『大人の為のお題』より【拒否反応】

** 星に願いを 2 **





目の前に広がるのはこの世のものとは思えない幻想的な風景だった。


空には宝石をちりばめたような満天の星が輝いている。

そしてその星にも負けないくらい美しく光る淡い光。

目のまえをフワリと危うげに飛んでいく姿は余りにも脆くて、すぐにでも消え去ってしまいそうなくらい儚いのに…。

その一瞬の淡い輝きは夜空の星さえも威圧する程に強く美しく、あたし達を圧倒した。


ペンションの裏手にある森の入り口の広場であたし達は言葉もなく、ただ互いの存在を確かめるように抱き合って満天の星空と、幻想的なホタルの舞う風景を見つめていた。



言葉が無くてもわかる。

龍也先輩が今どんな気持ちでいるか。



何故…?



どうして神様はこんなに哀しい悪戯をしたんだろう。



誰も悪くないのに…



愛し合っていたのに…



共に生きた時間はあんなに輝いていたのに…



こんなに哀しい恋物語があるだろうか…







+++   +++   +++



「彼女は龍也を捨てた訳でも蒸発した訳でも無い。」



一臣さんの声はとても静かだった。

その事がこれから彼が語ろうとしている事の重さと、哀しさを物語っていると本能で感じた。

その瞳はこの先を語ってもいいのかと龍也先輩に問い掛けている。

龍也先輩は決意を秘めた目で一臣さんを見つめ返し、黙って頷いた。



「彼女は…忘れてしまったんだよ。龍也。」



耳が痛いほどの静寂がその声を凶器に変え胸を抉ってきた。



「…おまえの事も翔の事も。家族で過ごした幸せな日々も全て。」



「……忘…れた?どう言う事だ?記憶喪失にでもなったっていうのか?」

「ああ…。いや、正確にはそうじゃない。」



正確には…その言葉に嫌な胸騒ぎを覚えたのはあたしだけじゃなかったようで、龍也先輩はギュッとあたしを抱きしめるように肩を抱き寄せた。
あたしも繋いだ手をしっかりと握り返す。


『真実を知った瞬間からおまえは運命を背負う事になるだろう。…二度と逃げられなくなる。』


一臣さんの先ほどの言葉が胸を過ぎり、不安を煽るように胸の鼓動高が鳴った。

次の言葉を待つ間のほんの数秒。


一臣さんがタバコの煙を吐き出し、灰皿へと擦り付け火を落す間のほんの僅かの時間。


だけど、この時間が本当に長く感じた。


「翔とさくらさんの出逢いは…交通事故だった。さくらさんが車に跳ねられたところに翔がたまたま居合わせて彼女を助けたんだ。」


何かを悟ったように苦しげに瞳を伏せた龍也先輩を見て、あたしも彼の考えを瞬時に理解した。

多分この先の言葉をあたしも龍也先輩も、予想してしまった。
そしてその余りにも哀しい結果が龍也先輩を打ちのめしている。

だから…尚更次の言葉でその事実を確認するのが怖かった。


「まさか…母さんは最初から…記憶を失っていた?」

一臣さんが言う前に、先輩がその言葉を口にした。

「そう。彼女は記憶を失ったまま翔と結婚した。自分が何処の誰かもわからない。だから、籍を入れて正式に結婚する事が出来なかった。
それでも二人は本当に愛し合っていたし、さくらさんは心から龍也を愛していた。」



ビクッと龍也先輩の身体が雷に打たれたように跳ねた。

『さくらさんは心から龍也を愛していた。』

瞳を閉じてじっとその言葉を噛締めるようにピクリとも動かない彼をただじっと支え続ける。

お母さんが自分を愛していた事実。

そのことに彼はどの位救われたんだろう。

触れ合う部分を伝って感じるいつもより早い鼓動が普段は冷静な彼の不安、喜び、戸惑い、その全てを凝縮した動揺を伝えてくる。

身体は緊張のためか震えていて、あたしを抱き寄せる手は無意識に力が入り痛いほどに指が食い込んでいだ。


「……じゃあ、急にいなくなったのは…。」

「彼女が記憶を取り戻して……お前たちとの生活の全てを忘れたからだ。」

予想していた事とは言えやはり言葉で耳にする事はその真実の哀しさに胸が潰れる思いだった。
龍也先輩の身体がビクッと小さく震えるのを感じる度にあたしは『傍にいるから』と伝えるように手を握った。

「父さんはどうして、母さんを無理にでも取り戻さなかった?記憶が無くても写真とかビデオとか俺達の思い出はたくさんあって、それを見たら思い出したかもしれないじゃないか!」

珍しく声を荒げる先輩を宥めるように抱きしめた。


「翔が龍也にさくらさんを失踪した事にしたのは、お前の存在を春日家から隠すためだ。」


――!春日家?


