「今日で治療は終わりだから…」
いつものように診療台に座ると響先生はぶっきらぼうに言った。
なんだかいつもより機嫌が悪いみたい。
終わり…。やっと治療から解放されるんだ。……でも…
「よかったな」
そう言われて何だかヘンな気分になる。
何だろうこの気持ち。淋しいなんておかしいじゃない。
やっとこのヘンタイ横暴医者からも解放されるのよ?
何を考えてるの。もう会えないのかな…なんて。
それじゃまるであたしが響先生を好きみたいじゃない。
……え…
す…き…?
やだ、まさかね?ちょっと先生の髪の色や瞳の色が初恋の人に似ているからってそれはないよ。
ちょっとした勘違い。そう、初恋の男性にほんの少し面影が似ているから…。
幼い頃に一度だけ会った、金髪の背の高い男の人。
声をかけたあたしに驚いたように振り返ったその人の瞳は、とても不思議な色をしていた。
漆黒の夜の闇を映したような黒い右の瞳、そして雪の降る凍りついた空を思わせる灰色の左の瞳。
オッドアイってあの時初めて見たけれどとても綺麗なその瞳にあたしは引き寄せられる様に目を奪われた。
男の人を綺麗だと思ったのはこのときが後にも先にも初めてだった。
あたしに微笑みかけてくれたその人は、とても綺麗だった様な気がする。
今となっては余りにも幼い記憶で顔さえも覚えていないけれど、彼の美しいオッドアイは今でも忘れられない。
左右に違う瞳の色。
夕日を逆光に受け輝かんばかりの黄金を放っていた髪の色。
彼はどこの国の人だったんだろう。
彼はとても遠い目をして何を思っていたんだろう…。
あの日の光景が今もあたしの胸を切なくさせる。
瞼の裏に鮮やかに蘇るのは思い出の中の夕日を背に受け、綺麗な瞳を細めて眩しげに微笑みかける長身の男性。
彼は今、どうしているんだろう。
ぼうっと思い出に浸りながら遠い目をしていたあたしのおでこに、突然ふわっと何かが触れた。
「え?何…」
目の前に響先生のドアップが迫っている。
「……っ、ぅぁああきゃぁっ!」
あたしの声に驚いたのか響先生は耳を抑えて一歩下がって眉をしかめる。
「おまえ、耳がいてぇだろうが。んなでっかい声出すなよ」
「先生がそんなに至近距離であたしを見たりしているからでしょう。ビックリするじゃないですか」
「千茉莉がボ〜ッとしていたからだよ。熱でもあるのかと思って」
そう言ってあたしの前髪をかき上げると、おでこをくっつけて熱を測ろうとする。
さっきおでこの触れた感じがあったのはこのせいだったのね。
先生の綺麗な顔が近付いてきてコツンとおでことおでこがぶつかった。
おでこに温かい体温が伝わってくる。
ドキ……
「熱があるんじゃ治療は止めておいた方がいいからな。ン…ちょっと熱いかな。風邪気味か?」
そう言ってあたしの顔を覗き込む響先生。
心臓がフルスピードで走り出す。この至近距離だと聞こえちゃうんじゃない?
「風邪はひいてないよ。ただちょっと…疲れ気味かな。今度の大会のことで悩んでいて眠れなくて…」
「眠れないって、何を悩んでいるんだ?」
「大会で作るお菓子のこと…あたしらしいお菓子ってまだわからなくて。この間もホテルへ行って勉強してきたけど今ひとつ自分の中でこれって思えるものに出会えないの。考えていたら夜も眠れなくって…」
「ホテルってあの日か。千茉莉…おまえこの間のヤツまだ、ファーストキスだと思って怒ってるのか?」
ただでさえこんな至近距離で顔をつき合わせて話しているのに響先生は突然忘れていたことを口にした。
益々心臓が早鐘を打ってしまう。
「え…あ、ぃゃ…もう怒ってないです…」
この距離でこの間の頬へのキスのことを思い出させないでほしい。
あの後散々空に愚痴ったあたしは、逆に空に説教されてしまった。
『あんな美形の先生とお知り合いで、キスまでしてもらって文句言うなんてどう言う事よ?大体ホッペのキスなんて子どもだってするでしょう?あんなのファーストキスだなんて言われたら先生だって困るわよ。小学生より悪いじゃない。もっと大人になりなさいよ。』
ですって…
はあっ…空の美形好きには本当に困ったものだわ。
それでも、彼女の言う事も確かかもしれないと思った。
響先生くらいの大人なら頬にキスなんて特別な感情がなくてもできるんだと思う。
…でも、しょうがないじゃん。あたしはまだ、お子ちゃまなんだから…。
そんなに簡単に割り切れなかったんだもん。
でもね、冷静になってみたら思ったの。温かくて優しくて柔らかいキスだったなって。
あの時はパニクったけれど、後で考えると決して嫌じゃなかった。
「もう怒ってないなら本当のキスを教えてやろうか?今日が最後だからな」
ドッキーン!なっ…何を言い出すのよ。
「突然何て事申し出てくれるのよ。冗談もいい加減にして。とっとと治療を始めておしまいにして下さい」
意地を張って強い口調で拒絶するけれど、本当は胸が痛くて今にも発作を起こすんじゃないかと思っていた。
「そう?俺のキスは高いんだけどな…おまえ後悔するぞ。素直に目を瞑れば?」
「…いや、しませんって」
そうは言ってみたけれど、本当はうん、って頷いて瞳を閉じそうになった自分がいた事に衝撃を受けていた。
なんで…あたし素直にキスを受け入れてもいいなんて思ったんだろう。
バカ…何を流されているの?しっかりしなさいよ。
きっとおでこを付き合わせたこの状態でこんな話をしているのがいけないのよ。
だって…ありえないよ。12才も年上の響先生に本気になってもらえるはずなんて無いのに…って、何考えてるの?
