『大人の為のお題』より【熱愛】

 Love Step
HAPPY CURRY 〜甘いカレーの作り方〜 3

  **Side Tatsuya**
今日のバイト先は、聖良の家まで徒歩で20分ほどの距離だった。
先方の都合で30分バイトの時間が繰り上がった為、突然迎えに行って驚かせるつもりだったのだが、何となく胸が騒いで先に電話をかけた。
5回目のコールで優しいソプラノが俺の名を呼ぶと、ほんわりと心が和み、表情筋が緩んでいく。
にやけきった情けない自分を想像すると恥ずかしいが、意志の力でそれを制御するのは簡単ではなかった。

迎えに行くと言う俺に対し、どこか不自然な物言いをする聖良。何かあるとピンと来たが、その場は『ふうん』と流し、今夜はこれをネタに聖良をからかおうと、ほくそ笑む。
何を隠しているのか知らないが、可愛い口から『ごめんなさい』とお詫びのキスをたっぷりせしめてやろうと、今夜の楽しみに策を巡らせながら待ち合わせのショッピングセンターへと足を向けた。

週末は、いつも心が浮き立っている。
昨夜は金曜の夜だというのに聖良と会えなかった為、尚のこと気持ちが急いているようだ。
いつもなら聖良と甘い時間を過ごしているところだが、今回は中3の教え子たちが、受験に影響する大事な定期テストの前ということで、時間外のバイトを受けてしまった。おかげでクリスマス前に懐が温かくなってありがたいのだが、一日で三人の家を回るとなると、かなりのハードスケジュールだ。
聖良不足の身には精神的にかなり辛い。たった1日離れていただけで、こんなにも会いたくて仕方がないなんて、これから受験まで家庭教師にとっての繁忙期、自分がどうなってしまうのか考えただけで恐ろしい。

俺がこんな風になるなんて、暁や響は想像できなかっただろうな。俺だって聖良と出逢う前ならありえないと笑い飛ばしただろうから。
そういえば昨日、暁に『顔に熱愛中ですって書いてある』とか言われたな。
恋愛中の間違いだろう? と思ったが、なるほど、言い得て妙だ。
相手のことしか見えなくなるのが恋愛中なら、俺の場合、そんなのすっ飛ばして、この世に聖良しか存在してないってレベルだから、これじゃ確かに熱愛中だよな。
『幸せなのは結構だが、たまには男の友情にも付き合えよ』と笑った暁を思い出し、最後に三人で遊んでから半年以上経っていることにようやく気がついた。これでは確かに幸せボケだと思われても仕方ない。
聖良が飯を作りに来るようになってから、二人とも気を遣ってあまり遊びに来なくなったし、たまには遊びに来いと俺から声を誘ってやるべきか…。そういえば暁のヤツ、今年は俺のところで忘年会をしようとか、勝手に盛り上がってたっけ。それもいいかもしれないな。

…なんだか、今朝から何かにつけ暁を思い出している気がする。
これも夢の名残だろうか…。

『封印してあげるよ。お母さんの事』

幼い暁の声があの日の光景と共に脳裏に蘇る。

『…いつか本当に龍也の心を癒せる運命の人に出逢うまで…』

あれからずっと、最後に見た母の笑顔が脳裏から離れない。
10年以上も忘れていたのに、どうして突然夢にみたりしたんだろう。

何故、あの日の事を忘れていたんだろう。
何故、今になって急に思い出したんだろう。

失踪の真実を知ってから、母を恨む気持ちは無くなったし、今更会いたいとは思わないが、幸せであって欲しいと、穏やかに願うことすらできるようになった。
それなのに、何故、今になって忘れていた記憶が蘇ったのか…。

運命の人…。

暁はあの時、運命の人に出逢うまでと言った。
聖良と出逢ったから、俺の中に封印された感情が開放されたという事なのか?
本当は母に会いたいと…
もう一度母に愛されたいと…
もしかしたら、無意識にそう思っていて、その気持ちが開放されたのだとしたら…?
……だとしたら、俺は完全に心の傷を克服できたのか?

その時、住宅街の何処かからカレーの香りが漂ってきた。
ピクリと身体が拒否反応を起こし、無意識に眉間に皺が寄り足が止まる。

まだだ。
どれだけ長い月日を経ても、この香りは否応なしに古傷をえぐり俺を苦しめる。
母が悪いわけじゃない。
わかっているけど、突然母が消えた日の痛みを呼び起こすカレーだけは、まだ受け入れられない。
このトラウマを克服できない限り、母を憎む気持ちが消えても、永遠に俺はあの日を引きずったままだ。

夢は、彼女とならトラウマを乗り越えられるという暗示なのか。
…自分と向き合うべき時がきたということなんだろうか。

俺は聖良と出逢って、憎しみで染まった自分の弱さを知った。
聖良から、赦す事、愛する事を学んで、強さを得た。

だが…もしも彼女を失ったら、俺はこの現実を生きていけるのだろうか。
はたして正気でいられるだろうか。
考えただけで絶望的な恐怖が、胸の奥深くから黒い霧のように広がってくる。
孤独と不安に心を侵食されていく感覚は、孤独だった頃を思い出させた。

俺は何も変わっていない。
聖良と出逢う前も、出逢ってからも、ずっと自分を誤魔化したまま生きている。
心に鎧をまとい完璧に装い続けても、本当は自ら傷に触れ、膿を出す勇気もない。
いつか聖良が母のように突然消えてしまうのではないかという不安をいつも抱えて生きている。

解かっている。

聖良は消えてしまったりしない。

何があってもずっと傍にいると、聖良は約束してくれたのだから。

彼女を抱きしめれば、不安も胸騒ぎもきっと消える。


一秒でも早く聖良に会いたくて、漠然とした恐怖を拭うように大股で歩きだす。


絶対に…俺の傍からいなくなったりしない。


自らに言い聞かせるように繰り返し、待ち合わせの場所へと急いだ。




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