はあ…
小さく溜息をつき携帯を開くと千茉莉の番号を表示する。
指をかけては躊躇う仕草をもう何度繰り返しているだろう。
あの夜、亜希に会って心に決めた事を決行しようとしたまでは良かったが…。
自分の気持ちを認めてしまうとやたらと意識してしまうもので、千茉莉に電話をかけるという行為は思っていた以上に難しい課題だと痛感させられた。
とにかくやたらと気持ちが昂ぶって、携帯を握る指が思いがけず震えていたり、ボタンを一つ押すだけなのに思い切れず、もうどの位時間を費やしているかわからないくらいだ。
好きな女への初めての電話…これってすげぇ緊張するかも。
考えてみたら自分から好きな女に電話をするなんて事初めてじゃないか?
うわ!俺って意外とオクテなのか?
…って、んなこと考えている場合じゃない。逃げるわけには行かないんだ。
はあ…
最後の溜息を吐き出し、意を決すると俺は思い切って発信ボタンを押した。
呼吸を整えて、千茉莉が出てくれることを祈る。
繋がる前からドキドキして心臓が壊れてしまいそうだ。
震える唇で俺のキスを必死に受け止めたあの夜の千茉莉を思い出す。
俺は自分の進むべき道を決めた。
千茉莉…おまえに俺の気持ちを伝えよう。
おまえは俺を受け入れてくれるだろうか。
〜〜*〜〜*〜〜*〜〜*〜〜*〜〜*〜〜
〜〜♪
聞き覚えのある音楽にビクッと体が跳ねる。
表示された名前に手が震えるのがわかる。
大きく深呼吸して涙を拭うと思い切って携帯に出た。
「もしもし…」
『千茉莉?俺だ。話があるんだけど…少し時間をもらえないか?』
「…うん、あたしも話さなくちゃいけないことがあったの。中央公園で待ち合わせで良い?」
『ああ、待ってるから。今から30分後だ。OK?』
「OK、じゃあ後でね」
―――ピッ!
携帯を切リ、すぐに着替えて出かける準備を始める。
泣き続けていたから目が充血して瞼も腫れている。
「少し化粧でもしていかないと泣いていたのがバレちゃうね」
そんな顔を見られるわけには行かない。理由を聞かれて上手く説明できる自信は無いもの。
薄化粧をして白いパーカーにジーンズといった軽装で鏡に向かう。
あの夜とは比べものにならないくらい子どもっぽいあたし。
でも、これが本当のあたしの姿だ。
どう考えても響先生には不釣合いにしか見えない。
先生の傍で笑うのに相応しいのはやっぱり亜希さんみたいな大人の女性なのだと思う。
あたしなんかじゃ…足元にも及ばないよ。
忘れなくちゃ…。あの夜の事は夢だったの。とても幸せなシンデレラの夢。
でももう夢はおしまい。目の前にあるのは現実だけ。
魔法はもう解けてしまったのだから…。
クイと顎を上げ気持ちを引き上げるように前を見る。
思い切って玄関のドアを開けると、冷たい秋の風が吹き込んで、一瞬身体から熱を奪っていった。
その冷たさが萎えそうになるあたしの心を叱咤してくれた。
行かなくちゃ。
行って自分の気持ちに整理をつけなくちゃね。
響先生のことも…宙のことも…。
公園へと一歩足を踏み入れると、ベンチに見覚えのある人影が座っていた。
「宙…早かったのね。まだ30分経っていないよ?」
「さっきの電話ここからしていたんだ」
「ええ?じゃあずっと外にいたの?今日は随分風が冷たいわよ?」
「冷たさなんて感じないよ。千茉莉の事をずっと考えていたから」
「…宙…。あたし…」
「いいよ。何も言わなくてもわかっているから」
宙はあたしを見ると悲しげに笑って、大きな溜息をついた。
「千茉莉はあいつが好きなんだな。校門で会った時に一目でわかったよ」
「…ごめん」
「謝らなくていい。おまえさきっと後で後悔するぞ?俺みたいな若くてカッコイイ奴がずっと傍にいたのに…。あんな年の離れたおっさんが好きだなんて千茉莉も趣味が悪いよな。俺になびかない訳だよ」
宙の言い方に思わず苦笑してしまう。
「そうだね。こんなにカッコイイ同級生がずっと傍にいたのに全然気付かなくて、あたしってバカだよね」
宙はあたしにベンチの隣りに座るように勧めてくれるけれど、あたしは座る気にはなれなかった。
長い足を組んでベンチに座る宙は確かにかっこいいと思う。瞳にかかるくらいまで伸ばしている茶色の前髪をかきあげて見つめてくるこげ茶の瞳はあたしの唇をじっと見つめて次の言葉を待っている。
「でもね…。叶わないのに…それでもどうしても諦められない想いってあるんだってわかったの」
響先生の優しい笑顔が浮んで胸が潰れそうなくらいの切なさが迫ってくる。
どうしても…忘れる事なんて出来ない。
「あたし…響先生が好き。たとえ恋愛対象にしてもらえなくても、年が幾つ離れていても、そんなことどうでもかまわない。彼が好きなの。簡単に忘れる事なんてできない。
この気持ちを無かった事になんて出来ないよ」
あたしの頬から、ようやく止まった筈の涙がポロポロと流れ始めた。
あれだけ泣いてもまだ、涙は残っているらしいと自分でも呆れてしまう。
だけど涙はどうしても止まらなくて…。唇を噛締め声を押し殺して涙を流し続けた。
「千茉莉…おまえはそれでいいのか?叶わないと分かっていても、いいように利用されるかもしれないのにそれでもあいつがいいのか?」
宙はあたしの言葉が終わるのを待っていたように聞いてきた。
