「たぶん千茉莉の初恋の相手って言うのは俺が良く知っている奴だ」
響先生の言っている事が良くわからなかった。
響先生はあたしを自分のマンションに連れて行くと最後の患者の診療を済ませてくるといって部屋を出た。
帰ってから会わせてやるからここで待っているようにとあたしに言い残して。
先生があのおにいさんを知っている…?
二人の接点はわからないけれど、あたしの話を聞いて響先生がかなり驚いていた。
「冗談でしょう?あたしをからかっているの?」
明らかに疑いの眼差しで問うあたしに、響先生は複雑な顔をして嘘じゃないと言った。
「人違いって事はあるかもしれないけど…でも、そのオッドアイが本物なら俺はそいつを知っている。そうどこにでもある瞳じゃないし…たぶん間違い無いと思う。」
すぐには信じられなかった。
あの人に会える…。
本当だろうか。
響先生が帰ってきたら本当は冗談だったって言われるんじゃないかと不安を感じてしまう。
でも…
もしも本当にあの人に会えたら…
どうしても伝えたい言葉がある。
あたしに進むべき道を示してくれたあの人に
どうしてもお礼を言いたい。
先生が仕事に戻ってやがて2時間。
そろそろ帰ってくる頃だと思う。
あたしはドキドキしながらとりあえず先生に勧められた雑誌やDVDから好みのものを引っ張り出して時間を潰していた。
初めて訪れた男の人の部屋でくつろげる筈も無く、これからの事にドキドキしながら時間がゆっくり過ぎていくのをもどかしい気持ちで待ち続けた。
目の前で流れるDVDの画像も手にした雑誌も実は何も視界に入っていなかったりする。
そんなとき玄関のチャイムが鳴った。
先生が帰ってきた。
あの人をいっしょに連れて来たんだろうか
逸る気持ちを抑えて玄関の鍵を外した。
ガチャッ…
ドアを開けそこに立っていた人を見て相手を確認しなかったことを後悔した。
そこにいたのは響先生でも、初恋の人でもなかった。
「あなた…あの時の娘ね。響の部屋で何をしているのよ。」
「…あなたは…真由美さん…どうしてここに?」
響先生の婚約者だと名乗って、あの時先生を追い詰めた女性(ひと)だ。
ヒステリー気味の声に殴られた記憶が蘇ってくる。
また同じような事が無いとは限らないと警戒したあたしは、少し距離をおいて話すことに決めた
いつでもドアを閉めて彼女を締め出せる位置に立ち無言で威圧し立ち入る事を拒否する。
絶対に先生を護らなくちゃと思った。
彼女が部屋に踏み込む事は先生の心をまた傷つけられるような気がして、
どんな事があっても先生の部屋へ入れる訳にはいかないと思った。
「響はどこ?一緒に食事に行く約束をしていたのよ。どうしたあなたみたいな娘が響の部屋にいるの?」
「あたしみたいな娘ってどういう意味ですか?すごく失礼な言い方ですよね。あたしは先生にここで待つように言われたんです」
「あなた帰りなさいよ。今後の彼の将来を左右する可能性すらあるんですもの、あたしとの約束は何を置いても最優先されるべきなの。クリニックを存続させたいと彼のお父様が願っている限り彼に拒否権は無いのよ」
そう言うと真由美さんは勝ち誇ったようにクスクスと笑って見せた。
だけどあたしは、その笑みが何故かとても苦しいものに見えた。
「真由美さん…あなたはお父さんの財力を使って響先生を縛ろうとしてる。でもそれじゃあ響先生はあなたを決して愛してはくれないわ。どうして自分自身を見てもらおうとしないの?どうして力で先生をねじ伏せようとするの?」
「なっ…なんですって?」
「先生の気持ちはあなたに無いのに。あなたのしている事は響先生を傷つけているだけなのに…どうしてわからないの?」
「あなた、響とどういう関係なの?ああ、もしかして援助交際ってやつかしら。若いからって身体を使っているんでしょう?そうでなければ響があなたみたいな娘を相手にするはずが無いもの」
彼女のその言葉に目の前が赤く染まるような負の感情が生まれてくる。
身体を使っている?
