凄くドキドキした。
『おまえあのときすげぇ悲しそうに泣いてたからさ。気になってた。でも今日、宙だっけ?あいつを見て理由が分かったよ』
響先生がそう言ったとき、あたしの事を気にかけてくれてたんだって分かって凄く嬉しかった。
「…響先生」
…あなたが好きです。
伝えられない想いを飲み込むように言葉を詰まらせて先生の次の言葉を待った。
それなのに…。
『あいつキスが下手だったんだろ?歯でもぶつけたのか?あ、鼻か?低い鼻が益々低くなったらそりゃ泣くわな〜』
…って、何よそれ。あんまりじゃない。
ぶちっ!!
久しぶりにあたしの頭の中のどこかがプツンといったわよ。
ときめきなんてどっかに吹っ飛んでいって、反射的に右手を振り上げると見事に平手は響先生の左腕にヒットした。
バシッという小気味いい音が車内に響く。
危ないだろって怒ったって知らないわよ。
事故がどうこう言っている響先生を横目にぷっちんと切れたあたしはさらりととんでもない事を口走ってしまった。
「生命を危機にさらしたくなかったら、その口を閉じて運転したほうが良さそうですよ。あたしは別に先生と一緒だったら構いませんけど、先生は死にたくないでしょう?」
言ってからしまったと思った。
先生はあたしの衝撃告白とも言えるこの言葉に気付かなかったのか、何事もなかったかのように運転を続けていたけれど、あたしの心臓はもう、爆発してしまいそうだった。
先生に顔を見られたくなくて窓の外を眺めるふりをして視線を外す。
響先生があたしの気持ちに気付きませんように。
ううん、もしかしたら本当は気付いて欲しいのかもしれない。
あたしみたいな子どもじゃ対象にならないのはわかっているけど…
この想いをどうしたらいいのかわからなくて…苦しくてたまらないの。
「千茉莉はいつも怒っているか笑っているほうがいい。さっきみたいな泣き顔は千茉莉には似合わねぇよ」
不意に先生がぽつりと言った言葉にハッとする。その言葉が嬉しくて頬が緩んでしまいそうになるのを必死に食い止めるため、強い口調で意地を張ってしまう。
「先生の前で泣いたのはさっきが初めてだもん。のぞきで見られた以外はね」
「のぞきじゃねぇって」
「まあ、悪意はなかったみたいだから許してあげるけど」
そこまで言ってふと思った。先生はどうしてあそこが学校の告白スポットだって知っていたんだろう。まるで学校の事を知っているみたいに…。
「響先生って、もしかしてうちの高校の卒業生だったりするの?」
「ん?ああ、まあな。知らなかったっけ?」
「初耳。だからなんだ、あそこが告白スポットだって知っていたの。ねぇ、先生もあたしくらいの時好きな人いたんでしょ?あの場所で告白とかしたの?」
「あんな場所でするかよ。好きな奴はいたけどな、ピアニストになるために留学しちまって、告白したけど振られちまった」
「先生の片想いだったの?」
「そう思っていたんだけどさ、実は亜希も俺のことが好きだったんだ」
「両想いだったのに…その人…亜希さんは留学しちゃったの?」
「ん…まあ、両想いだって気付くのが遅かったのもあるんだけど、それでもやっぱり辛かったよな」
…先生の瞳が切なくて胸が締め付けられるように痛かった。
先生の好きだった女性…どんな人だったんだろう。
「まだ俺もガキだったからどうしても留学なんてさせたくなくってさ。『行くな』なんて言っちまったんだよな。今思えば最後くらいかっこよく頑張って来いって笑って送り出してやるべきだったのに。…あいつは夢に向かって真っ直ぐに飛んで行っちまったんだ。彼女の為にはそれが一番良かったんだけど、あの時は自分の弱さが本当に辛くてさ」
先生は何かを思い出すような遠い目であたしを見つめて話してくる。先生の好きだった女性のことなんて聞きたくないと思う気持ちと、先生の事をもっと知りたいと思う気持ちがせめぎあって苦しくなってくる。
それでも響先生から瞳を逸らす事は出来なかった。
その瞳の色に幼い頃の記憶が蘇る。
幼い記憶の中のその人は響先生のような冬の寒空を思わせるグレーの左目と星降る夜を思わせる漆黒の右目をしていた。
黄金の髪のオッドアイの名前も知らない外国人のお兄さんだったけれど、彼の瞳がとても綺麗で今でもその色は忘れられない。
思えばあれがあたしの初恋だったのかもしれない。
「あの日、千茉莉に会ったんだぞ。おまえは覚えていないだろうけどな」
響先生の瞳に一瞬意識を飛ばしていたから、いきなり自分の名前が出てきて凄くビックリしてした。
「え?あたしに会ったって…」
「あの時、亜希を男らしく送り出してやれなかった自分が凄く悔しくてかなり落ち込んでいたんだ。そんな時おまえが声をかけてくれたおかげで俺は前向きになれたし救われた。だからおまえの名前を聞いたとき治療してやろうって決めたんだよ」
「そんな事あったっけ?良くそんな昔の事覚えるわね」
