレていたのか。こんなことならもっと早くお前を連れて逃げるべきだった。せめて俺がもっと早く来ていたら…」
「いいの…来てくれた…だけで…私は幸せに…逝くことが…できる…から…」
「百合絵っ! 逝くなっ! 俺をおいて逝くなっ! 愛している。一緒に生きようと約束しただろう?」
「……一緒に…生きたかった…でももう…あなたが…見えない…」
「ゆ…りえ…」
細い指が俺の顔に触れる。
頬を伝う涙に気付いたのか『泣かないで』と小さく呟いた。
あの事故さえなかったら…
もっと早く着くことができていたら…
何をどう後悔しても、もう遅い。
彼女の命の火は、もう尽きかけていた。
「俊弥…せめてこの子だけは…一族の手の届かないところで…幸せに…」
「……ああ、約束する。きっとこの子は護ってみせる。だからもう…喋るな」
「…しゅ…ん……私…あなたを愛して…幸せ…だっ……」
「俺もだよ。誰よりも愛してる。だから…俺を独りにしないでくれ。お願いだっ!逝く…な…っ…」
「愛しているわ…」
フワリと微笑んだ彼女の幸せそうな顔。
あんなに幸せな彼女を俺は見たことが無かった。
百合絵はようやく解放されたのだ。
一族の血という重い枷から―…。
抱きしめる身体が力を失い、ズシリと重みを増していく。
信じたくない。
だが、その身体に既に彼女の魂が無い事を認めないわけにはいかなかった。
まだ温かく柔らかい唇に最後のキスを贈り、彼女を横たえる。
その腕には彼女が手にかけた赤ん坊がしっかりと抱かれていた。
一度も抱くことが叶わなかった我が子。
その柔らかな頬に触れる最初で最後の別れのキス
。
胸が押しつぶされそうに苦しくて、涙が込み上げてくる。
だが泣いている暇はなかった。
傍らでか細く泣くもう一人の娘を抱き上げ、百合絵の香りの残るショールで包むと直ぐに別荘を後にした。
せめてこの子だけは―…
か細い泣き声は更に小さくなっていく。
死の間際に託された、愛しい人の最後の願い。
彼女の忘れ形見を護る為、俺は逃げた。
一族の手の及ばない安全な場所へと…
百合絵の最後の願いを叶える為に―…。
それから香織を母に預けた俺は、再び彼女に会いに戻った。
彼女の亡骸は、尾田家ではなく実家の瀬名家に引き取られていた。
瀬名家は彼女の死を自殺ではなく事故死として封印し、数日後ごく近い身内だけで彼女は密葬された。
俺は遠くからそれを見守っていた。
彼女が荼毘(だび)に付され、小さな箱となったとき、俺はようやくおかしな事に気がついた。
百合絵と共にあるはずの小さな箱が無いのだ。
百合絵の腕の中で冷たくなった小さな命。
最初で最後の父親として贈った別れのキスの柔らかく冷たい頬の感触は今も唇に残っている。
あの子の遺骨がない。
どういう事だ?
まさか百合絵の死の真相と共にその存在を消す為に小さな亡骸を闇に葬ったのか?
怒りで視界が赤く染まるのを感じた。
彼女を最後まで苦しめた一族とは、どれほど冷酷で残忍なのかと腸(はらわた)が煮えくり返る思いだった。
怒りが沸点に達した俺に、更に追い討ちをかけたのはあの男だった。
俺達を引き裂き、百合絵を苦しめ、我が子までを死に追いやったあの男が葬儀に来なかったのだ。
彼女の身内が無礼な仕打ちに憤慨し、奴への制裁を決意するのを、俺は遠くから怒りに震えながら見ていた。
制裁だと?
一族に泥を塗った無礼に対する制裁なら、そんなものいらない。
欲しいのはそんなものじゃない。百合絵の哀しい魂を鎮める為の復讐だ。
怒りで、気が狂いそうだった。
必ず復讐してやると誓った。
彼女を追い詰めた尾田と―…
最後まで苦しめた一族に―…
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残酷な形で引き裂かれ、最愛の女性を失い復讐を誓った俊弥。
彼は百合子が助かったことをまだ知りません。
その後の彼の運命は更に茨の道となってゆきます。
2008/02/07