Sweet  Dentist 11月 1日(火曜日)




はあぁぁぁぁぁ…。


朝から溜息が止まらない。

今日は千茉莉が最後の治療に来る日だ。

今になってわかる事だが昨日までは千茉莉に会うのが密かに楽しみだった自分がいた。

千茉莉をからかって軽い会話のやり取りをするのが楽しかった。

だからまた、千茉莉に会いたいと思ったし、心のどこかで診療日を楽しみにしていたんだ。

自分の中に彼女に対する恋愛感情が芽生えていたなんて思いもしなかった。

それなのに今日の俺の動揺ぶりはどうだ?

昨日までの何処かワクワクするような気持ちが恋だとわかったと同時に失恋してしまった俺はどんな顔をして千茉莉に会えばいいのかわからなかった。


昨日千茉莉が告白をされたシーンが頭から離れない。


同級生らしい男に抱きしめられキスをする千茉莉。
抵抗する様子もなかったが、千茉莉の頬を濡らした涙の意味に俺は何かを感じずにはいられなかった。

千茉莉…おまえは本当にあの男が好きなのか?


おまえの涙の意味が知りたい。


キスの後何故あんなに悲しげな瞳をしていたのか教えてくれ。




おまえの心からの笑顔を見る事もできずに今日がおまえとの最後になるんだろうか。





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今日は響先生との最後の日。

いつもみたいに軽口で笑ってさよならを言うんだ。

それから…ありがとうって…ちゃんと素直に言うんだ。

一度くらい先生の前で素直になってもいいよね。今日が最後なんだから。





最後の治療を終えて、響先生はマスクを取るとニコッと笑って言った。

「今日が本当に最後だな。歯医者嫌いの千茉莉が良く頑張ったな」

「ハイ、ありがとうございました」

本当にこれが最後なんだよね。先生…。

「おっ、珍しく素直じゃないか。最後くらい憎らしい口を聞かないで素直な患者でいてくれるのもいいな」

「なにそれ?あたしはいつだって素直ですよ」

いつものように拗ねたような顔をしてみせる。そう言えば先生の前では拗ねるか怒るかばかししていたように思う。

「まぁ…そう言う事にしておいてやるよ。俺の治療はどうだった?痛くなかったか」

クシャリ…先生はやさしく笑ってあたしの子どもを褒めるみたいにあたしの髪をかき回した。
その仕草になんだか愛情を注がれているような気がして胸が締め付けられる。

「全然痛く無かったよ。初めての時なんてびっくりしたもん」

初めての日…先生にいきなり抱き上げられて、超ドアップで「治療させてくれないんだったらこのまま襲うけど?」といわれて真っ赤になったことを思い出す。
あの時は、何て酷い医者だと思ったけれど…いつの間にかこんなにもあたしの中に住み付いてしまった。

「千茉莉は初日にいきなり眠り込んだもんな」

「あれはっ、緊張しすぎて前の夜眠れなかったから」

「クスッ…分かってるよ。千茉莉は歯医者の何が嫌いなんだ?」

覗き込むようにあたしを見つめ問いかけてくる先生から視線が離せない。
催眠術にでもかかったように、その瞳に囚われてしまう。
お願い…もう、あたしを見つめないで。これ以上先生を好きになったら困るから。

「…痛いところ。それから削る時のあの音…」

必死声が震えるのを抑えてそれだけを言うのがやっとだった。

「ふうん。俺に出会えてラッキーだった訳だ。俺は女は診ないからな。千茉莉は特別対応だったんだぞ」

「それってあたしを女性としてみてないからとか言うんじゃないでしょうね」

わざとむっとした顔をして怒ったような仕草をしてみせる。これが今のあたしにできる精一杯。

「そんなことねぇよ。その乳臭さが取れればデートしてやるよ」からかうような先生の声。


ズキン…


やっぱりそうだよね。12才も年が離れていたらあたしなんて本当にガキんちょだもん。恋愛対象になんて一生かかってもなれないのかもしれない。

それでもそんな心の中を見透かされる訳にはいかないから、あたしの精一杯の意地でいつもみたいに怒ってみせる。…そう、絶対に泣いたりしないんだから……。

「何ですってぇ。こんなかわいい女子高生を掴まえてなんて事言うのよ」

「おまえ…かわいいって意味知ってんのか?」

「…ケンカ売ってんの?」

「いや。率直な感想と疑問を述べたまでだ」

必死にいつもの調子で合わせてみるけれど、胸が痛くて涙が溢れてしまいそうだった。
苦しくてこみ上げてくるものを見られない様に、拗ねたふりをして顔を背けそっぽを向く。

