不意に響先生があたしの顔を両手で包み込むように上を向かせ、溢れて止まらない涙をそっと拭ってくれた。
先生の優しさが心に染みて別の涙が溢れてくる。
「そんなに宙のキスが嫌だったなら俺のキスで消毒してやるぞ?」
響先生が冗談めかしてウィンクをしてそう言った。
多分響先生はそう言えばまたあたしが言い返してくると考えたのだと思う。
だけどあたしは違う事を考えていた。
「…先生なら忘れさせてくれる?先生のキスをファーストキスだって思っていい?」
驚いたように目を丸くしてそれから優しく微笑んでくれた響先生。
この笑顔が大好き…。
「お願い…先生」
――― 教えて…。本当の大人のキスを…。
あたしが言う前に先生はあたしの肩を引き寄せて、ゆっくりと顔を近づけた。
吐息が唇にかかって先生の唇の熱を感じる距離まで近付く。
僅かに動けば触れてしまいそうな距離で先生は胸に響くような擦れたテノールで呟いた。
「このまま触れても…千茉莉は後悔しない?」
「…しない」
耳元で心臓の音がバクバクと五月蝿く鳴っている。
あたしは…静かに瞳を閉じた。
〜〜〜♪
ビクッ!
携帯の音に反応して思わず距離が広がる。夢の中から急に現実に戻されたようで何だか照れくさくて視線を彷徨わせると、響先生も気まずそうに、携帯を取り出しあたしから視線を逸らして話しはじめた。
…やだ、あたしったら何をやっていたんだろう。
自分からキスを迫ったような形で先生にあんな事言っちゃうなんて。
唇まで数ミリの距離で電話に邪魔されるなんて、やっぱりあたしの想いは響先生には届かないみたいね。
あたしから目を逸らしたまま外の景色に視線を送り携帯で話す先生の表情は何処か不機嫌そうに見える。
友達と話しているのか乱暴な口ぶりだけど、イキイキしていて先生の新しい顔に思わず目を奪われた。
「千茉莉。おまえの行きたい所に連れて行ってやってから付き合ってもらおうと思っていたけど、ちょっと予定が変わった。おまえ、今夜少し遅くなっても良いか?」
電話を終えると先生はすぐに車を発進させながらあたしにそう聞いた。
「え?あ、うん。家に連絡さえすれば大丈夫だと思うけど…まさか朝までとか言わないわよね?」
「バカ!何を考えてるんだよ。経験もないくせに一丁前の事言って」
「わっ…わるかったわね。経験がなくて!どうせ先生から見たらガキんちょですよ」
「じゃあ、そのガキんちょを立派なレディーにしてやるから今夜は俺に大人しく付き合え」
「えぇぇっ?付き合えって…なによ。レディーにしてやるってどういう意味よ」
シドロモドロのあたしを楽しむかのような視線て先生はニヤニヤ笑っている。
まさか…えっと……ちがうよね?
「あ。もしかして千茉莉ちゃんは何か勘違いをしているのかな〜?」
明らかにからかい口調の先生にあたしは朝まで一緒に過ごすとかそう言う類のものではない事を感じてホッとする。と、同時に先生が何をしようとしてるのか尚更わからなくなる。
「あははっ。今日は大人のデートを教えてやるって言ったしな。フルコースでも良いぞ」
「フルコース?」
「そう、フルコース♪千茉莉がお望みなら1から教えて朝まででも抱いててやるよ」
ようやく意味が分かって体中の血液が一瞬で顔に集結したようにポン!と音を立てて…は無いけど、その位の勢いで真っ赤になったのがわかった。
「なっ…何言ってんのよ!ばかっ。えっち!ヘンタイっ!!」
先生の腕に抱かれて朝を迎える自分を思わず想像してしまって胸の奥が痛むくらいに熱くなった。
こんな事想像したなんて恥ずかしくて、そんな自分を知られたくなくて…。先生を見ることも出来ない。
こんな時可愛い女の子だったら俯いてモジモジしているのかもしれない。でもそんな事絶対に出来ないあたしって本当に素直じゃないんだと思う。
頭で考えるより先に体が反応するって言うのは、災害時の危機的状況でも生き残れるってことで、そう言う時のためにはとっても有効なのかも知れない。
でもこの場合は…あんまり有効とはお世辞にも言い難かった。
無意識に(ここはポイントね)振り上げられた右手は見事なカーブを描いて重力と本能のあるがままの形で振り下ろされた。
なんて、難しい説明だけど、つまりは照れ隠しに思いっきり引っ叩いてしまったってわけね。
響先生が運転中だって事は一瞬頭から飛んでたって言うのは…説明しなくてもわかると思う。
「いって〜〜っ!千茉莉っ!おめぇ学習能力がねぇのかっ。運転中だって言ってんだろうがっ!!」
ヤバッ!と思った瞬間やっぱり言われた。…と後悔しても体が先に動いてしまったものはしょうがないじゃない。大体こうなったのも先生が変なことを言ったからで…。
「運転中ならあたしをからかって怒らせるのは止めましょうね。響先生」
いかにも先生が悪いとばかりに言い放ってフン!と窓の外に視線を移す。
こんな事で怒ってしまうって先生からしたらやっぱりお子ちゃまでしかないんだろうな。
そこまで考えてふと、さっきの先生の言葉の意味を考える。
『立派なレディーにしてやるから今夜は俺に大人しく付き合え』ですって?
一体何を考えているのかしら?
ぼんやりと車窓を流れゆく景色を目で追ってガラス越しに映る響先生の顔をチラリと眺める。
整った顔で前方を見つめて運転を続ける先生はやっぱりかっこいいと思う。
あたしよりずっと大人で何でも知っていて…あたしとは別の世界にいる男性。
運転席と助手席の僅かな距離がまるで強固な壁に阻まれているような気さえする。
不安定な秋の空が急激に曇り始めたかと思うと瞬く間冷たい雨を降らせ始めた。
水滴が車に跳ねては涙がこぼれ落ちるように流れていくのをぼんやりと見つめる。
立ち込める雲が流す涙が自分の心の中のスッキリしない気持ちを映している様だった。
―― 千茉莉は亜希に似ているな。――
あの言葉が胸に深く刺さった棘のように鈍い痛みを放っている。
亜希さんの代わりでもいい。あなたに愛されたい。
そう思ってしまう自分が悲しくて…。
心が闇の中に落とされて行くような絶望感があたしを包んでいた。
+++ 11月 2日 第6話へ続く +++
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