Sweet  Dentist 11月 5日(土曜日)第1話



あれから3日…。


響先生は亜希さんからの電話で呼び出されていた。
あの後…多分二人は会ったのだと思う。

自分の部屋のベッドで転がりクッションと戯れながらあの夜の事を思い出してみる。

時間は深夜12時を過ぎていた。そんな時間に亜希さんの宿泊先のホテルに出かけていくって言う事は…。

ううん、違うよ。だって亜希さんには聖さんって言う婚約者がいて…。





婚約者…だよね?



亜希さんがアンコールで弾いた切ないピアノの音が胸に蘇る。


あの音は…まだ、胸に響先生を秘めていた。何故そう思うのかはわからないけれど、亜希さんの音を聞いたときそう直感したのを思い出す。

亜希さんは、まだ響先生の事を忘れていないの?

じゃあ、聖さんとの婚約は?

そうよ、亜希さんはあの夜、聖さんに返事をする約束だったはず。



もし…あの電話が聖さんと別れたって言う内容だったら?

もし…もう一度やり直そうっていう流れになったら?



ありえないことではない。

響先生だって亜希さんをずっと心の奥底で忘れられずにいたのだから…。




響先生がもし…亜希さんと付き合ったらあたし冷静でいられるだろうか。

もし…もし、二人が結婚するって言ったら?


バカね。響先生だっていい年なんだもん。
あたしみたいな高校生と違って、いい加減身を固めなくちゃいけないわよね。
真由美さんだっけ?婚約者を名乗る女性もいるくらいだし、いつかもホテルでお見合いしていたわよね。

やっぱり、先生だって早く結婚したいんじゃないかな?


『応援してやるよ。』

あの響先生の言葉はあたしの胸に重く沈んだ。
本当なら嬉しい言葉の筈なのに、素直に喜べない理由をあたしの心は知っている。
運良く大会で優勝して留学できても、帰ってきたら先生は誰かと結婚しているのかもしれないと思うと、苦しくて留学なんてどうでも良いとさえ思えてしまう。

先生はあたしがいなくなったって何も感じないんだろうな。

そうだよね。当たり前じゃない。

12才も年の離れたあたしは患者でなくなった今、響先生に繋がるものを何一つ持っているわけでもない。
もしあるとしたら、聖良さんたちのウェディングケーキくらいだろう。