だめ…涙なんて見せたら変に思われるじゃない。

「もぉ、本当にむかつくんだから。…でもなんで、女性は診ないの?」

あたしの問いに先生は心底うんざりしたように眉間に皺を寄せて吐き捨てるように言った。

「うざいんだよ。治療した後に誘われたり、顔目当てで俺を指名したり…俺はホストじゃねぇんだ。俺の容姿ばかりが目的で腕を認めないような患者は俺は診たくないんだ」

響先生の声に心が鷲掴みにされるような心の痛みを感じた。

響先生は傷ついているんだ。顔が綺麗だという事で自分を認めてもらえない事に…。

でも、あたしにはまだ、他にも何か深い傷があるんじゃないかと心を揺さぶる何かを感じていた。

先生の傷を探り癒すべくあたしは心の手を差し出す。

先生、お願い…。心の傷をみせて。あたしが癒してあげるから…。

あなたには優しく笑っていて欲しいの。意地悪で口が悪くて冷たく見えるけれど本当はとっても優しい人だって知っているから。

あたしはふわりと微笑むと先生の首に抱きついた。

「ううん、響先生は本当に腕がいいと思う。痛みに弱いあたしでも大丈夫だった。あたしは先生がホストだなんて思わない。あたしが認めてるんだからピカイチだよ先生の腕。認定書でも鑑定書でもつけてあげる」

あたしの言葉に驚いたように目を見開いて、とても綺麗な心からの笑顔で笑って、応えるようにあたしを抱きしめてくれた。

私だけに向けられた最高の笑顔。このときの響先生の笑顔をあたしはきっと永遠に忘れない。

「千茉莉…ありがとう。おまえは本当にイイコだよ」

イイコ…その言葉に胸が痛くなりながらも先生の声に安らぎを感じて少しは癒してあげられたのだと嬉しくなる。

こんなあたしでも最後に少しは先生のために何かできたんだね。

抱きしめられた腕の中が温かくてこの人を救いたいと心から思った。


「苦しまないで…大丈夫あたしが付いているから。先生の心をきっとあたしが救ってあげるから」


――― あなたが好きです。響先生 この想いを言葉に出きたら、この胸の裂ける様な痛みは楽になれるのかな…。






何故女性を診ないのか…その千茉莉の問いに胸の奥に仕舞い込んだ不快感がせり上がって来る。胸の奥が冷たく凍りつくような孤独感。胸が悪くなるような苛立ち。
女たちが俺に媚びるように擦り寄ってくる時の感覚が蘇り心が拒絶反応を起こす。

俺を認めてくれ…顔なんかじゃなく俺自身を見てくれ。心が真っ暗な深部から助けを求め両手を伸ばしているのがわかる。

だれも…俺を本当に理解してくれる女なんていないのかもしれない…。

諦めと絶望が俺の心を闇の中に閉じ込めていく。


不意に…羽が舞うイメージが意識の中に流れ込んできた。


先生、お願い…。心の傷をみせて。あたしが癒してあげるから…。


千茉莉の声が胸に響いてくる。


千茉莉が俺の首にふわりと抱きついてきた。

心臓がドキンと跳ね上がる。

『あたしが認めてるんだからピカイチだよ先生の腕。認定書でも鑑定書でもつけてあげる。』

千茉莉の言葉はいつだって真っ直ぐに俺の胸に届いてくる。

その言葉に波立つ心が凪いで行くのを感じていた。…千茉莉の言葉は何故こんなにも俺を癒すんだろう。
ありがとうと感謝の思いを伝えたくて俺にしては上出来なくらい優しく微笑むと千茉莉を抱きしめていた。