あたしの心はもう決まっていた。
だから宙が何を言っても迷う事なんてもう無かった。
「うん、それでもいい。好きなの。ごめん…宙の気持ちに応えてあげられなくて…。あたしのこと好きになってくれて、ありがとう」
「…わかった。だけど一つだけ約束しろ。絶対に後悔だけするなよ。おまえの泣き顔はもう見たくない。もし、あいつの事を諦めて俺を見てくれる気になったら何時でも戻ってこい」
「ありがとう。でも大丈夫。あたしは…前だけを見て夢に向かって歩くって決めたから。もう、子どもではいたくないの。自分の道を自分の足で歩いていける女性になりたいの」
亜希さんや聖良さんのような自分の足でしっかり立っている女性になりたい。
まだまだ大人にはなれないけれど、それでも少しずつ自分の足でしっかりと一歩ずつ歩いていきたいと思う。
迷いの無い瞳で真っ直ぐに宙を見つめる。
彼は黙ったままベンチから立ち上がりあたしの頭にポンと手を置くと、クシャ…と髪をかき混ぜてクスッと笑った。
「ちゃんと告白しろよ?そうしないと不完全燃焼して綺麗な思い出にも出来なくなるからな。諦めろとは言わないが…これだけ年齢差があると色々苦しいと思うぞ。覚悟してぶつかれよ」
最初からあたしが言う言葉をわかっていたかのように宙はそれだけ言うと、じゃあなと言って公園の出口へと歩いていった。
…まあ、あいつなら大丈夫かもしれないけどな。
最後に彼が呟いた言葉が胸に温かく染みていった。
ごめんね 宙…。ありがとう
秋の夕暮れは訪れが早い。
宙が公園を出て行ってどのくらいそこに立ち尽くしていたかは記憶が無い。
ふと、気がつくといつの間にか太陽が大きく朱色に滲んであたりの景色全てを紅く染め始めていた。
金にも赤にも見えるその夕日に照らされた光景に懐かしい記憶が蘇る。
あたしは、さっきまで宙の座っていたベンチに崩れるように座り込んだ。
身体から一気に力が抜けていくような脱力感があった。
泣き続けていた事と、宙にきちんと自分の気持ちを告げる事は自分で思っていた以上に体力を使っていたみたい。
急激に疲れと睡魔が襲ってくるのを自分の意志でとめることが出来ないくらいにあたしは疲れていた。
こんな公園のベンチで眠り込む訳にはいかないと頭ではわかっているのに、瞼がどんどん重くなっていく。
眠りに引き込まれる最後の瞬間に見た蜂蜜色の空の色が心に焼きつく。
ぼんやりとその輪郭を滲ませた大きな秋の夕日が世界を蜂蜜色に染め上げる。
その風景の中に切ない初恋の記憶を抱きしめて、あたしは夢の中へと落ちていった。
夕日を背にして立っていたオッドアイに黄金の髪…。
悲しげな瞳をするその人にあたしは惹かれて、癒してあげたいと思った。
あの人に出逢わなかったら、あたしはお菓子を作ろうとは思わなかったかもしれない。
あたしがパティシェになろうと思ったきっかけをくれた初恋の人。
あの人は今どうしているんだろう。
いつかまた…会えるときが来るのかしら。
〜〜*〜〜*〜〜*〜〜*〜〜*〜〜*〜〜
やっぱりダメだ。
千茉莉に何度電話してもマナーモードになっていて繋がらない。
最初にドキドキしながら電話をかけてからすでに3時間余り。
清水の舞台から飛び降りるというのはああいう気持ちだろうか。
震える指でようやく千茉莉の携帯に電話をかけたのに、1回目は話し中だった。
診療の合間をぬってその後も何度かかけてみたが、ずっとマナーモードになったままだ。
なかなか繋がらない事にイライラし始めた俺は、ちょうど診療も一区切りついた為気持ちを落ちつけるために散歩に出た。
あの日と同じ色の夕日が町を蜂蜜色に染めている。
懐かしい思い出を引き出すように世界を朱に染め光が見るものを黄金に変える。
その光の中に見つけた小さな天使の面影が、徐々に真っ白な羽を広げた千茉莉のイメージへと変わっていった。
あの日俺のもとに遣わされたエンジェル。
千茉莉はあれからどうしているんだろう。
あの夜彼女を玄関まで送った時に、また会う約束をしなかった事を後悔した。
千茉莉にとって俺はどんな存在なんだろうか。
亜希は俺達が想い合っていると言っていた。
…千茉莉も俺と同じ気持ちでいてくれるんだろうか。
千茉莉と始めて会った日の思い出を振り返りながら歩き続けていたせいだろうか、足は自然にあの公園へと向いていた。
それは神様が天使に引き合わせてくれる為の粋な計らいだったのかもしれない。
空を朱に染め滲んでいる夕日はいつの間にかその姿を西の彼方へと沈みゆこうとしていた。
秋の夕暮れは早く徐々に空は朱から紫色に染まり始めている。
名残惜しげな金色の筋を木々の間から煌かせてゆく夕日を美しいと感じ、惹かれるように光の溢れる方向へと歩き出した時、その人影は目に飛び込んできた。
決して見間違える筈の無い少女。
太陽が沈む刹那、最後の煌きの中で蜂蜜色の光につつまれて眠るエンジェル。
夢かと思った。
これが運命でなかったら何だというんだろう。
心が確信を深めていく。
やっぱり千茉莉は神が俺を救う為に遣わしてくれたのだと…。
+++ 11月 5日 第3話へ続く +++
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