「龍也先輩は凄く純粋で真っ白の心を持っていますよ。今までは哀しい事が多すぎてそれを忘れていただけです」
聖良の言葉が俺の中でわだかまっていたものをゆっくりと溶かしていく。
「人生において無駄な事なんて無いんですよ。深く傷つく事も、挫折する事も、どんな些細な小さな出来事も、必ず未来の糧になるように用意されているんです」
人生には無駄な時間も、無駄な苦しみも無い。辛く苦しい過去もいつか自分の糧になる。それが本当ならどれほど救われるだろう。
母を恨んだことも、その為に父が死の間際まで心を痛めた事実も、決して消えはしない。
だけど人生を真剣に生きることで、俺の罪がいつの日か赦されるのならば、どんな努力でもしたいと思った。
聖良が俺の存在を証明してくれる。
俺にはまだ愛される価値があると…。
嬉しくて、彼女が俺の心に触れたときのように、ふんわりと優しく抱きしめる。
こうして聖良を抱きしめられるのも、俺を産んでくれた母がいたからこそなのだと、自然な気持ちで母に感謝できた。
いつか、あんたにもう一度会う日がくるだろうか。
いつか、父の墓前に二人で立つ日がくるだろうか。
たとえ果てしなく遠い未来の夢であっても、一筋の光があるのなら、僅かな望みに懸けてみたいと思う。
そうすれば、いつの日か伝える事ができるのかもしれない。
ずっと恨んでいてごめん…と。
俺を産んでくれてありがとう…と。
その時だった。
胸の奥底が熱くなり、目の前が真っ白になった。
意識はあるが何も見えない。傍にいたはずの聖良の気配も感じられず不安に駆られたとき、決して忘れるはずのない、懐かしい声が聞こえてきた。
「行ってくるよ。さくら」
振り返ると、今は亡き父が笑顔で立っていた。
愛しい者を見つめるそのまなざしは、どこまでも優しい。
俺が『しまりのない顔』と暴言を吐いていた、なつかしい笑顔。そしてその視線の先にはずっと忘れていた母の笑顔があった。
…これは、夢か?
俺はまた昔の夢を見ているのか?
気が付けば、俺はあの頃の背丈になっていた。
「今夜はカレーが食べたいな」
「あ、さすが翔!一心同体だぁ。お昼にカレーを作るつもりだったのよ。龍也も今日はまだ給食は無いから早く帰ってくるし、朝から煮込んで美味しくしておくわね」
母の声はこんなにも優しかっただろうか。
父の声はこんなにも幸せそうだっただろうか。
「うわ、楽しみにしてる。さくらのカレーは世界一だからなぁ」
「クスクスッ…ヤダ、翔ったら、褒めすぎ」
「だって本当のことだもんな。さくらは料理が上手くなったよな。初めて逢ったときの事を思い出すとすげぇ進歩だぜ? なんせ米の研ぎ方も知らなかったもんなぁ」
「もう! またそんな事言って。意地悪っ! そんなこと言ったらお出かけのキスはしないから」
「うわわっ、ごめん。怒るなよ。今は一流シェフ並みだって言ってるんだよ。褒めてるんじゃないか」
「そ〜お?じゃあ許してあげる」
互いを抱き寄せて甘いキスを交わす二人。
そうだ、こんな夫婦だった。
毎朝遅刻寸前まで母を放さない父を、俺がお決まりの台詞で追い立てていたっけ。
「はいはい、7時20分だぞ。父さん今日も遅刻するつもりか?」
「おわっ、マジか? さくら、行ってくる。…愛してるよ」
「行ってらっしゃい。あたしも愛してるわ、翔」
チュッと名残惜しそうに最後に小さくキスをして慌てて出て行く父。
それを幸せ満面の笑顔で見送り、姿が見えなくなるまで手を振る母。
いつも俺が呆れるほど仲が良くて、本当に幸せだったんだ。
でも子供にストップを掛けられないと止められないって、どうだよ? なるほど俺が妙に口が達者で生意気なガキに育った訳だぜ。
父に続いて俺が出かけようとすると、母が後ろから羽交い絞めにしてきた。
グエと喉が詰まる感覚と共に、懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。
母は柔らかくて、温かくて、桜の花の匂いがした。
「いってらっしゃ〜い。龍也。車に気をつけるのよ。お昼はカレーだからねぇ。早く帰ってきてね? お母さんひとりでおうちにいるの寂しい〜っ」
嫌がる俺の頬に無理矢理キスをして満面の笑みで送り出す。
アパートを出て振り返ったとき、母は薄桃色の霞の中で手を振っていた。
誰もが心を奪われるであろう美しい光景に、思わず息を呑んだ。
この世の唯一の色と謳うように優美に舞う花。