別に本気になんてなってもらわなくてもいいじゃないの。特別な感情があるわけじゃあるまいし…。
そうよ…特別な感情なんて……。
「千茉莉…おまえさ…」
唇が触れそうな距離で先生のテノールが響く。唇にその振動と息づかいが僅かに伝わってきて思わず引き寄せられるように瞳を閉じた。
唇に熱い息がかかる……。
ファーストキスは好きな人とって思っていたのに……。
―――バンッ!!
ドアが壊れるほどの勢いで開き、けたたましい大音量でバタバタと誰かが診療室へ入ってきた。
「響、女の子を治療しているって本当なの?」
思わず身体を離しドアを見つめると、そこには20代半ばと見受けられる派手な女性が立っていた。
顔立ちは綺麗ではあるけれど、とてもプライドが高そうできつい目をした女性が、見るからにブランドと分かる品々で飾りたてている。
彼女は高そうな香水の香りをさせながらツカツカとあたしたちの方に近寄ってきて、ちらりとあたしを一瞥すると響先生に向き直りしなだれるように先生に抱きついた。
「響、ひどいわぁ。私の治療は断ったくせにぃ。婚約者をわざと突き放すなんて酷いじゃない。女は診ないって言っておいて、こんな娘を治療しているなんて…。許せないわ」
響先生は不機嫌が服を着ているような顔になって女の人を引き剥がそうとしているけれど、彼女も益々身体を擦り付けるようにして先生に迫っていく。
あまりの光景にこの場にいてはいけないような気分になって、診療台を降りるととりあえず今日は帰って出直そうと心に決める。
さっきまでのキス一歩手前でドキドキだった心臓も今は冷水を浴びせられたかのように冷たく冷静に戻っていた。
婚約者?そんな人がいたのにあたしにキスをしようとしたの?
こんな人とキスしてしまうところだったなんて…あたし、バカみたい。
「あたし出直してきます。どうぞごゆっくり。センセ」
あたしは響先生に向かって冷たく言うとドアへ向かって歩き出した……つもりだった。
ぱぁん!
ガシャーーン!
いきなり右の頬が熱くなり視界が揺らいだ。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
視界に入ってきた散らばる治療用の器具を見て、初めて目の前が床で自分が倒れこんでいる事と、倒れた際にそれらを散乱させてしまったらしい事に気付く。
でもその時は、まだぼうっとして何故自分が倒れたのかは理解できていなかった。
「千茉莉!…くっ、真由美おまえ何をっ……」
先生が声を荒げるのが聞こえる。
あぁ、あたしもしかして殴られたの?