「昔って…アルツじゃないんだから10年前のこと位覚えてるよ。俺の誕生日の事だったしな」
「先生誕生日いつなの?」
「12月15日」
「わぁ、あたしと近いんだ。あたしは…」
「12月10日だろ?」
「え!何で知っているの?」
「そりゃ、患者の生年月日くらい知っているさ」
「あ、そっか。カルテね。…って職権乱用じゃない。個人…」
「個人情報どうこう言うなよ」
あたしの言い終わる前に先手を取られてしまった。どうも最近手の平の上で遊ばれているというか先を見越されているような気がする。
そんなことも何だかあたしをわかってくれているようで嬉しくなってしまったりして…。
あたしってバカね。
「じゃあ、先生の誕生日にケーキを作ってきますよ」
「…甘くないやつだぞ。甘かったら食わないからな」
「大丈夫ですよ。未来のカリスマパティシェに任せて下さい。きっと響先生の気に入ってくれるケーキを作って見せます」
「俺、基本的に甘いもんは苦手なんだよ。おまえもカリスマパティシェとやらになるんだったら甘いもんが苦手な俺みたいなやつでも食えるケーキを作ってみろよな」
先生の言葉に思わず言葉を失った。甘いものが苦手な人…余り考えた事がなかったけど確かに苦手な人に生クリームやチョコレートはきついだろうな。
甘いものが苦手な人でも美味しく食べれるお菓子…。
長いトンネルがいきなり終わって目の前に突然光が差した気がした。
ずっと悩んでいた答えが見つかった。
これだ!あたしらしいお菓子。
「ああっ!これよこれっ。先生!ありがとう」
ここ数週間悩み続けた課題に解決の糸口を見つけたあたしは嬉しくて思わず響先生の左腕に抱きついてお礼を言ってしまって…。
当然のことながら突然のあたしの言動に慌てた響先生はかなり動揺して車を路肩に止めた。
「千茉莉。おまえなぁ、何回言ったらわかるんだ?おまえの頭の中はミソじゃなくて砂糖でも詰まってんのか?」
「うわっ。ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったんだけど…そのっ課題の事でひらめいて…ごめんなさい。つい嬉しくて」
叱られると思ったあたしは思わず焦ってしどろもどろになる。
ああ、もうドジなんだから。さっきも危ないって言われたばかりなのに。
でも、先生は怒るどころか優しい目であたしを見て笑って、いつものように髪をクシャッとかき回すように撫でて優しい言葉をくれた。
「よかったな。悩んでいた課題が決まったのか?頑張れよ」
どうしてそんなに優しいんだろう。嬉しいけど胸が苦しくなるよ。
「千茉莉は亜希に似ているな。いつも一生懸命で、真っ直ぐに夢を追っている。いつだって前を見詰めていて、素直でよく笑ってよく怒って、クルクルと表情が変わって見ていて飽きない。
…いつまでも見ていたくなるよ」
――亜希に似ているな。――
その言葉はあたしの胸を深く抉って一瞬で血を噴き出させた。
胸が痛いよ響先生。あなたはあたしの中に亜希さんを見ているの?
「…あたしって亜希さんに似てる?」
顔は引きつっていない?声は震えていない?…あたしは普通に笑えているかな?
「顔は全然違うけどな。雰囲気とか似ているかもしれない。おまえのその真っ直ぐな瞳は亜希を思い出させるよ」
「響先生、亜希さんの事本当に好きだったのね。10年以上も前の恋を今も心にずっと秘めているみたい」
「初恋だったからな。しかも叶わなかったから、思い出は余計に綺麗に残るんだよ」
「初恋って事は先生はその人がファーストキスなの?」
「あ?ああ、まぁそうだな」
「先生は好きな人がファーストキスなんだ」
そこまで言って込み上げてくるものを抑える事が出来なくなった。
あたしは何をしているんだろう。
好きでもない宙のキスを受け入れて期待させた。そのうえ宙を傷つけて今先生とここにいる。
宙と付き合って先生への想いを忘れさせてくれるならそれでも良いとあの時確かに思ったけれど、同時にきっと後悔するだろうという思いが胸を過ぎったのを思い出す。
自分を偽って自分の気持ちからも逃げて一体あたしは何をしているんだろう。
止めようとしても暴走したあたしは涙を止める事なんて出来なくて、唇を噛締めて頬を伝う涙を必死に拭う。
心配そうに覗き込む響先生の声が尚更後悔の念を強くした。
後悔するってわかって宙を受け入れたはずなのに…。
「思い出したのか?…千茉莉、宙のキスは忘れろ。何度も言っているだろう?お前のファーストキスは俺だって」
「せんせっ…響せんせぇ…ッ…あたし…酷いよね。バカだよね。…宙…ごめん。ごめんね」
あたしはずるい。
あたしは卑怯だ。
こんなあたしを亜希さんと似ているなんて言っちゃダメだよ、先生。
+++ 11月 2日 第5話へ続く +++
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