音を吸収し深々と降り積もる、桜色の雪。
華やかで…
静かで…
とても厳(おごそ)かで…
神秘的な美しさの前に恐れにも似た感情がこみ上げて来る。
いつものボロアパートがまるで
聖域のように、近寄りがたく感じられた。
そこに佇む母は、桜の木の精霊のようにとても綺麗で、儚くて…今にも消えてしまいそうに見えた。
言いようのない恐怖に襲われ、母に駆け寄りたい衝動に駆られた。
だけどできなかった。
小学生にもなって、そんなことで不安になって母に甘えるなんて、恥ずかしいと思ってしまったんだ。
笑って手を振る母に駆け寄ることはできず、俺は逃げ出すように学校へと駆け出した。
そしてその日、母は本当に消えてしまった。
一旦蘇った記憶は、泉から溢れるように、俺の中を埋め尽くしていく。
忘れていた家族の幸せな日々がそこにあった。
小さな俺に子守唄を歌う母。
熱を出した俺を一晩中抱きしめてくれた母。
父に『俺と龍也のどっちが好きなんだ』と詰め寄られて苦笑してた母。
幼稚園の入園式も卒園式も、小学校の入学式も真っ赤に目を腫らして泣いていた母。
優しくて、笑い上戸で、泣き虫で、甘えん坊で、ドジで、子供の俺がいつもハラハラしながら見ていなきゃならないくらい無邪気な女性(ひと)。
母はそんな人だった。
暁が忘れさせてくれたとき、記憶が一つ一つ光の中に消えていった。
一つ光に呑み込まれる度に、心の痛みは消えた。
だが、代わりに風穴が空いたような、空虚な気持ちが残り、それはいつまでも消えなかった。
聖良と出逢い、愛することの喜びと、愛されることの幸せを知ってからも、心のどこかでいつも感じていた埋めきれない穴。
過去の全てを受け入れ、母の記憶を思い出した今だからこそ、その理由が解かる。
俺は求め続けていたんだ。
忘れたいけど、忘れたくなかった。
憎みたいけど、憎みたくなかった。
愛されなくても、愛して欲しかった。
だからこそ苦しかったんだ。
周囲が光を増し、真っ白な空間に次々と母の記憶が溢れる。
龍也…幸せに…
記憶を封印した時、母が最後に残した言葉が白い空間に光と共に満ちる。
その瞬間、言葉に込められた万感の想いが、ズシリと胸に伝わってきた。
俺は理解した。
俺の中から消え行く最後の瞬間まで、母は俺を愛し続けていた。
たとえ俺の記憶から消えても、ずっと胸の奥深くで愛された記憶は生き続けていた。
音がキラキラと輝いて、俺に降り積もってくる感覚が、とても温かかった。
心を開けば、見えなかったものが見える。聞こえなかった声が聞こえる。
自分から扉を開けば、俺には無限の可能性がある。
聖良の言葉が、ハッキリと俺の目の前に道を作っていくのを感じた。
母さん、俺は今、幸せだよ。
どんな苦しみも、痛みも、聖良は恐れずに受け止め、俺を正しく導いてくれる。
だから俺は自分を信じて歩いていけるんだ。
彼女を一生大切に護ってやりたい。誰よりも幸せにしてやりたいんだ。
その為に俺に何ができるか、ようやく解かった。
俺は、強くなるよ。
いつかきっと、聖良もあんたも、あの家から護れるだけの強い男になる。
俺、解かったんだ。
たとえ記憶は消えても、想いまでは消せないって。
今のあんたに俺や父さんの記憶が無くても、愛し合っていた記憶は胸の奥に必ず生きている。
俺が思い出させてやるよ。父さんのことも、幸せだった頃のことも。
そしていつか、あの家の呪縛から開放してやる。
なぁ、母さん
俺にそれができたら、あんたは喜んでくれるかな?
今のあんたには、廉って息子がいるけど…
俺って息子のことも、少しは誇りに思ってくれるかな?
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『大人の為のお題』より【聖域(サンクチュアリ)】 お提配布元 : 女流管理人鏈接集
『Love Step』を最初から通して読んでいる方は、あの家が春日家だということはお分かりですね。
この話だけ読んだ方は、ちょっと分らないかも…σ(^◇^;)
久しぶり過ぎて忘れたって方も、春日家と龍也、聖良の因縁については
「星に願いを」でチェック!
最後に出てきた廉君については、本館の『Little Kiss Magic』でチェック〜(*´∇`*)"
この話の時間軸は「星に願いを」から5ヵ月後『Little Kiss Magic3』から3ヶ月後です。
2010/12/20