『大人の為のお題』より【優しい嘘】

 Love Step
HAPPY CURRY 〜甘いカレーの作り方〜 5

 **Side Tatsuya**
俺が待ち合わせのショッピングセンター到着したとき、聖良はまだ来ていなかった。
気持ちが急いて、いつの間にか大股から小走りになっていた為、随分早く着いてしまったらしい。
こんな姿を聖良に見られたらと思うと、なんとなく照れくさくて、彼女が来ていなくてむしろ良かったと胸を撫で下ろした。

それから待つこと5分。
電話の時点で既に家を出ていたにしては遅いと、少々心配になって携帯を取り出したとき、走ってくる聖良の姿を見つけた。
一瞬で今までの不安や迷いが消え、波立っていた心が穏やかに凪いでいく。
聖良の笑顔だけが、俺を心を鎮めることが出来ると感じる瞬間だ。

直ぐにでも抱きしめたい気持ちをグッとこらえ、『遅かったな』と平静を装うと、『龍也先輩がこんなに早いと思わなくて』と、心を見透かされたようなドキリとする答えが返ってきた。
情けなくもうろたえ、『…え… いや、はっ…早い事ないぞ』と全否定。どう考えても不自然だったと後悔したが後の祭りだった。
しかも慌ててフォローしようとして、声は擦れるわ、舌は噛むわ…俺としたことが何故かいつもの調子でポーカーフェイスができない。
俺の様子がおかしい事に気付いたのか、聖良は何か言いたそうに口を開きかけた。
本能でヤバイと察知し、追求される前に何とか話題を逸らさなくてはと考えを巡らせる。
聖良の髪が濡れていることに気が付き、咄嗟に話を振った。
一瞬、聖良の表情が揺れる。
その瞬間、俺は難を逃れたことを確信した。
聖良の嘘は分りやすい。何かを隠しているのは明らかだった。

そういえば電話をかけたとき、用事は済ませて駅前に向かって歩いていると言っていたが、それにしては、髪の乾き方が遅い気がする。
髪の状態と今日の気温を考えれば、シャワーを浴びたのは多分20分位前だろう。…ってことは、電話したときはまだ着替えたばかりか、それすらしていなかった可能性もあるって事だ。

…家にいたならどうして迎えを嫌がったりしたんだ?

「ちゃんと乾かさないと風邪引くだろう? 乾かす時間も無いくらいなら、回覧板なんて後にして、俺が迎えに来るのを待てば良かったのに…」

いつもの聖良らしくない行動に引っかかるものを感じて、つい口調が非難めいてしまった。
俺って小せぇ…。

「今日は温かいですから自然乾燥したかったんです。さあ、そんな事より買い物しちゃいましょう。ノンビリしてたらご飯が出来る前にお腹がすいて倒れちゃいますよ」

…明らかに話題を変えようとしているのはバレバレだ。
嘘や誤魔化しが苦手な聖良が、そう言ったものを瞬時に見抜く根性のひねくれた俺に太刀打ちできる訳が無いってのは、彼女自身が一番解かっているはずだ。
それなのに、こんなに必死で隠そうとするって事は、よほど俺に知られたくない悪い知らせか、あるいは優しい嘘かのどちらかだろう。
で、今の聖良の雰囲気からすると……後者…だな。

…ふーん。まあいいさ。
何を隠しているのか知らないが、帰ってからゆっくり白状させてやる。
元々今夜は聖良でたっぷり遊んでやろうと考えていたんだ。プランを一部変更すればいいだけのこと。
じっくり時間をかけて説明してもらおうか。もちろん、お詫びのキスは当初の予定の2倍増しでいただいてやるから覚悟してもらわなくちゃなぁ。

何を食べたいかと話題を振って何とか誤魔化そうとする聖良に、デザートには聖良が食べたいと今夜の予定をほのめかしてみる。
頬を染め膨れる予想通りのリアクションにニヤリと口角が上がった。

イタダキ♪

掠めるように唇を奪う。
その瞬間、脳をザラリと撫でられたような不快感が走った。

いまだかつて聖良の唇に触れてこんな不快な気持ちになった事は無い。
聖良の唇はいつだって限りなく甘くて俺を酔わせるはずだ。

それなのに何故?