「彼女の本名は『春日 雪』巨大企業春日グループの総裁の娘だ。今は再婚して…いや、彼女にしたら初婚だな。翔との結婚は記憶が無いわけだし…。今は浅井 雪になっている。」


「う…そ…?」

声を出したのは龍也先輩ではなくあたしだった。

「聖良?」

龍也先輩があたしを顔を見て眉を潜めるのを見て、ハッと我に返り何でも無いと言う風に曖昧に微笑んで見せた。だけど…あたしの心臓は凄いスピードで走り出していた。

龍也先輩が春日グループ総裁の孫?

「…母さんは結婚しているのか?」

「さくらさん…いや、雪さんは春日家から浅井家に一族結婚の相手として白羽の矢が立っていた女性だったらしい。」

一臣さんの話によると翔さんがさくらさんを取り戻しに行った時に彼女の乳母と言う人と話をしたそうだ。
そしてわかった事実。


それは余りにも悲しい物語だった。




春日 雪さんは家のための結婚を控えていた。

巨大な鳥かごに閉じ込められ、全てを決められレールの上を歩くだけの何不自由のない人生。ただの一度も自分の自由にならない巨大な力の中で生きてきた彼女はたった一度だけ願った。

『生涯で唯一人の人と出会って恋をしたかった。それが叶わないなら、せめて結婚する前に一週間だけ家から離れ自由に生きたい。』

彼女の切実な思いに、乳母の女性は彼女が家を抜け出す手助けをした。


そして彼女は消息を断った。

春日グループの総力をあげ極秘に捜索をしたが雪さんを見つけ出す事は出来なかった。

いつも運転手つきの車での移動しかした事の無かった彼女が電車やバスを乗り継ぎ、春日家から数百キロも離れた土地へと来ていたなどとは誰も想像もできなかった事と、彼女が事故で記憶を失い翔さんと結婚していたことが、捜索をより困難にしていたらしい。

だけど、悲劇の日はやってきた。


龍也先輩や翔さんと生きた幸せな記憶と引き換えに彼女は再び記憶を取り戻した。

意識が戻って自分が見知らぬ町で、気が付けば10年近くも年を取っていた事に、雪さんはどれほど驚き不安を感じたかは想像がつく。
そして、乳母の女性を頼って実家に連絡を入れただろうと言う事も容易に想像がついた。

結果…彼女は春日家に戻る事になった。





「…つまり、母さんは俺達の事を忘れて自分から逃げた筈の家に帰ったのか?」

「そうだ。彼女は翔やおまえと過ごした日々を何一つ覚えていなかったからな。」

「父さんは記憶をなくした母さんと会ったのか?」

「ああ、彼女が春日グループ総裁の娘だとわかったのは、俺のオヤジが見つけた経済関係の雑誌で取り扱っていた、雪さんと浅井グループ後継者、浅井 克巳氏との婚約を報じる記事からだった。 俺の父は翔を息子の様にかわいがっていたからな、さくらさんの事も娘のように思ってたんだ。
その記事を見つけたときは流石に動揺していたよ。翔に事実を告げるべきかってね。」

一臣さんは2本目のタバコを加えて火をつけた。

ふうっと吐き出す煙がゆらゆらと漂って空気の膜を作っていく。

今聞いている話がすべて夢で、目が覚めたらいつもの通り龍也先輩の部屋にいると願いたいほどに、その話は余りにも事実として受け止めるには哀しすぎた。

ドラマでも小説でもない真実の哀しい恋物語。


あたしの頬にはいつの間にか幾筋も涙が伝っていた。
龍也先輩は一言も聞き漏らすまいとするように、表情を硬くして真実を受け止めようとしていた。

「オヤジは悩んだ挙句翔に彼女の事を告げた。翔はすぐに彼女を取り戻しに行ったよ。
だけど彼女は翔を覚えていなかったばかりか結婚式を明日に控えていたんだ。
翔は苦しんだよ。無理矢理連れ帰る事も考えたらしい。でも記憶の無い彼女を連れ帰って、いきなり龍也の母親だと言われても彼女は生活なんて出来なかっただろう。
彼女の記憶は…20才のまま止まっていたんだから。」

