黄金の髪。漆黒とグレーの瞳のオッドアイ。
スラリと長身の男の人が夕日の向うを見つめるように立っている。
とても悲しい瞳のその人にあたしは何かをしてあげたいと思った…。
あたしを振り返ったその人は何か言ったけれど、夢の中の彼は唇だけが動いて言葉は聞き取れない。
顔を見せて欲しいのに、その表情は逆光で見ることが出来なくて…。
綺麗な瞳だけがあたしの心に焼き付いた。
あなたは誰?
何故そんなに悲しそうな顔をしていたの?
――千茉莉…
柔らかなテノールが耳に心地良い。
フワリと抱きしめられる感覚に、心からの安堵とぬくもりを感じる。
あたしを優しく抱きしめてくれる心地良い温かさ。
意識が少しずつハッキリしてくる。
ゆっくりと瞳を開けると目の前には夢の中で見たグレーの瞳があった。
「おにいさん…やっと会えた…」
あたしはフワリとその人の腕の中に飛び込んだ。
どうしてそんなことをしたのかわからない。
多分寝ぼけていて夢と現実がわからなくなっていたからだと思う。
「――っ!千茉莉?おい寝ぼけているのか?しっかりしろよ」
聞き覚えのある声にふと我に返る。
寝ぼけてた?
あれ?
この声って…
ハッとして顔を上げると響先生が複雑な顔をしてあたしを見下ろしていた。
どうして先生がこんな所にいるんだろう?
「おい、こんな所で寝てるんじゃないぞ。何やってるんだよ」
その声にようやく自分が眠り込んでしまった事を思い出す。
「あ…響先生?どうしてここにいるの?」
「どうしてって俺が聞きたいよ。何でこんな寒いのにベンチでなんか寝てるんだよ」
「あ…えっと、何だか疲れちゃって…」
「いくら疲れてたってこんな季節にこんな場所で寝ていたら風邪をひくだろう?」
「うん…ごめんなさい」
先生はあたしの頬に手を添えて『冷たいな』と眉を潜めて言うと、すぐに戻るから待っていろと言い捨てて何処かへ走っていってしまった。
待ってろと言われたら勝手に帰るわけにもいかず、残されたあたしはぼんやりとさっきまでの出来事と夢を思い出していた。
悲しげな表情(かお)それでもあたしにがんばれって言ってくれた宙。
ちゃんと告白しないと不完全燃焼して忘れる事も出来なくなると言ったあの言葉はあたしの胸を抉った。
そうだね、ちゃんと自分の気持ちにケリをつけなくちゃいつまでも引きずってしまう。
そんなのはイヤだ。
宙も初恋の人もあたしに進むべき道を示してくれた。
あたしは目の前にある道から逃げるわけにはいかないのよ。
そう、それがどんなに辛い現実でも…。
秋の夕暮れの冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
ゆっくりと息を吐いて、身体の中に溜まったもやもやした想いを吐き出してみると、冷たい大気に息が白く染まった。
いつの間にか季節はすっかり秋が深くなったのだと改めて感じる。
冷たい新鮮な空気が身体の中まで浸透して少し心が軽くなったように感じて何度も深呼吸を繰り返した。
響先生の治療を初めて受けた衝撃の出会いから1ヶ月。
それなのにもう随分と時間が経ってしまったように感じる。
響先生が戻って来たら勇気を出して言おう。
たとえあなたに恋愛対象としてみてもらえなくてもいい。
あなたを好きな気持ちは止められないから…。
一度だけ告白する事を許して下さい。
響先生…あなたが好きです…
千茉莉に触れたときの頬の冷たさに驚いた。
とにかく早く温めてやらなければと思い自動販売機で温かい飲物を買って千茉莉のところに急いで戻る。
ベンチに座り胸の前で指を組む彼女の姿は何かに祈りを捧げているようにも見える。
どこか神々しくて、とても不安定で、今にも消えてしまいそうな儚さがあった。
今すぐにその風景の中に溶け込んで消えてしまいそうで…
二度と俺の手の届かない所へ行ってしまう気がして…
不安を打ち消すようにわざと明るく声をかけた。