『苦しまないで…大丈夫あたしが付いているから。先生の心をきっとあたしが救ってあげるから。』

そう言って笑う千茉莉の真っ直ぐな心がとても眩しく俺の心を照らしてくれる。迷い苦しむ俺を暗闇から引き上げてくれる。


千茉莉…おまえは俺を救う為に神が遣わしてくれてんだろうか




千茉莉が今日来てからずっと普段どおりの軽い会話をしようと必死だった。

いつものように千茉莉をからかい、千茉莉がそれに答えるように言い返す。

多分誰かが見てもいつもの俺達にしか見えないだろう。だけど…確実に何かが違った。

千茉莉は…悲しい瞳をしてなかなか俺を見ようとしなかった。
どうしても千茉莉に真っ直ぐに俺を見て欲しくて『千茉莉は歯医者の何が嫌いなんだ』と覗き込むように問い掛けてみた。

そのときの千茉莉の顔が…いつもよりずっと大人っぽくて、その唇が妙に紅く見えて…不覚にも心臓がどきどきする。

先日の診療台の上に眠っていた千茉莉の姿を思い出す。

俺の白衣を抱きしめる様に眠っていた千茉莉。

僅かに残る涙の後をそっと指でなぞると彼女は小さく身動きして『先生…』と呟いた。

抱きしめたくなる衝動を抑える事が難しくてそっと髪を弄ったとき、おまえの口から漏れた言葉。

『あたしが響先生を助けるから…。』


その言葉に受けたあまりの大きな衝撃と感動。


愛しさに思わず可憐なピンク色の唇に吸い寄せられるように唇を寄せ…


一瞬だけ軽く触れた


『ここは一番好きな人の為に取っておいたほうがいいな。』


自分から言っておきながら、寝込みを襲って内緒でファーストキスを奪うなんて俺って最低だよな。


これは俺の胸にだけしまっておくよ。

おまえとの大切な思い出として…。

千茉莉にキスしたあいつのようにおまえの記憶の中に残る事はないかもしれないけれど…。


それでもいいさ。天使のファーストキスは俺が貰ったんだから。



千茉莉のぬくもりを胸の中に感じて心が癒されていくのを感じる。

このまま抱きしめていると本当に千茉莉を離せなくなる気がする
ずっとこうして彼女を抱いていられたら心の不安や苛立ちなんていつか消えてしまう気さえするから不思議だ。

千茉莉の甘い…心を和ませる香りに包まれて俺の心の中の闇の全てを曝け出したくなる。
すべての戒めから自分を解き放って心のままに生きれたらどんなに楽だろう。

千茉莉なら…すべてを受け入れて俺を救ってくれるような気がするのはきっと錯覚なんかじゃないだろう。


だけど…


千茉莉にはあの男がいる。
まぶたの裏に焼きついて離れない昨日のキスシーン。

千茉莉が幸せになれるのは同世代のああいう男となんだろう。

ぎゅっと目をつぶって千茉莉への思いを振り切るように千茉莉から離れてから、心とは裏腹の明るい調子でからかうように言った。

「千茉莉、俺にこんな風に抱きついているとこ誰かに見られたらどうする?おまえはオジサン趣味で俺はロリコンになるぞ」

これ以上千茉莉を好きになるわけにはいかない。千茉莉は亜希に似ている。だから心を惹かれているんだ。

それだけなんだ。そう思いたい…



「先生、ありがとうございました。本当に響先生に会えてよかった」

千茉莉が俺に頭を下げるとドアに向かって歩き出す。

その後姿を引き止めたくて…。

このままおしまいにしたくなくて…。

無意識に千茉莉に声をかけていた。


「千茉莉…明日学校が終わったら気晴らしに行かないか?明日は俺も午後から休みだし、オジサンでよかったらご褒美に何処かへ連れて行ってやるぜ?大人のデートを教えてやるよ」


千茉莉が驚いた顔で俺を振り返る。

「おまえなんだか気分が滅入っているみたいだしな。行きたい所があったら言えよ。連れて行ってやるよ」

「いいの?うれしい。ありがとう先生、楽しみにしているね」

そう言って嬉しそうに笑う千茉莉。


途端に白い羽が舞い飛ぶ幻影が俺を包み込む。


あぁ、この笑顔だ…俺の心をとらえて離さない天使の微笑み


この笑みを護るのがどうして俺ではなかったんだろう。






+++ 11月 1日 Fin +++


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