「……そんな…。二度と自分を思い出さないかもしれない母さんの事を父さんは死ぬ間際まで愛してたのか?」

「彼女がいつか記憶を取り戻してくれる事を心の奥底で祈っていたんだろうな。」

龍也先輩はとても苦しそうな顔をして唇を噛締めた。

「彼女の結婚した浅井 克巳氏はもともと雪さんの婚約者だった人だ。彼女が失踪して一度は他の女性と結婚したんだが、その女性は数年で病気で亡くなってしまった。
ちょうど周囲に再婚を勧められていた時期に、雪さんが春日家に帰ってきたこともあり、互いの意思と言うより浅井氏は会社と家のために再婚したようだ。」

「愛し合って結婚したわけじゃないって言うのか?…浅井家に子供は?」

「…先妻の息子がいるよ。年はお前の一つか二つ下くらいだ。確か…廉とか言ったな。」

「母さんの子供じゃないのか?」

「彼女はお前を産んだ時かなりの難産で…実はもう子供は望めない身体だ。彼女の血を引く者はお前だけなんだよ。」

「どうして、真実を俺に教えなかった?母さんが俺を覚えていないからか?」

龍也先輩の声をあたしはどこか遠くで聞いていた。

頭の中は今聞いた事実でいっぱいだった。

身体が真実に拒否反応を起すようにガタガタと震え始める。

あたしの誕生日に運命が動き出した理由(わけ)…。

これだったんだ。

あたしにはわかる。

翔さんがさくらさんの事を隠し続けた理由が…。



「お前だけが彼女の血を引く者なんだ。翔はそれを隠したかったんだよ。」

「…何のために?」

「…お前、泉原グループは知っているだろう?」

「ああ、そりゃ誰でも知っているだろう。浅井も春日もその系列のグループ会社だろう?」

「泉原グループの傘下には春日、浅井、水谷、瀬名と4つのグループがある。それを取りまとめているのが泉原だ。」

「……だから?」

「泉原と言えば世界をも動かす事が出来るとか言われている巨大企業だ。その一つの春日グループの後継者の一人にお前はなるんだぞ?」

「俺が?ははっ、そりゃないだろ?俺の存在だって知られていないのに。」


龍也先輩は笑っていたけれど、この時あたしは既に感じていた。


あたしたちの未来に巨大な壁が立ちはだかる事を。


運命がすでにその歯車を軋ませてゆっくりと回り始めている事を。







+++   +++   +++



「綺麗だな。星があんなに近いよ。」

龍也先輩の声にあたしは空を見上げた。
圧倒的な星の美しさと、あたしたちをほのかに照らす幻想的な蛍の光に目眩を起こし、足元がふらりと揺らいだ時龍也先輩があたしを抱き寄せてぎゅっとそのまま強く抱きしめた。

その腕が震えている気がするのは気のせいなんかじゃない。

お母さんの話を聞いて、龍也先輩の中で何かが変わろうとしているのは明らかだ。



「龍也先輩…ずっとこうして抱いていて。あたし…怖い。」

「聖良?どうした?」

「龍也先輩が遠い人になってしまうのが怖いの。」

「遠い人?何を馬鹿な事を…。」

「例えどんな事があってもあたしが先輩を護ります。だからずっと傍にいて。何処へも行かないで。」

「聖良…いったいどうした?当たり前だろ。絶対に聖良を離す訳無いじゃないか?」

龍也先輩の言葉に胸が熱くなってギュッと抱きしめた。

それに答えるように彼もあたしを抱きしめてくれる。

触れ合う部分から伝わる熱が不安を拭ってくれる様にと、強く強く抱きしめずにいられない。
決して離れぬようにと願いを込めて、互いを求めるように引き寄せ、どちらからともなく唇を寄せた。

優しく触れる唇に不安を拭うように何度も想いを寄せる。
徐々に深くなるキスに身体は反応し熱くなるのに、心の奥底の不安だけはどうしても拭いきれなかった。

お願い。神さま。

この人をあたしから取り上げないで下さい。

これ以上哀しい恋物語を増やさないで下さい。

お願い…あたしの全てを捧げるから…

彼の心がやっと得た穏やかな時を奪わないで下さい。



長い長いキスの後、龍也先輩はあたしの髪を剥きながら愛しいものを見つめる瞳であたしを捕らえた。

「聖良、ずっと傍にいてくれてありがとう。聖良がいてくれたから俺は真実を受け入れる事が出来た。母さんと父さんが本当に愛し合っていた事も、俺が愛されていた事も、嘘じゃなかった。」