聖良の甘い香りに、かすかに感じた香辛料…。
そのせいか?
何事も無かったかのように装っていたが、実はかなり動揺していた。

「……聖良…カレー食べた?」

明らかにドキッとした顔で反射的に口元を押さえる聖良。
あぁ、やっぱりそうか。

「何で? あ、さっき味見したから、もしかして香りが残って…っ!」

墓穴を掘ってアタフタする聖良。小動物のようで本当に可愛らしい。
気持ちの和む姿のそのおかげか、不快感も随分治まってきたようだ。眉間に寄った皺もいつしか消え、眉尻は下がっていた。
動揺が治まれば、聖良の言動から今日の事を冷静に分析することなんて簡単だ。
味見って事はカレーを作っていたんだろう。

「聖良んち、もしかしてカレーだった?」

「ぅ…うん。そう…デス。ママが急にどうしても食べたいって言い出して…」

「…ああ、それで迎えに行くって電話した時の態度がおかしかった訳だ」

「……ごめんなさい」

気まずい様子で視線を逸らす聖良。
もしかして、香りを飛ばす為にシャワーを?
迎えに来させないようにしたのも、カレーの香りで俺が気分を害さないようにと気を遣っての事か?

なんだかたまらない気持ちになった。

なんで聖良が謝るんだ?

悪いのは全部俺だろう?

臆病で自分の傷から逃げてきたツケが、こうして彼女を悲しませている。

聖良は俺の過去も、傷も、痛みも、全部一緒に受け止めようとしてくれているのに。

聖良の強さを見てみろ。俺はなんなんだ?

いつまで過去から逃げ続けるつもりだ?

このままじゃいけない。

呪縛に囚われていては前に進めない。

俺が変らなければ、何も変えられない。

乗り越えるんだ、聖良の為に…

いや、俺自身の為に…

夢はきっと予兆。

過去を乗り越えるときが来たのだと…

前へ進むべきときが来たのだと…

そう告げていたのかもしれない。





俺は聖良の腕を取り、従業員すら滅多に利用しない、人気の無い非常階段の踊り場までやってきた。
エレベーターホールからの死角を確認して、戸惑う聖良を壁に貼り付けて動きを封じる。

「あ…の…龍也先輩? えと、怒っているんですか?」

確かに怒っている。でもそれは聖良にじゃない。自分自身にだ。

「怒る? ああ怒ってるね。聖良が嘘なんてつくから」

これじゃ八つ当たりだろう? 聖良が悪いわけじゃない。俺は何を言っているんだ。

「別に嘘なんて…」

聖良の髪を一房取り、湿り気を確認する。聖良に対する罪悪感や、自分の弱さへの苛立ちが押し寄せてきた。
ギリッと唇を噛み締めて心を静めようとするが、上手く感情のコントロールができなった。

「さっき電話した時、本当はまだ家を出ていなかったんだろう? この髪の濡れ方を見ればシャワーを浴びた時間は察しがつく。俺が電話したとき、もう用事を済ませて歩いていたとは考えられないね。どうだ?」

「…う…それは…」

先程のカレーの香りが、俺の理性を狂わせてしまったのだろうか。暴走する感情を止める術はなく、俺自身への怒りのはずが、まるで聖良を責めているような口調になる。

「俺に嘘を吐くなよ。慌てて出てきて髪まで濡らしたままで…何、変な気を遣ってるんだよ」

違う! 気を遣わせているのは俺自身のせいだ。本当はこんな事を言いたいんじゃない。

「そんなつもりは無いけど、龍也先輩カレーの香りがしただけで、いつも眉を顰めて辛そうな顔をするでしょう? 最近の龍也先輩は笑顔のことが多くて、あたし嬉しいんです。だから、もう哀しい顔させたくなくて…」

こんな時でさえ、俺を責めない聖良。
これ以上謝まらせたくなくて、唇を重ねて自らを封じた。
口を開けばまた、聖良を悲しませてしまいそうだから、今は言葉より唇のほうが上手く感情を伝えてくれる気がした。