あたしなんて対象外だもの…。

思っただけで胸が苦しくなって涙が溢れてきてしまう。

もう会えないのはわかっている。

あの夜だって、また会う約束なんてしていないもの。


もう本当に会う事も無いのかもしれない。


今度虫歯になっても、響先生のところへは行けないね。

虫歯になっても響先生に連絡しなかったなんてバレたら『なんで来なかった』って怒られそうだけど、それでも会えばまた切なくて…この気持ちを伝えたくなってしまうと思う。



もう会えないんだね…



そう思ったら涙が後から後から溢れてきて止まらなかった。


「響せん…せぃ…。…っ…好き…。好き…だよぉ」


涙で視界が滲んで何も見えなくなる。
クッションに顔を埋めて嗚咽が零れないように必死で声を堪えて泣いた。

あたし、こんなにも響先生の事が大好きなんだ。

好きだと気付いてから、この気持ちがどんどん留まる所を知らずに膨れ上がっている。

頭では理解している。

先生はこの数年の間にきっと結婚するんだろう。

響先生はあたしに特別な感情を持っているわけじゃない。

あのキスだって、先生が冗談で言ったことをあたしが本当にして欲しくて…誘ったようなものなんだから。

大人のデートの終わりを告げた熱いキスを思い出して唇が熱くなる。

瞳を閉じるとあの日の響先生の広い胸から伝わった熱を思い出す。

震えるあたしの唇にかかった熱い吐息、宥めるように触れた優しい響先生の唇の感触が蘇る。

体の芯がとろけそうで、頭がくらくらするような激しいキスをただ必死で受け止めた思い出が胸を締めつけ切なくする。


先生が亜希さんを忘れられない理由が分かった。



実らなかった恋は綺麗過ぎて…思い出が鮮やかに胸に蘇ってしまう。

些細な事でも、とても大切だったからこそ、全てが輝いて見えて、大切に大切に心の奥底に封印したくなる。

いつもは冷たい先生が突然見せる優しい笑顔をあたしは知っている。

先生の意地悪な表情の下に優しい顔があるのをあたしは知っている。

本当は誰よりも優しくて、誰よりも繊細で…

心の奥底で悲しみを抱えてたった独りで何かに耐えている。

その心を助けてあげたくても、手を伸ばしていいのはあたしでは無いのだと思う。


それをしていいのは、響先生が愛した女性だけ…。


あたしはこの想いをどうすればいいんだろう。


苦しいよ…響先生










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「千茉莉ちゃんを留学させてみませんか?」

待ち合わせたホテルのロビーで俺の顔を見るなり亜希はそう言った。
いきなりの事に言葉を無くす俺に亜希は笑って著名なパティシェを紹介したいと言いだした。

「千茉莉ちゃんには才能があるって聖良から聞いたんです。パリにあたしの知り合いのパティシェがいるんですけど…千茉莉ちゃん留学してみる気は無いかと思って」

突然の事で思考がついて行かない。
大会に優勝したら留学するとは聞いていたが、それはあくまで優勝したらの話だった。
だが、今亜希が持ってきた話は、千茉莉にその気さえあればいつでも留学ができると言う事だ。

何て言ったらいいのか言葉が見つからない。
この話を聞いたら千茉莉はなんと答えるだろう。
夢を叶える為にあの輝く天使の翼を広げて飛び立ってしまうんだろうか。

あの日の亜希のように…。

「響先輩は千茉莉ちゃんとお付き合いしているのかと思ったけど、聖良からまだ付き合っていないって聞いたの。本当なんですか?」

「…付き合ってないよ」

「告白は?」

おまえの電話で邪魔されたんだよ。なんて言える訳もなく苦笑いをするしかない。
それを亜希はどう取ったのかハア…と大きな溜息をついた。

「千茉莉ちゃんにとっては悪い話じゃないと思うんです。でも響先輩が千茉莉ちゃんに対して本気ならこの話はしません。彼女を先輩から引離すような事したくないですからね」

亜希の言葉にあの日の思い出が蘇る。
彼女は大切な恋を諦めてまで選んだ夢だと言って飛び立った。
亜希は…後悔した事はなかったんだろうか。

「…俺は…亜希の時にちゃんと『行って来いよ』って言ってやれなかったこと凄く後悔したんだ。千茉莉が自分の道を選ぶ時は絶対に応援してやりたいと思っている。俺の事で束縛するつもりはないよ」

「響先輩がそう思っても、千茉莉ちゃんはどう思うかしら?千茉莉ちゃんは好きな人と離れてまで留学したいのかしら?」

「…さあな。でも俺は千茉莉の選んだ道を応援してやりたいと思っている」

亜希の『好きな人と離れてまで』という言葉に一瞬ドキッとする。
さっきは雰囲気に呑まれて勢いで告白しそうになったけれど、千茉莉は俺をどう想っているんだろう。

「相変わらず鈍感ですね、先輩は。あの時もあたしの気持ちに全然気付いていなかった。もしも、先輩があたしの事もっと早くに好きになってくれていたら、あたしはやっぱりウィーンには行けなかったと思う」

「亜希が?まさか…」

「本当ですよ。随分迷ったんですもの。たとえ片想いでも先輩の傍にいたくて…でも、やっぱり夢を捨てるのは自分に負けてしまうみたいで悔しかったから留学を決めたんです。でもそれは先輩の気持ちを知らなかったから決意できたんですよ。あの時点で先輩があたしを好きだって知っていたら絶対に行けませんでしたよ」

「後悔した事は…あるのか?」

「向うへ行って暫くはずっと後悔ばかりでしたよ。自分のピアノが思うように弾けなかったり、なかなか環境にも馴染めなかったり」

亜希は少し遠い目をした後、ふっと何かを思い出すように微笑んで俺を見つめた。

「でもね、そんなときに聖さんが来てくれたんです。聖さんはヨーロッパ各地を仕事で常に動いている人なの。だから近くに来るたびに顔を見せてくれて、励ましてくれたんです」

亜希の微笑みはとても幸せそうで、その場の雰囲気がひと際明るくなったように感じた。

「最初は、近くまで来る事があると時々聖良から預かってきた日本のお菓子とか本とか届けてくれていたんです。凄く頼りになるお兄さんって感じだったんですけど…環境に馴染めていない事に聖さんは敏感に気付いていたみたいで、ある日、あたしの住んでいる町にいきなり引っ越してきたんです」

思い出したのかクスクスと笑いながら亜希は続ける。その瞳は夢を語っていたあのときのようにキラキラと輝いてとても綺麗だった。

「聖さんったら『亜希が寂しくなった時に何時でも部屋に遊びに来れるようにしたかったんだ。』ってそう言ったんですよ。ビックリしちゃいましたよ」

「すげぇな。惚れこまれているじゃん」

「ウフフッ…でもね、そのときはあたし聖さんの気持ちなんて全然知らなかったんです。あたしは妹みたいな存在で恋愛対象にはしてもらえていないと思っていたんです」

「…なんでだ?そこまでアピールしてもらっているのに」

「聖さんはずっと年上で社会人で大人で…あたしには凄く遠い人に思えたんです。だから、聖さんの気持ちに気付くまで随分かかってしまって。本当はずっと前から両想いだったのに、随分遠回りしちゃったんですよ」

