『大人の為のお題』より【また明日】

 Love Step
HAPPY CURRY 〜甘いカレーの作り方〜 6

 **Side Seira**
長いキスからあたしを解放した先輩は、階段に座ると肩を引き寄せた。

いつもより白い顔色にギクリとする。あたしを引き寄せた腕に、いつもの強引さはなく、むしろ泣いて縋ってくる子供のような頼りなさを感じた。
今の彼は、支えがないと話しさえできない気がして、腰に手を回すと、できるだけ体温が伝わるようにして寄り添った。
龍也先輩は深く呼吸をしてから、静かな声で話し始めた。

「…俺はさ、カレーが食えない訳じゃないんだ」

人気の無い階段に擦れた声が反響する。

胸が抉られるような、切ない声だった。

「俺が小学校に入学してすぐに、俺の母親は蒸発したって教えたよな」

言葉もなく、ただ黙って頷いた。言葉を挟むより、そうして受け止めてあげたかった。

「その日の朝、父さんは母さんに『今夜はカレーが食べたい』と言ったんだ。俺が昼前に帰宅すると、部屋はカレーの香りで一杯だったよ。テーブルの上には、俺と母さんの分の食器が用意してあった。ドアには鍵も掛かっていなかったし、ちょっと近所まで出かけているのだと思っていたんだ。だけど…」

龍也先輩はその情景を思い出すかのように目を細めた。
痛みに耐えるように、あたしの肩を抱く左手に力が入り、膝の上の右手が握り締められた。
唇が振るえて、次の言葉をなかなか発することが出来ずにいる表情が苦しくて、あたしは右手で彼の腰をさらに強く抱き、彼の拳の上に左手を重ねて無言で支えた。

「……母さんはその日も次の日も帰ってこなかった」

予想していたのに、龍也先輩の口から直に聞くその言葉は、体の奥深くから鮮血と共に吐き出されたような痛みが伴っていた。
痛々しさに思わず眼を伏せると、瞼の裏に幼い龍也先輩が痛みに耐える姿が浮かんだ。

その姿が、パパが逝った日の自分と重なった。

パパが亡くなった時、あたしには支えてくれる家族がいた。同じ痛みを分かち合い、ママやお兄ちゃんと支えあって苦しみに耐えることができた。
だけど、先輩は違った。
帰らないお母さんを想って、たった一人でアパートで待ち続け、どれだけ涙を流したんだろう。
きっと探してくれると信じていたのに、お父さんが捜索を諦めた時はきっと失望したと思う。もしかしたらお父さんを恨んだのかもしれない。
どんなに不安だっただろう。
どんなに寂しかっただろう。

「カレーは…俺にとってあの日の傷なんだよ。あの香りは、母に捨てられた事実を思い出させる。忘れた記憶が揺さぶられる不快感で神経が逆立つ。だからカレーが嫌いになった」

カレーなんて、町中どこにでも溢れていて、簡単に避けようとしても避けられるものじゃない。
学校では学食から、夕方になれば町のどこかから、必ずと言って良いほどあの香りが風に乗って流れてくる。
そのたびに痛んだ傷はどれほど痛かったか。
他人には理解できない苦しみを独りで抱え続けて、どれほど辛かっただろう。
ずっと傍にいたのに、どうしてもっと早く気付いてあげられなかったんだろう。

あたしは涙が止まらなかった。
気が付けば、先輩が優しく頬を拭ってくれている。
慰めなければいけないのはあたしなのに、彼はどうしてこんなに強いんだろう。

「…でも、俺は母さんに嫌われて捨てられたわけじゃない。それが解かったから、もう乗り越えたいんだ。 父さんも母さんもいたあの頃には戻れないけれど、あの日の幸せは確かに存在していて…俺は二人に本当に愛されて大切にされていた事も思い出した。だから、いつまでもこの傷を抱えているのは嫌なんだよ」