ゴメンな、聖良。
おまえは何も悪くないのに…
俺に現実を受け入れる勇気が無いばかりに、辛い思いをさせてしまった。
本当にゴメン。

カレーの香りが気になるのか、聖良は俺から離れようと身を捩る。
その仕草が、胸を占めていた漠然とした不安を煽っていく。
俺は聖良に救いを求めるように、更に深く口づけた。

母さんみたいに俺を置いていかないでくれ。
お願いだから、ずっと傍にいてくれ。

聞き分けの無い子どものような行動だと自覚していても、暴走した感情を止められなかった。
今は心を解放して思い切り我が侭を言ってみたかった。

聖良の濡れた髪からフワリと広がる花の香りが、記憶の奥底に眠る懐かしい香りと重なった…。


その瞬間、瞼の裏に母の鮮やかな笑顔が浮かび上がった。


苦しみから逃れたくて必死に忘れたはずの笑顔だった。

忘れてしまえば楽になれると思っていた。

本当に楽になったはずだったのに…。


『龍也は本当にそれでいいの?』


暁が念を押す声が頭の中で響いた。
何度もリプレイして、頭の中を巡っていく。
まるで催眠術にでもかかったように、頭の芯がぼんやりして、思考能力が奪われていく。
気が付けば、俺は暁の幻に語りかけしていた。


暁、俺は怖いんだ。
優しかった母さんの記憶を全て取り戻すのが。
苦しいんだ。
思い出したくなくて…
思い出すのが辛くて…
だけど…どこかえ思い出したいと願っていて…
どうしたら良いか判らなくて、心が引き裂かれそうなんだ。

母さんが俺を愛していた事も、俺を捨てた訳でもなかったと知ってから、母さんを憎み続けて生きてきた事を後悔している自分がいる。
父さんが死んだとき、どうして母さんを捜して知らせなかったのだろう。
憎むことで救われていたその影で、父さんをどれほど苦しめてきたのだろう。
もしかしたら、俺がもっと早く現実を受け入れていれば、父さんが生きているうちに母さんを救う機会もあったかもしれない。
真実を知った今、過去を振り返れば、未熟さゆえに人を傷つけ不幸にした自分の罪の重さに押しつぶされそうなんだ。


認めたくなかった本音。
知りたくなかった弱い自分。
それらと向き合い、自らにメスを入れることで、長年の膿を出し切ろうとするように、ずっと胸にしまいこんできた感情を吐露していた。


暁、俺は不安なんだ。
俺は聖良をいつか傷つけてしまうかもしれない。
苛立ちの矛先を聖良に向けてしまった今日のように、押しつぶされそうな罪の意識に負けて、その矛先をいつか彼女に向けてしまうんじゃないかと…
自分が怖いんだ。
俺は強くなんかない。
強く見せているだけで、本当の俺は自分を支えるだけで精一杯の弱い男だ。

こんな俺に、誰かを愛する資格はあるのか?

こんな俺が、聖良に愛されていいのか?



『いつか本当に龍也の心を癒せる運命の人に出逢うまで…』



暁の声と同時に、胸の中に温かな灯がともるような感覚が俺を包んだ。
まるで天使の羽に包まれたような柔らかな感覚にハッと我に返ると、そこには細い腕を精一杯伸ばし、俺を護る様に抱きしめる天使がいた。

心配そうに見つめる彼女の瞳に、俺はどのように映っていたのだろう。
いつの間にか随分強い力で抱きしめていたらしく、慌てて腕を緩め、階段に並んで腰を降ろした。
細い肩を引き寄せた時、俺の指先が震えていたのを、聖良は感じていたかもしれない。
だけど今は、それを恥ずかしいとは思わなかった。
聖良の支えが必要だった。
彼女の支えなしでは一瞬でも立っていられなかった。

聖良…俺に勇気をくれ。

過去の呪縛を断ち切る勇気を…。

俺の罪も、弱さも、全部受け入れる強さを…。

小さく深呼吸して息を整えると、思い切って唇を動かす。



「…俺はさ、カレーが食えない訳じゃないんだ」



ようやく搾り出した声は擦れて弱々しかった。




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