ようやく自分に何が起こったのか少しずつわかり始めると、今度は「なぜ?」という気持ちがふつふつと湧き上がってくる。
「響が悪いのよ。私を治療してって言ったのに断ってこんな娘を相手にしてるから。私は本気であなたを好きなのよ。何で私はダメでこの娘はいいのよ。お父さまに言いつけてやるから」
真由美と呼ばれた女性はあたしを凄い目つきで睨んだ。
「いい、お嬢さん。響に惚れてもダメよ、彼には私という婚約者がいるんだから。彼に近寄る女は私が許さない。私が響と結婚するのよ」
「真由美、いい加減にしろ!婚約なんてしていないだろう?見合いの話だって断ったはずだ。いつまでも付きまとうのは止めてくれ」
「……っ!…ひどいわ。私と結婚しないとあなたが…この医院が困る事になるのよ。分かっているんでしょう?あなたには拒否権なんて無いのよ。あなたは私と結婚しなくちゃいけないのよ。」
「おまえと結婚するつもりはない。医院が欲しいのなら勝手にしろとおまえの親父に伝えろ。親同士が決めた結婚なんてするつもりはないし、真由美。おまえみたいな女とだけは俺は結婚したくないんだよ」
「酷い!何でよ?私にはお金もあるし、この医院だって買い取ってあげられるのに」
「それはおまえに金があるんじゃなくておまえの父親に金があるんだろう?親の脛をかじっているくせに、大きな事を言うんじゃねぇよ」
「そんな…私と結婚すればこの医院だって手放さなくてもいいんでしょう?あなたにとっては好条件のはずだわ」
「俺は、心を売ってまでこの医院を存続させたいとは思わないんだよ。その手を離せよ」
冷たい瞳で真由美さんを見つめる響先生の声は、感情というものが欠落しているように冷たくて、あたしは今まで17年間生きてきてこんなに冷たい声は聞いたことがなかった。
冷たくて…とても悲しい声だった。響先生は心に何かとても悲しい思いを秘めているんだって感じた。
その時あたしは直感した。
どうしてかはわからないけれど、響先生の心を救ってあげなくちゃいけないと思ったの。
「いい加減にしろ。俺に触れるな!」
彼の叫ぶ声に胸が切り裂かれるような痛みを感じる。
このままだと…響先生の心、壊れてしまう。悲しみに押しつぶされてしまう。
だめだよ真由美さん。追い詰めないで…。響先生を追い詰めちゃダメ…。
「だめぇぇぇっ!」
あたしは無意識に真由美さんを押しのけると、響先生の前に両手を広げて護るように立っていた。
殴られた頬はズキズキと痛み倒れた時にぶつけたらしい頭が今になって痛みを帯びてきた。
でも、そんなこと言っていられない。あたしは大きく息を吸い込んで真由美さんを睨むと、凛とした大きな声で言い放った。
「響先生を追い詰めないで。先生が壊れちゃう」
「あなたには関係ないでしょう?どきなさいよ」
「イヤよ。あなたは気付いていない。先生を好きだって言っておきながら先生の心が冷たく固まっていく事に気付いていない。そんなわがままなあなたが結婚して、響先生を幸せに出来るなんて、あたしには思えません」
「千茉莉…おまえ…」
響先生の戸惑った声が背後から聞こえてくる。怒りに顔を真っ赤に染めた真由美さんが腕を上げ、あたしの頬をめがけて振り下ろした。
―――くる!
殴られる覚悟でギュッと目を瞑り、その衝撃に耐える準備をする。
でも、その衝撃は10秒経っても15秒経ってもやってこなかった。
恐々と、ゆっくり瞳を開けると、響先生が真由美さんの腕をつかんで睨んでいた。
「千茉莉に手を出すな。こいつに今度手を出したら、真由美おまえを許さない」
「―――!そんな・・・。そんな娘が好きなの?私よりも?」
「当たり前だ。彼女は俺を救ってくれた天使だからな。おまえが到底敵うはずがないんだよ」
…え?響先生…何を言ってるの?
「…くっ!覚えておきなさいよ。絶対に認めないんだから。必ず私を認めさせて見せるわ」
そう言って真由美さんは来た時と同じように壊れそうな勢いでドアを閉めて出て行った。
凄い剣幕に、正直足は震えていた。さっきは夢中で響先生を庇ったけど、本当は凄くこわくて…震えは止まらなかった。
不思議だった。こんなに震えてまで、どうして響先生を助けなくちゃって思ったんだろう。
何故かはわからないけれど…でも、あたし響先生を護ってあげられたのかな?