「千茉莉。待たせたな。ほら、これで少しは暖まるだろう?」
少し驚いたように笑って差し出したミルクティーの缶を両手で受け取り、頬に当てると
「あったかい」とフワリと微笑んだ。
「こんな所で眠り込むなんて危ないだろ?何を考えてるんだよ」
俺の言葉に千茉莉は視線を逸らして顔を伏せる。泣いていたのか目が充血して腫れていた。
何かあったんだろうか。
心身ともに疲れ果ててベンチでそのまま眠ってしまうほど彼女を追い詰める何かが…。
千茉莉に想いを告げようと思っていた俺だけど、こんな不安定な精神状態を見ていると告白なんてとんでもない気がする。
「あ〜あ、こんなに冷えちまって、バカだな。来いよ。あっためてやる」
そう言って千茉莉の肩を抱き寄せると俺のジャケットの中にすっぽりと包み込んで腕の中に閉じ込めた。
引寄せた時に冷たく凍えた指の感触が触れた腕から服を通してもはっきりと分かり胸が高鳴る。
千茉莉にこの鼓動が聞こえてしまわないように、必死に言葉を繋いで胸の音をごまかした。
「おまえ、凍えきってるじゃねぇか。…ったく俺の腕の中で暖を取るなんて誰でもできることじゃねぇんだ。ありがたく思えよ?」
「ん…ありがとう。すごくあったかいよ」
いつものように『何うぬぼれてるのよ』と、突っかかってくると思っていたのに、千茉莉が余りにも素直だった為、やはりこれはただ事じゃないと思った。
よほど辛い事でもあったんだろうか。
「どうしたんだ?何があったのか話してみろよ。…泣いてたんだろう?」
慌てて顔を逸らしてももう遅いって。
頬に手を沿え無理やりこちらを向かせるとオデコをつき合わせて至近距離で千茉莉を見つめる。
千茉莉の瞳が揺らぐのがわかった。
俺に隠しきれないと諦めたように溜息を一つ吐き出し静かに語りだす。
「宙と会ったの。ちゃんと自分の気持ちを話さなくちゃいけないと思って…。でも宙はあたしが何も言わなくてもわかってくれていて、あたしのほうが逆に励まされちゃった」
苦笑しながらも涙が再び溢れて頬を濡らしている。一度緩んだ涙腺はなかなか元には戻らないようだ。
「宙のバカ…なんであんなに優しいのよ」
宥めるように抱きしめて背中を擦ってやると、小さく震えて声を殺している。
「胸に溜めると苦しくなるぞ。声を出して泣けよ。ちゃんと自分の気持ちを話して吹っ切ったんだろう?」
「…っく…ひっく…うん、ちゃんと…っ…話したよ」
「…そっか、良かったな。少しは気持ちが軽くなったか?」
その問いには答えずただ涙を流し続ける千茉莉。
俺にはどうしてやる事も出来ず、震える肩をだた抱きしめているしかなかった。
「泣くなよ…おまえが泣くと俺も悲しくなるよ」
千茉莉の涙が胸を切なくする。
彼女を支えてやりたい
心からの気持ちだった。
千茉莉はどの位俺の腕の中で泣いていただろう。
震えていた身体が落ち着きを取り戻し、少し疲れたのか俺にもたれかかっている。
千茉莉が俺を自然に受け入れているのを感じ、この時間がいつまでも続けばいいと思った。
千茉莉が愛しくて、離したくなくて…。
このまま時が止まればいいのになんて、まるで子どものような事を思っている自分に苦笑してしまう。
腕の中でいつまでも紅茶を弄んでいる千茉莉に気付き冷める前に飲むように促がした。
抱きしめて温めてやってはいるものの、芯まで冷えてしまった身体は中から飲物で温めたほうが効率が良い。
千茉莉は黙って頷き紅茶の缶を開けると両手で持って口をつけた。
コクン…。
小さく飲み込む音がしてその液体が滑り落ちていく喉の動きを見つめてドキリとする。
妙に艶かしく動く細い喉。その唇は蜜を湛えた花のように艶やかに光って俺を誘うように動いた。
泣いたせいでまだ赤い瞳は潤んで星を散らしたように光っている。
鼓動が早くなる。
想いが苦しいほどに溢れてくる。
おまえは俺をどう思っているんだろう。
「千茉莉…俺さ…」
「響先生は紅茶が好きなのね」
「え?」