龍也先輩は、必死に自分のトラウマと戦っている。
お母さんの失踪の理由を知ってから、彼は過去を前向きに受け入れて歩き出している。
あたしはそんな彼を傍で見つめることしか出来ないけれど、せめて必要とされる時には手を差し伸べて、支えてあげたいと思う。

「あたしにできる事はありますか?」

「…傍にいてくれ。……ずっと…」

「いますよ。ずっと傍にいます。…先輩がどっか行けって言わない限り離れませんよ。安心してください」

「母さんがいなくなって、父さんも死んで…俺にはもう誰もいないと思っていた。母親にすら捨てられた俺を愛してくれる誰かが現れるとは考えられなかったし、女に惚れるなんて、自分に限ってないと思ってたよ」

先輩はあたしの額に自分の額をコツンとつけた。硬く握り締めていた拳を開き、重ねていたあたしの手に絡める。

「俺の心は冷え固まっていたんだな。生きながら死んでいたようなものだった。だけど聖良と出逢って俺は変った。また明日も学校へ行けば、お前の笑顔が見られるかもしれないと思うだけで心が温かくなった。お前と付き合いだしてからは世界には沢山の幸せがあるって気付いた。そして、お前と結ばれてからは…この世に自分の命より大切なものが在るって知った。聖良に出逢って、俺は本当に幸せになった。それまでの辛かった事も、苦しかった事も、全てはお前に出逢う為に必要だった試練なんじゃないかとさえ思えるようになったよ」

「…龍也先輩」

「両親がいて、何も不自由なく幸せに育っていたら、俺はこんなにも強く聖良を求める事は無かったと思う。ここまでお前を深く愛していたかと問われたら…自分でも自信が無いよ。聖良は怒りや哀しみで押しつぶされそうな俺の心を救い、癒してくれた。たった一年で、心の隙間を埋めてもまだ余りある幸せを与えてくれた。お前と歩く未来には光が溢れているのが分かるよ。聖良がいてくれれば、俺は過去を恐れることなく、未来だけ見て歩けるんだ」

言葉の一つ一つが、とても重かった。
もしも龍也先輩のご両親に不幸な出来事がなく、今も幸せに暮らしていたら…あたし達はどうなっていただろう。
幸せに育った龍也先輩に告白されても、今のあたしはあっただろうか。
そもそも、今の龍也先輩でなかったら、あたしを好きになっていなかったかもしれない。

そう思ったら、龍也先輩が苦難の多い道のりを乗り越えてきてくれた事に本当に感謝したいと思った。
そしてこれからは、今までの苦しみを忘れるくらい幸せにしてあげたいと心から思った。

「これからは…あたしが幸せにします。何があってもあなたの傍を離れない。ずっと支えて生きていくから…二度と苦しみや哀しみで心を閉ざさないで下さい。あなたにはいつだって笑っていて欲しいの」

「聖良が傍にいてくれれば大丈夫だ。どんなに深く抉られた傷も、刺すほどに冷たかった孤独な時間も、今の俺になる為に必要だったと思えるようになった。こんな風に強くなれたのも、優しくなれたのも、みんな聖良のおかげだ」

「それは違います。あたしのおかげじゃなくて、龍也先輩が外に目を向けるようになったから、今まで見えなかったものが受け入れられたんですよ」

言葉の意味を問うように、あたしを覗き込む龍也先輩。
これまで彼を呪縛してきたものを赦し、過去を断ち切った瞳には、もう迷いはない。漆黒の瞳には強い決意の光が宿っていた。
深い傷は徐々に塞がり、痛みはやがて消えるだろう。
そして彼はこれからもっと大きく成長する。
今こそ龍也先輩が自らの手で心を開放する時だと直感したあたしは、祈るような気持ちで続けた。

「龍也先輩の心の扉は長い間閉ざされて、少し錆びていたんです。だから心を開くと胸が痛んだり軋んだりしてしまう。きっと慣れるまでは痛む事もあるでしょう。でもそれも今だけですよ。あたしは最初に扉を開くお手伝いをしただけです。本当にその扉を開くのは龍也先輩、あなた自身です」