「先生…大丈夫だった?」
「あ…あぁ、千茉莉は…痛かったよな。ごめん変なことに巻き込んで」
「ううん、大丈夫。それより今日はもう、治療はムリだね?」
「ああ、千茉莉のその傷も診ないとな。おいで」
響先生があたしを抱き上げて診療台に乗せてくれた。そっと頬に手を当てて腫れた部分を確認する。
「口の中は切らなかったみたいだな?少し冷やせば腫れはすぐに引くと思う。後で送ってやるから少しここで休んでいくといい。今、氷を持ってくるから待ってろ」
響先生はそう言い残すと診療室を出て行った。
部屋の外からざわざわと数人のスタッフがのぞきこんで様子を窺っている。あれだけの騒ぎで誰も中に入ってこなかったのも不思議だけれど、こんなに散らかってしまった部屋を覗き込んでも、まだ、スタッフが誰も片付けに来ない事にも違和感を覚える。
どうやらこの部屋はVIPルームみたいなものらしい。許可がないと誰も入れないようになっているようだ。
そう言えばいつも不思議だった。
あたしはいつも、一番奥のこの個室の診療室で治療を受ける。でも、他の患者さんはみんな手前のワンフロア―にパテ―ションで区切ってあるだけのスペースで治療を受けている。
この場所は響先生の治療を受ける人専用の診療室なのかもしれない。
ぼうっとそんなことを考えているうちに響先生が戻ってきて氷を頬に当てて冷やしてくれた。火照った頬に冷たさが心地いい。
思わず瞳を閉じて溜息を付くと、響先生の心配そうなテノールがすぐ傍で響いた。
「大丈夫か?何処か他に痛むところはないか?」
今日は何故そんなに至近距離で話すのでしょうか?
目を開けると響先生の顔がすぐ傍にあって、真由美さんの入ってくる前の状況を再現しているような形になっていた。
ドキドキしながらも、さっきから心に引っ掛かっている事を聞いてみる。
「先生…どうしてあたしはいつもここで治療を受けるの?他の人は向うのフロアーで治療を受けるでしょう?あたしだけここにいるから真由美さんが勘違いしたんじゃないの」
「…いや。それは違うと思う。千茉莉は俺にとって特別だから…彼女はそれを感じたんだよ」
「特別って…。さっきのあたしが先生を救ったとか言うあれの事?あたし先生に何かしたことあったっけ?それに…」
「…ん?」
「…天使って何のこと?…前にもそんなこと言っていた事があったよね?どう言う意味なの?」
響先生は暫く考え込むように黙り込んだけれど、ふっと笑って『そのうち教えてやる』と言ってあたしの頭をワシャワシャとかき回す。
その瞳が、口調が、仕草が…とても優しくて…。
胸がドキドキして…きゅんって締め付けられるように切なくなった。
「そのうちっていつ?」
「…そうだな。最後の治療が終わった時かな?」
「最後の治療が終わったら…もう会えなくなるから?」
「千茉莉は…俺に会えなくなったら淋しいとか思ったりするのか?」
「…っ、そんなこと思うわけ…」
「俺は、おまえが来なくなったら淋しいような気がする」
突然の言葉に何も言えなくなった。頬にあたる氷が熱で溶けているのは打たれた頬が熱いから?
それとも先生の言葉に頬がもっと熱を帯びてしまったから?
「千茉莉、本当のキス教えてやるよ」
響先生がそっとあたしの額に唇を寄せる。
「ゴメンな…こわかったんだろう?震えていたよな。…千茉莉がああして俺を抑えてくれなかったら、俺、真由美を殴っていたかもしれない」
額に触れた唇は閉じた瞼に…頬にと少しずつキスの雨を降らせて移動していく。
唇の触れた先から甘い甘い感覚が広がってあたしを安心させるように包んでいく。
なんだろうこの感覚・・・。温かくて、優しくて、心が満たされるような甘い感じ…。
「ありがとう…千茉莉。おまえはいつだって俺の心が限界になりそうな時に現れて助けてくれる」
「…響先生?」
先生の唇があたしの唇の端に触れる。直接唇には触れない程度に近い唇の端に…。
直接触れたわけでもない唇からまるで唇を重ねたような熱い熱を感じる。
「千茉莉はファーストキス…まだだもんな。ここは一番好きな人の為に取っておいたほうがいいな」
そう言って響先生は想いを残すように一度目を伏せると、スッとあたしから離れていった。
「もう少しここで休んでいろ。いいな。次の予約が最後だから…終わったら送っていく」
そう言って自分の着ていた白衣をそっとあたしにかけてから、診療台を倒し、横になれる様に気遣ってくれた。
そんな優しさが切なくて…。先生の本当の姿に触れたような気がした。
ヘンタイ横暴医者は撤回するよ先生。全然横暴なんかじゃない。メチャクチャ優しいじゃない。
自分の中にある何かが目覚めていくようだった。
今までに見てきた先生の表情一つ一つが浮んでは消えていく。
先生の香りのする白衣をキュッと握り締めて、自分の奥底にある気持ちを引き上げるように探って引き寄せる。
もう、この気持ちを隠す事も、目をそらす事もできそうになかった。
認めなくちゃいけない。
この気持ちを言葉にするならば…きっと一つしかないはずだ…。
すき…。
響先生が好き…。
あたし…先生に恋してしまったんだ…。
+++ 10月25日 Fin +++
10月31日 /
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