「聖さんは告白しなかったのか?」

「聖さんも仕事で家を空けていることが多かったのもあるし、なかなかきっかけが無かったみたいです。それに…」

「それに?」

「あたし、最初の頃ずっと響先輩の話ばかりしていたんです。凄く好きだった人との恋を諦めて夢を選んだって聖さんには話していたの。だから…聖さんはずっとあたしが響先輩を忘れていないと思っていたみたいなの。
あたしにとって聖さんがお兄さんみたいな存在から、いつの間にか一人の男性になっていたなんて考えてもいなかったみたいですよ。聖さんったら自分の気持ちを気付かれないようにずっと抑えていたんですって」

「聖さんも結構亜希で苦労してるんだな」

「なんですか、それ!酷いですね」

「本当じゃないか。聖さんに同情するな俺」

「んもう!先輩ったら。…でも、すれ違って時間を無駄にするのは良くないですよ。あたしたちがいい例です。響先輩も千茉莉ちゃんが好きならちゃんとしたほうが良いですよ。後悔はしたくないでしょう?」

亜希の言葉に俺は何も言えなかった。

聖さんが躊躇した気持ちもわかる気がする
もし千茉莉が俺のために留学を止めたり、可能性を諦めたりする事があったら…きっと耐えられないだろう。
聖さんも亜希の才能の芽を摘むような真似をしたくないと思って気持ちを告げられなかったんじゃないか?
夢へと真っ直ぐに進む亜希の障害になることの無い様に、気持ちを押し殺して、兄と言う名の仮面をつけてずっと見守っていたんだと思う。

「二人が想い合っているのは誰が見ても明らかなのに…いつまでもモタモタしていたら誰かに盗られちゃいますよ。千茉莉ちゃんかわいいんですから」

想い合っている…?千茉莉が俺を好きだって言うのか?

…そうなんだろうか。
時々千茉莉が見せる表情で俺の事を決して嫌っているわけでは無いというのはわかってる。だが、それが恋愛感情かどうかは別だ。
単なる大人への憧れなんじゃないかと不安があった。

盗られちまうって?ああ、わかっているさ。
千茉莉は可愛いさ。モテルのもわかっている。
千茉莉を好きな奴なら一人知っている。だけど、きっと宙だけじゃない。他にも千茉莉を想っている男はいくらでもいるかもしれないんだ。
本人は超鈍感で気付いていないみたいだけどな。


「先輩。あたし、先輩のことずっと好きでした。先輩を想ってずっとピアノを弾いてきました。その音はとても純粋で透明感があると評価されました。でも、あたしの目指していた音楽はそれとは違うものだった」

亜希は一旦言葉を切ると自分の中の何かを確認するように瞳を閉じた。
それから数秒の間を置いて開かれた瞳はハッとするくらい綺麗だった。
全ても迷いを吹っ切ったような真っ直ぐな瞳で俺を射抜くように見つめてくる。

「あたしは聴いてくれる人を切なくする音ではなく、癒せる音を生みたかったんです。
なかなか思う様な演奏が出来ずに壁にぶち当たって苦しんでいたあたしを救ってくれたのは聖さんでした。それまでのあたしのピアノは響先輩のための音だった。
大好きな先輩を諦めてまでピアニストの道を選んだあの日の記憶がずっとあたしの音だったんです。綺麗で、切なくて、純粋で…初恋の音そのものだった。
でも、聖さんはあたしが本当に求めていたものに気付かせてくれた。誰かを愛して癒してあげたいと思う心を教えてくれた。
あたしのピアノを最も望んでいた音に導いてくれたのはあたしを愛してくれた聖さんでした」

「亜希は素晴らしい人と出会ったな」

「はい。先輩のおかげです。もしもあの時先輩の気持ちを知っていたら今のあたしは無かった。
もしも先輩に恋することが無かったらあたしの音楽は生まれなかった。先輩を想う気持ちがあったからあたしの音楽の世界は形を作ることが出来たんです。そしてそれを完成形に導いてくれる聖さんと出会うことが出来た。どの偶然が一つ抜けても、今のあたしはありえませんでした」