瞳を伏せる事も逸らす事も抗う事も許さない、真っ直ぐな強い意志を秘めた瞳があたしを見つめる。

「…母さんが俺を愛してくれていた。父さんや俺の前から消えたのは本意ではなかった。…だからもういい。もう母さんを恨む必要も無い。どこかで幸せにしていてくれるならそれでいい。」

その瞳は星を散らした今夜の星空のように綺麗で、魂ごと吸い寄せられ囚われてしまいそうだった。

「母さんはもう戻らないけれど…俺には聖良がいてくれる。俺はとても幸せだから、母さんにも幸せであって欲しいと思えるんだ。」

ううん、あたしはとっくに囚われてしまっていたのだと思う。

彼がいなかったら生きてはいけないほどに。


「こんな風に思えるのは全部お前のおかげだよ聖良。お前さえいてくれれば俺はもう何もいらない。」

あなたのその瞳に映るあたしをこのまま時間ごと止めてしまいたい。


「愛しているよ、聖良。」


満天の星空と、舞い踊るホタル、そしてこんなにも穏やかで満ち足りたあなたの微笑みを、このまま永遠に留めておきたい。


龍也先輩の唇ががあたしを求めるように重なり全身を預けるように彼に腕を回しそれに応える。

あたしへの溢れんばかりの想いが伝わってきて、ギュッと胸が掴まれた様に熱くなった。


自然に涙が溢れてきたのは幸せだったからだと思いたい。


星に願いをかける


今夜のあなたの幸せが永遠でありますようにと。


星降るあなたの瞳に願いをかける


どうかあなたがずっとあたしを愛してくれますようにと。


今日のあなたの微笑みをあたしの記憶の奥底に大切に大切に閉じ込めて誰にも触れる事の出来ない領域に封印しよう。


たとえ、いつかあなたがあたしから離れて行っても


今日のあなたの微笑があたしを支えてくれるように。






時間も感覚もわからなくなるほど長く甘いキスにあたしの意識が溶け出した頃、ゆっくりと唇を離しながら龍也先輩は静かに言った。

「…明日、俺も行っても良い?聖良のお父さんの墓。」

「え?」

「聖良のお父さんに挨拶したい。聖良を必ず幸せにするから聖良を俺に下さいって。」

「龍也先輩…。」

「明日、帰ったらその足でお父さんに会いに行こう、な?」

そう言うと、彼は少し身体を折ってかがむと、体重をかけて唇を寄せてきた。

龍也先輩はあたしの事をとても大切にしてくれている。

触れる唇から、指先から彼の想いが溢れるほどに感じる事ができたから…

「…はい。」

あたしは静かに瞳を閉じて彼を受け入れた。


いつの間にかあなたの腕の中に収まる事が当たり前になっているあたしがいる。

ずっとこんな風に一緒に過ごしたいと願っている事が抱き合うお互いの肌を通して感じられる。


ゆっくりと彼の重みを感じながらあたしは彼に全てを委ねた。

彼の肩越しに見える満天の星と、無数に飛びかう淡い光に抱かれてあたし達は誓いを交わした。

夢のような幻想的な光景に溶け込んで意識が一つになっていくのがわかる。

触れ合う肌の温もりにあたしは運命を確信していた。

あたしはあなたに出逢う為に生まれてきた。

あなたを救うために生まれてきた。

必ず護ってみせる。

あなたを傷つける全てのものから…。




今夜の満天の星空に誓うわ。

必ずあなたを幸せにしてみせる。



「聖良愛してる。愛しているよ。」



擦れる龍也先輩の声に身体の奥底から痺れるような愛しさが込み上げてくる。

あたしは星を見上げ祈りを込めるとありったけの想いで彼を抱きしめた。



「好き…。大好き。あなたを愛しているわ。」



頬を伝った涙はホタルの光に照らされて砕けた星のように青白く輝き散っていった。




お願い、あたし達をそっとしておいて。




どうかささやかな幸せを奪わないで。




二度と哀しい恋の物語を繰り返させないで。










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