Sweet  Dentist 11月 2日(水曜日)第9話



聖良さんはあたしの気持ちに気付いたのだと思う。

そろそろ席に着きましょう。と、話の流れを変えてくれたおかげで、あたし達は指定された席へと移動した。


程なく始まったリサイタルで、あたしは物凄い衝撃を受ける事になった。


亜希さんがステージに現れた時、周囲からどよめきが上がった。

真紅の薔薇を思わせるタイトなドレスを着た亜希さんは妖艶なオーラを放っていた。
誰もが惹かれるだろうその立ち振る舞いはとても優雅だったし、何よりもその瞳がすごく綺麗だった。
きっとあの瞳が響先生の言っていた、夢を追いかけている輝く瞳なのだと思う。

…あたしも夢を語っている時はあんな瞳をしているんだろうか。

スポットに照らされ浮かび上がるピアノの黒に咲く真紅の薔薇。

その薔薇がピアノの音色を奏でた時、あたしの時間が止まった。

胸の奥が揺さぶられるような暖かいものが溢れてくる。
肌が粟立ち体が感動で小刻みに震えてくる。
多分そんなに大きな女性では無いと思う。
あたしとそんなに変わらないかもしれない。
だけど…
ピアノを弾いている亜希さんはすごく大きかった。
指先から、体から、髪の先からさえも、音楽が溢れ出るように、亜希さんの優しさが溢れ出しているのがわかる。
心を癒すように、想いを伝えるように、温かく満たされるようなピアノの旋律があたしの心を虜にしていった。

「…すごい」

「ああ、俺も亜希が本気で弾くのを初めて聴いたよ。すごいな」

体が震えるほどの感動があたしを包んで離さなかった。



だけどアンコールで亜希さんがピアノの前に座った時に、それ以上の衝撃があたしを襲った。

一瞬だけ、でも確かに亜希さんは響先生を見てからピアノに向かった。
その曲を響先生に捧げるように流れる旋律。
繊細に鍵盤を滑るその指から切ない想いが流れ出してくる。


――亜希さんは響先生のために弾いている。


胸を締め付けるような切ないメロディーがあたしの心を揺さぶった。
亜希さんは…響先生の事をまだ好きなんだ。


透き通るような切ないピアノの音色が、亜希さんの心そのものを語っている。

あたしには…敵わない。

どんなに大人のフリをして着飾ってみても
どんなに響先生を想っても
あたしはやっぱり子供でしかない。


頬を伝う涙を見られたくなくて、そっと席を外し静かに会場を後にする。

「千茉莉?」

不思議そうな先生の問いかけにも応えず、小走りに会場を後にすると、響先生が後を追ってくる気配がした。
慌てて振り切るように駆け出して、先生の視界から逃れる為に人の間を縫って逃げ出した。

涙で霞んで前さえも良く見えない。

不安定な高いヒール。
慣れない裾の長いドレス。
ただでさえ歩きにくい格好で走ったりしたら結果は解っていた。


階段を後わずかに残す位置で、ガクンと体が揺らいだ。

ふらりと傾(かし)いだと思った瞬間、あたしは足を踏み外していた。

世界が回るような感覚に、慌てて何かに縋ろうと手を伸ばす。


その時、ふわりと誰かに抱きとめられて体が宙に浮いた。

その感覚に初めての診療の日に、響先生に抱き上げられた事を思い出す。

…響先生?

驚いて視線をその人に移すと、整った顔立ちの30代半ば位の男性があたしを横抱きに抱いて心配そうに覗き込んでいた。
茶色のサラサラの髪に「大丈夫?」と微笑むその瞳に、何処か安堵を覚え頷くが、足を捻ったらしく痛みに眉を潜めてしまう。

「ああ、足を捻ってしまったみたいだね。誰か連れはいないの?送ってあげようか」

「いいえ、連れはいるんですけれど…」

泣き顔を見られたくなくて逃げてきましたとは言えなくて曖昧に微笑んで見せるとその人はあたしを抱いたままさっき逃げ出してきた会場の方へと歩き出した。

怪我をした足では振り切って逃げ出す事も出来ず仕方なく大人しく抱かれて運んでもらう。

「あの、ありがとうございます。あたし神崎千茉莉って言います」

「千茉莉ちゃん?…かわいい名前だね。俺は…」

「千茉莉!おまえ何しているんだよ」

ビクッ!
響先生の声に体が硬直する。
涙の痕に気付かれたくなくて顔を背けると、その人に顔を埋めるような格好になってしまったけど、涙を見られることだけはしたくなかった。
目じりに僅かに残る涙を慌てて拭いて、深呼吸してから、その人に降ろしてくれるように頼んで平静を装ってみせた。

怒ったような不機嫌な顔で駆け寄ってくる響先生。
あたしが何も言わずに突然会場を出て行ったから、心配したのかもしれない。
ううん、さっき逃げ出した事を怒っているのかな。

それでも、どんな理由であれ、あたしを気にかけて駆け寄ってきてくれると思うと、愛しさが込み上げてくる。


どうしたらいいの?