扉を閉ざしたのはあなた。
だから開き方も、あなたはちゃんと知っているはずよ。
さぁ、思い出して。
長い長い封印を解いて、心を開放して…

「……俺自身?」

「そうです。あたしがいたから心を開いたんじゃない。これまでも沢山の人が先輩の周りで見守って支えてくれていましたよね。亡くなった先輩のお父さん、ペンションの山崎さんご夫婦、後見人でもある暁先輩のお父さん。それから暁先輩に響先輩…。みんな龍也先輩を大切に思ってずっと支えてきてくれた、あなたにとってとても大切な人です」

「ああ…そうだな」

「ちゃんと受け入れていたでしょう? 最初から扉には鍵は掛かっていなかったんですよ。心を開く事が怖くて、龍也先輩が鍵を掛け封印したと思っていただけ。自分でその扉を大きく開けば、あなたには限りない世界が広がっているの。…そして、その扉はもう開こうとしている。これからは色んな事が見えてきますよ。あなたを愛し、支えてくれていた人が、こんなにも沢山いたんだって、気付くと思います」

「そんなに沢山いらないよ。聖良さえいれば…」

「それじゃダメなの。龍也先輩はもっと大きくなれる人なの。もっと広く世界を見て、もっと沢山の人を受け入れて欲しい。今まで苦しんできた分も、もっと沢山の幸せを手に入れるべきなの。あたしはいつも幸せに微笑んでいてくれるあなたをずっと隣りで見つめていきたい」

「聖良は強いな…。心を大きく広げて他人を受け入れる勇気なんて、俺には無いよ。拒絶するより受け入れる方が遥かに勇気が要る。俺は聖良や暁のように人を受け入れられない…」

「できますよ。相手を好きになればいいんです」

珍しく最初から出来ないと決め付けて掛かる龍也先輩。
生まれたての心は臆病で、まだ成長を恐れている。
あたしはありったけの愛しさを込めて、龍也先輩の心を優しく抱きしめるように語りかけた。

「あたしが小さい時、幼稚園の男の子に苛められて、よく泣いて帰ったんです。そしたらね、パパがあたしを抱き上げてこう教えてくれたの。
『嫌な事をされて嫌いになるのは簡単だよ。これからずっとその子を嫌いでいる事もできるだろう。一度嫌なところを見つけると、人はどんどん嫌な部分ばかり見つけてしまうものだからね。 だけど、嫌いな人の良いところを一つだけ見つけてごらん。きっとその子の見方が変わると思うよ』って」

「良いところを一つだけ見つける?」

「そうです。あたしは大嫌いな男の子の好きな所なんて絶対に見つけることが出来ないと思っていた。でもパパは『どんな悪い犯罪を犯してしまった人でも、生まれてきた時は真っ白な心だったんだよ。その人が変わってしまったのは、育った環境や哀しい出来事のせいで深く傷ついてしまったからだったりするんだ。誰にでも心の奥底には真っ白な部分が眠っているんだよ。だからどんな人にもいい所が必ずあるって信じて捜してごらん。きっと見つかるはずだよ』って」

「真っ白な心…。そんなものが俺の中にも残っているって? 俺の中は憎しみとか怒りでどす黒く染まっているさ。純粋な気持ちの欠片も残っていないよ」

「そんな事ありません。世の中には誰からも愛されない人も、必要とされない人も絶対にいない。どんな人にだって、必ずどこかに愛してくれている人がいる。それはその人の中に愛される価値があるからなんです。龍也先輩の中にはとても綺麗な心があります。だからあたしは先輩に惹かれるんです」