気持ちを確かめようとした矢先に出鼻を挫かれた思ってもみない質問だった。
「だって、先生はいつもコーヒーじゃなく紅茶でしょ?あのホテルで会った時も聖良さんの所でも…今だって迷わず紅茶を選んでる」
千茉莉に言われて無意識に紅茶を選んで渡した事に気付く。
「千茉莉は紅茶が苦手か?」
「ううん好きよ。…ただ先生の場合は紅茶が好きって言うだけじゃない気がしたの。ごめんなさい変なこと言って」
思わず絶句した。
千茉莉は人の心に敏感な娘だって杏ちゃんが言っていたのを思い出す。
凄いな…。
確かに今までも千茉莉のカンの良さというか、人の心の傷を敏感に察知できるというか、そんなものをいろんな事から感じていたけど、まさかここまでとは思わなかった。
これも人を救う才能の一つってことなのかもしれないな。
千茉莉にフッと笑って見せると頭をなでるように髪に触れた。
そのまま髪を梳く様に何度も手を滑らせる。
「大したものだな。千茉莉は本当に人を救う才能があるんだろうな」
きょとんとしている千茉莉に俺は胸の奥深くに眠っている記憶を呼び起こし語り始めた。
「紅茶は母親の記憶なんだ」
「お母さんの?」
「俺の母親はイギリス人なんだ。小さい頃は死んだと聞かされていた。中学に入った頃だったかな、母親が本当は生きているって知ったのは。どんな理由で母親と別れる事になったのかは親父は話してくれないけど…母親は今でもどこかで生きていると思う」
「一度も会った事は無いの?」
「記憶に無い。…だけど、ずっと古い記憶にある面影は窓辺で香りの良い紅茶を入れる母親らしい女性なんだ。母親の顔なんて知らない。写真すら見たことも無いのに何故かあの紅茶の香りだけははっきりと覚えていて…。紅茶の香りをかぐと心が安らぐんだ。俺の中の何かがあの頃を覚えていて無意識に求めているのかもしれないな」
「お母さんに会いたいと思う?」
「いや、別に会いたいとは思わないけど…どうして親父と別れたのか知りたいって言うのはある。
親父があの医院をあの場所でってこだわっているのは母親の為なんだよ」
「お父さんは今もお母さんを愛しているのね」
「別れてからもあそこまで想えるのなら、何で別れたりしたんだろうと思うよ。でも親父は絶対に教えてくれないんだ。何か理由があるんだろうけどさ」
「あの場所にこだわる理由って…。もしかして待っているの?」
「ああ、親父はお袋がいつか帰ってくると信じて待っている。裏切られたと認めたくないんだろうな。俺が4歳のときに出て行ったらしいからもう25年も待ち続けているわけだろう?バカだよな」
「そんなこと無い…響先生のお父さんは素敵です。きっとお母さんをとても愛しているのよ。好きで好きで、諦めたくても諦められなくて、忘れられたら楽になるのにどうしても捨てきれない想いがあるんだと思う」
千茉莉が涙を溜めて潤んだ瞳でそう言うのを聞いて胸が痛くなった。
まるで千茉莉自信が苦しい恋をしているようで…
一人で悲しみに耐えているようで…
『おにいさん、やっと会えた』
さっきの言葉を思い出す。
千茉莉には誰か心に住んでいる男がいるんだろうか?
「まるで自分の気持ちを告げているみたいだな。千茉莉も誰か想う奴がいるのか?」
一瞬瞳が揺らいだのがわかった。
確信した。
千茉莉には好きな奴がいる。
嫉妬で心が掻きむしられるようだった。
「それって…さっきのおにいさんとか言う奴か?」
俺の声は動揺していたかもしれない。
だけど聞かずにはいられなかった。
一瞬何を言われているのかわからないと言った表情をしたが、すぐに何か思い当たったようだ。
静かに思い出を語るように話し出した彼女は、まるで俺の知らない初めて逢った女のように見えた。
俺の天使はやはり手に入らない遠い存在なんだろうか。
「響先生のグレーの瞳…あたしの初恋の人とよく似てる」
ポツリと小さく呟いた言葉だったが大きな衝撃となって胸に突き刺さった。
初恋の人?