そう言うと亜希は俺に向かって深々と頭を下げた。

「ありがとうございました。あたし本当に響先輩を好きになって良かったです。素敵な人に恋をして良かった」

「亜希…俺もおまえを好きになって良かったよ。あの日おまえと別れた後に出会って心を癒してくれたのは千茉莉だったんだ。俺も…おまえとの事がなかったら千茉莉と出会う事もなかったかもしれない」

「そうなんですか。凄い運命的なものを感じますね。…先輩。絶対に後悔だけはしないで下さいね。あたしは先輩に幸せになってもらいたいんです。あたしが今幸せなのは先輩のおかげでもあるんですから」

「聖さんにプロポーズの返事はしたのか?」

「いいえ、これからです。最上階のラウンジで待っているわ。響先輩への想いを断ち切ってきますって言ってきたからヤキモキしているんじゃないかしら?」

「おいおい。あんまり聖さんをいじめるなよ」



「―――本当だよ。そろそろ限界なんだけど…いい加減に返事をもらえないかな亜希」



突然聞き覚えのある声に顔を上げると、聖さんが苦笑しながら腕組みをして立っていた。

「俺だって、鋼鉄製の心臓を持ち合わせているわけじゃないんだ。いい加減に返事をもらわないと心臓発作を起こしそうだよ。それとも俺のプロポーズ断って響と逃げるつもりか?」

冗談を言いながらチラリと俺を見る聖さんの視線に、僅かに嫉妬が含まれているのを感じて苦笑してしまう。
まあ、気持ちはわからないでもないな。
俺だって宙の奴が自分を千茉莉の彼氏だと言いやがった時は嫉妬したからな。
ましてや亜希から初恋の人だと聞かされて、ずっと忘れていないと思っていた俺が相手なら嫉妬するなって言うほうが無理だろう。

「亜希、お前のんびりしてたら聖さんが痺れ切らしてどっか行っちまうぞ。俺に後悔するなって言う前に自分が後悔する事になっていいのか?」

俺は笑いながら席を立つと、聖さんに場所を譲った。

「邪魔者は退散しますよ。聖さん…亜希を幸せにしてやって下さい」

俺と聖さんの瞳が絡んだ。
何も言わなくてもわかる。
『必ず幸せにするさ』聖さんの澄んだ瞳は、そう俺に告げていたから。

俺は聖さんに最高の笑顔を送り、この二人には幸せになってもらいたいと心から思った。


実らなかった初恋は綺麗なまま心に残ったけれど…それは決して終わりなんかじゃない。

俺も亜希も、あの日から新しい道を歩いていた。

あの日が俺達の本当の意味での始まりだったんだ。



蜂蜜色の風景の中小さな天使が振り返った情景が胸に蘇る。



もう迷わない。

何もしないで千茉莉を失うくらいなら、自分の気持ちをきちんと告げよう。

千茉莉が俺を好きじゃなかったら好きにさせればいい。それだけだ。


聖さんと握手を交わし、挨拶をしてから亜希を振り返る。

俺は心を決めて口を開いた。



「亜希。千茉莉に留学の話をしてやってくれないか?」



亜希と聖さんはハッと息を飲んだ。

「良いんですか?先輩はそれで…」


心は雲ひとつ無い青空のように澄み渡っていた。

俺の選ぶべき道が見つかった。

それが間違っていない事を心が確信している。


亜希の言葉に微笑んだ俺は穏やかな顔をしていたに違いない。


「ああ、いいんだ。俺は両方手に入れたいんだよ」


俺の言葉に聖さんは気持ちを悟ってくれたようだった。
ニヤッと意味ありげに笑って「そっか」と言うと、訳がわからない顔をしている亜希の肩を抱いてエレベーターへ向かって歩き出す。

「ちょっ…聖さん?響先輩とまだ話しがっ…」

「響は大丈夫だ。それより亜希は俺に言う事があるだろう?ほら、部屋に戻るぞ。歩かないなら抱いて部屋まで行ってやるけど?」

抵抗して歩みを止めようとする亜希にそう言って綺麗に笑うと本当に亜希を抱き上げた。
いきなりの行動に真っ赤になってジタバタする亜希と、それを物ともせずズンズンエレベーターへ向かう聖さんに笑いが込み上げてくる。

エレベーターの前で聖さんは頑張れよと言って軽くウィンクをした。

俺もウィンクを返して軽く手をあげる。




きっと聖さんも俺と同じ事を考えた事があったんだろうな。


ああ、絶対に手に入れて見せるよ。


俺はどちらの千茉莉も欲しいんだ。


夢を叶えた千茉莉と


俺を愛してくれる千茉莉を








+++ 11月 5日 第2話へ続く +++


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