「どんな人にも愛してくれる人がいるって、それもお父さんが言ってたの? それで聖良はその男の子のことを好きになれた?」

「はい。誰だって愛している人が嫌われるのは哀しいでしょう? あたしねパパに『聖良がその子を嫌いになったら、その子のパパやママはきっととても哀しいよ。だから聖良もその子を嫌うより、好きになってあげて欲しいんだ』って言われたとき、解かったんです。誰かを嫌いになるってことは、その人を愛している人を傷つけることなんだって。それからは嫌な人がいたら、その人の良い部分を一つだけ見つけるようになりました。そしたらね、もっといい部分があるんだろうなって思えてくるんです。その人の見方が変わって、きっとその人なりの理由があったんだろうな…って嫌なことも赦せるようになるんです。実際、その男の子も本当はとても優しい子だったんですよ」

「…聖良のお人よしは、お父さん譲りなのかな…」

龍也先輩はそう言うとクスッと笑って、まるでタマゴを温めるようにふんわりと抱きしめてくれた。

「俺の母さんもそう言うタイプの人だったよ。世の中に悪いやつはいないと思っててさ、危なっかしくて子どもの俺がハラハラしながら母さんを叱るんだ。『しっかりしてよ母さん』ってさ」

「お母さんとあたし、似ていますか?」

「…そうだな、危なっかしくて、真っ直ぐで、おっちょこちょいで、泣き虫で…」

「やだ、いいところ無いじゃないですか」

「いいじゃないか、俺には無い純粋な部分が、凄くまぶしくて…羨ましいよ」

「龍也先輩は凄く純粋で真っ白の心を持っていますよ。今までは哀しい事が多すぎてそれを忘れていただけです。拒絶するより受け入れる方が辛い事が多い。龍也先輩の言うことは確かにそうかもしれないけれど、努力は必ず報われます。それは必ず自分の望んだ形でとは限らないけれど、それでも人生において無駄な事なんて無いんですよ。深く傷つく事も、挫折する事も、どんな些細な小さな出来事も、必ず未来の糧になるように用意されているんです」

あたしの言葉に龍也先輩は、ゆっくりと頷いた。

「人生には無駄な時間も、無駄な苦しみも無い。…そうだな。辛く苦しい過去もいつか自分の糧になる。それがあったからこそ今の俺がいて、だからこそ今、聖良と一緒にいられるんだ。そうだよな?」

「ええ。沢山の苦しみを乗り越えた今の龍也先輩だから、あたしはこんなにも愛しているの。一瞬でも心を離す事が出来ないほどに…」

「ありがとう、聖良。…お前が俺の存在を証明してくれるんだな。俺にはまだ愛される価値があると…。必要とされているんだと…」

ふんわりと抱いていた手に、ギュッと力が入る。
何かを求めているのか、それとも確かめたいのか…それまでとは比べ物にならない強い力で腕の中に閉じ込められた。

「…いつか…俺がもっと大人になったら…母さんに会いたいんだ。俺を産んでくれて感謝してる…って伝えたい。その時は…傍にいて欲しいんだ」

全身で決意を伝えてくる彼に応えたくて、精一杯の愛をこめて抱きしめ返した。

「ええ…傍にいます。いつかきっと伝えることができますよ」

布越しに伝わる鼓動。
触れるほどに近い息づかい。
誰よりも近く、互いを一つの魂と感じる瞬間(ときに)身を委ねる。

あなたしか見えない。

あなたの声しか聞こえない。

頭の中が真っ白になっていく。

ショッピングセンターのざわめきも、館内のアナウンスも、もう耳には届かなかった。


世界の音が消える。


そんな中で唯一、ハンドベルの音色のような涼やかな声だけは、心に直に響いてきた。


――いつの日か出逢う運命の男性(ひと)を癒す天使の力をあなたに――


それはパパが亡くなった日に病院の庭で出逢った天使の声だった。


あたしに祝福のキスと共に残された言葉。

当時幼かったあたしには意味なんて解からなかった。


けれど、今ならば解かる。


天使はあの日、彼と出逢う運命を告げる為に、あたしの前に現れたのだと…。




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『大人の為のお題』より【また明日】 お提配布元 : 女流管理人鏈接集


聖良と天使の出逢いについては『ETERNAL FRIENDS』の中で綴っています。天使が誰だったかも分ります。気になった方は是非この機会に…(*´∇`*)"
2010/12/18