あなたのことがこんなにも好きで心が張り裂けそうなのに

この想いをどうしたらいいのか分からない。


苦しいの。あなたが好きで好きで…この想いに心が砕けてしまいそう。


お願い。あたしにこれ以上優しくしないで…。




千茉莉が駆け出していくのを追いかけたが、人に紛れて見失ってしまった。
席を立つ瞬間、千茉莉が頬を濡らしていたように見えた事が気にかかって仕方が無い。
焦る気持ちの中、千茉莉が背の高い男に横抱きにされているのを見つけた時、胸が抉られるように痛くて、血が滾(たぎ)るように熱くなった。

一瞬で体中の血が逆流するような感覚。

知らない男に千茉莉が抱かれている。
その事実が訳のわからない不安や苛立ちを駆り立てて、冷静さを失わせていた。

「千茉莉!おまえ何しているんだよ」

苛立ちを吐き出すように叫ぶと怒ったように近付く。
一瞬、千茉莉がそいつの胸に顔を埋めるような仕草をしたのが目に入り、怒りにザワリと肌が粟立った。
そんな俺を横目にその男は千茉莉を支えるようにゆっくりと降ろして、気遣うような仕草をした。

それが余計に感情を逆撫でる。

「響先生…。あたし」

千茉莉が何か言おうとした時、痛みに顔を歪めるのが分かった。
見ると、片方の靴を男が持っている。
片足だけで体を支え不安定な状態を、男性が腰を抱いて支えてやっているのが解り、イライラしながらも千茉莉に手を貸し、その男性から引き剥がすように抱き上げた。

「ありがとうございました」

千茉莉が礼を言うのを聞きながら、その男をじっと観察する。
180p以上はある身長。
茶色の癖の無いサラサラの髪に薄い琥珀色の瞳。
整った顔立ちは、どこかで見たことがあるような気がする。

「…どこかでお会いしましたか?」

記憶を探っても思い出せず、でも何か引っ掛かるものを感じて問い掛ける。

「いや初対面だよ。でも、俺の考えが正しければあなたは…安原 響さん…かな?」

驚きに目を見開くと、千茉莉も腕の中で目を丸くしている。

「どうして俺のこと?」

そのときだった。
背後から聞き覚えのある声がその人を呼んだ。

「お兄ちゃん、遅いわよ!何処へ行っていたの?待っていたのに…あれ?千茉莉ちゃん達と一緒なの?」

聖良ちゃん?
…お兄さんって、ああそうか。
どこかで会った気がしたのは聖良ちゃんに似ていたせいか。
ようやく波立つ気持ちが落ち着きを取り戻し、冷静になった俺は改めて挨拶をした。

「初めまして、安原 響です」

「聖良の兄の蓮見 聖です。妹夫婦がいつも世話になっているらしいね」

「世話をするって程じゃ…」

「龍也の数少ない心を許せる友人だろう?これからも龍也の力になってやって欲しい。あいつには支えになってくれる人間が必要だ。…今の立場なら尚更だ。わかるだろう?」

「…わかりますよ。龍也とはガキの頃からの親友ですからね。いつだって何かあれば飛んでいきますよ」

「クスッ、頼りになる親友を持ったな、龍也は。…あいつをよろしく」

瞳を細めて安堵したように笑う蓮見さんに、余り人に心を開かない龍也が兄のように慕っている理由を垣間見た気がした。

「…蓮見さんは俺のこと、龍也と聖良ちゃんから聞いて知っていたんですね?」

「ああ、それもある」

…それもある?
まだ何かあるのか?
そう思ったとき、背後から聞こえた声に驚き振り返った。

「遅い!やっと来てくれたの?もう演奏は終わっちゃったわよ」

拗ねたような亜希の声。
懐かしいその微笑みは真っ直ぐに蓮見さんに注がれていた。

蓮見さんは優しく微笑んで、亜希に近付くと静かに手を差し伸べた。
その手を自然に取る亜希を、引き寄せるように抱くと、幸せそうに俺を振り返った。

このふたり…もしかして?

「蓮見さん…もしかして亜希の?」

俺の問いに、蓮見さんは亜希と一瞬瞳を交わし、目で会話してから鮮やかな笑顔で言った。

「そうだよ。俺は亜希の恋人…もし今夜プロポーズに返事を貰えたら婚約者になれるかな?」

亜希が真っ赤になって「ヤダ、そんな事今言わなくても…」と怒ったように膨れて見せているがどう見ても照れているだけのようだ。

「亜希からいつも君の事を聞かされていたんだよ。凄く素敵な初恋の人の話をね」

蓮見さんが亜希の恋人…。
幸せそうに微笑む亜希は、あの日選んだ道は間違ってはいなかったと無言で語っている。

俺の腕の中で千茉莉が心配そうに見上げている視線を感じた時、それまで胸の奥でわだかまっていた亜希への想いが、砕けて静かに胸に溶け込んでいくのがわかった。

俺はあの日、まだ子供で、亜希を支えてやるだけの言葉も贈ってやれなかった。

だけど亜希はちゃんと支えてくれる運命の人と出会うことが出来た。
亜希の夢と人生そのものを大きく包み込んでくれる素晴らしい人に…。

亜希が今日の栄光を手に入れるまでの道程は、厳しく辛いものがあったと思う。
だけど蓮見さんはそんなおまえの心をずっと支えてくれたんだな。

あの龍也でさえも心を開いた人だ。
おまえが選んだ人がこの人で本当に良かったと思うよ。


幸せになれよ…亜希。


千茉莉の視線に笑顔で応える。

大丈夫だよ、千茉莉。

わかったんだよ。

亜希をずっと心の奥底で想っていた。
それはあの日の俺の後悔だったんだ。
幸せな亜希を見て、俺も吹っ切れたよ。

千茉莉を亜希と重ねているのかもしれないと思っていた。


だけどわかったよ。そうじゃないって。


もう大丈夫だ。


これで真っ直ぐに自分の気持ちと向き合える。




おまえが好きだよ。千茉莉。







+++ 11月 2日 第10話 +++


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