千茉莉だって年頃なんだし初恋の相手ぐらいいてもおかしくないじゃないか。
何を動揺しているんだよ俺は。
ちょっと待て?初恋の人がグレーの瞳ってどう言う事だ?
こんな瞳の色をした奴がそんなにいるとは思えないんだが…コンタクトだろうか。
千茉莉はどんな奴が好きなんだろう。
考え込んでいる俺の眉間に突然千茉莉が手を伸ばして触れてきた。どうも眉間に皺を寄せていたらしい。
皺を伸ばすようにナデナデと眉間を撫でてくる仕草はまるで猫を構っているようだ。
「先生どうしたの?怖い顔してるよ」
おまえが初恋の話をするからだろう?…なんて、言える訳ないじゃないか。
「いや…グレーの瞳って言ったから珍しいなと思って。そいつもコンタクトだったのかな」
「ん〜〜それはわかんない。あたしも小さかったし」
「なんだ、ガキの頃の話か?」
「ん…ちょうどね今くらいの季節だったかな?もっと寒い頃だったかかもしれない。今日みたいな夕日綺麗な日でね…。
その人は綺麗な金髪で、響先生みたいなグレーの左目と漆黒の右目のオッドアイをしていたの。 初めて見た瞳の色がとても綺麗で…その人の流していた悲しげな涙がすごく印象に残ったの。
あの時、人を癒してあげたいって初めて思った。だからパパみたいな、人を幸せな気持ちに出来るお菓子を作ろうって思ったの。
あたしにお菓子の道へ進むことを気付かせてくれた初恋の人だから…いつかまた会えたら良いなってずっと思っているの」
「それでさっき寝ぼけて俺をその人と勘違いしたのか?」
「あ、うん…ちょっと夢を見ていたから」
「ふ〜ん。じゃあおまえはその人に再会したらいきなり抱きつくのか?」
「そっ…そんなことしないわよ」
「さっきはしたじゃないか」
「うぅ…それは寝ぼけていたから…」
「じゃあ、あのまま黙っていたら寝ぼけてキスでもしていたんじゃないか?」
「そんなことしないわよ。何言ってんのよ、このヘンタイ!」
「ヘンタイじゃねぇ。心配してやってんだろうが」
「そんなの心配でも何でもないでしょう?意地悪言ってるだけじゃない。ああっ、もう!せっかく素敵な思い出を話してあげたのにヒドイわ」
千茉莉はそう言うと俺を上目づかいで睨んだ。
うわ…カワイイ。
「…イジワル」
……誘ってんのかよ。
こいつ、本当は天使じゃなくて悪魔なんだろうか。
もちろん悪意があるわけでも誘っているわけでもないだろう。
だが、千茉莉への気持ちを認識してしまった俺にとってこの表情でこの台詞は、すげえツボにクルものがあるんだけど。
このまま千茉莉をずっと腕に抱いて温めていたいけど、鼓動のほうがどんどん尋常じゃない速さで動き出している。
いい加減に離れないと千茉莉にこの音が聞こえてしまいそうだ。
いや、その前に俺が心臓発作を起す可能性のほうが高いような気もする。
今日は心臓にかなり負担のかかる日のようだ。
さっきの千茉莉の告白を聞いて心臓が止まりそうになった。
こんな事ってあるんだろうか。
千茉莉の初恋のオッドアイの男。
こんな偶然は思いもしなかった。
たぶん俺はそいつを知っていると思う。
確信があるわけではない。
だが、おそらく間違いないだろう。
この偶然を千茉莉に話すべきなんだろうか。
腕の中でもたれるように俺に身体を預ける千茉莉が愛しい。
このまま想いを告げて誰にも渡したくない気持ちをグッと抑える。
千茉莉が気付かない程度に力を入れると複雑な気持ちで抱きしめた。
抱き寄せた千茉莉の髪に頬を寄せて瞳を閉じる。
これを知ったら千茉莉は何と言うだろう。
ドキドキと五月蝿い鼓動を感じながら心を落ち着かせるために小さく深呼吸をすると、心を決めて静かに千茉莉に聞いた。
「千茉莉…その初恋の人に会いたいか?」
「うん、会いたい」
「そうか…じゃあ会わせてやるよ」
「…え?」
「たぶん千茉莉の初恋の相手って言うのは俺が良く知っている奴だ」
+++ 11月 5日 第4話へ続く +++
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