援助交際ですって?
「身体目当てに決まっているじゃない。あなたみたいな子ども本気になっても無駄よ。彼はいずれあたしと結婚するんだから」
あたしの中で何かがキレた。物凄い怒りのエネルギーが押し寄せてくる。
絶対に許せない。先生を傷つけて、侮辱するこの女性を…。
絶対に先生をこの女性から護ってみせるわ。
「あたし達はそんなんじゃない。先生をそんな目で見ているなんて…先生を侮辱するにも程があるわ。絶対に許せない!あなたは先生に相応しくありません」
あたしの言葉に真由美さんは一瞬言葉を失い顔色を変えた。
「先生はあなたとなんて結婚しないわ。先生はあなたと食事に行くなんて一言も言っていなかった。それに、あなたと婚約もしていない。あなたの言っている事は嘘と先生を侮辱する言葉ばかり。」
あたしは怒りを込めて彼女を睨みつけた。
人差し指に全身の怒りを集中するように振り下ろし、ビッと彼女を真っ直ぐに指差すと怒りを込めた言葉を投げつける。
凛とした声がマンションの通路に響き渡った。
「響先生に近寄らないで!あなたが響先生を傷つけるならあたしは全力で護ってみせる。彼をこれ以上傷つけて追い詰めるのはやめて!二度と彼に近付かないで!あなたは彼に相応しくなんか無い。お金がどれだけあったって、彼を本気で愛していないあなたになんか響先生と結婚する資格なんてありません。」
怒りで青ざめワナワナと震えている真由美さんを、激しく睨みつける。
それが響先生の心であるかのように、全身から彼女を拒絶するオーラが滲み出てくるのが解った。
「何言ってるのよ。何の力もないくせに。あんたを潰す事なんてあたしが本気になれば簡単にできるのよ」
「それはあなたの力ではなくお父さんの力だって、この間も響先生が言っていたと思いますけれど?」
「くっ…あなた生意気なのよ。まだ子どものくせに何がわかるって言うのよ。」
「少なくとも、あなたよりは響先生の心が解ります。帰って!先生をそっとしておいて下さい」
その瞬間、彼女があの時と同じように右手を振り上げた。
突然頬を打たれた記憶が蘇る。
でも、今度は目を閉じたりせずに彼女を睨みつけていた。
彼女の手が振り下ろされるのが、スローモーションのように見える。
その手をスッとかわすと、右手で弧を描くように弓なりにしならせた。
パン!
振り切った右手に衝撃が伝わり熱くなる。
真由美さんは驚いたように頬を押さえて呆然としていた。
「なっ…何するのよ!」
「あなたが以前あたしにした事、そして今もしようとした事をそのまま返しただけです。」
「信じられない。あたしを叩くなんて…親でさえ手をあげたことが無いのに」
「じゃあ、良かったのよ。痛みを知ることが出来て。」
真由美さんはあたしの言葉に眉を潜めてわけがわからないと言った顔をした
「あなたはこの間あたしを殴りましたよね。今日もまた同じ事をしようとした。そのあなたが痛みを知らないなんて…。それは決して許されません。
叩かれたら痛い事くらい子どもでも知っている事です。でもあなたはそれを知る事もなく甘やかされて育った。自分が知らない痛みを人に与えているのだとしたら…あなたは子ども以下ですよ。」
真由美さんがハッと息を呑むのが分かった。
「叩かれた痛みも、心を傷つけられた痛みも理解しようとしなければ決してわかりません。人を…響先生を思いやる気持ちが無ければ、あなたは一生彼の気持ちを理解する事も、先生の心の痛みを自分の事のように感じる事も出来ません。真由美さん、あなたは痛みを知る必要がありますよ、あなたが誰かを愛する為にも、誰かに愛される為にも…。」
「あたしは…。」
真由美さんの瞳が揺らいだ。少しはあたしの言いたい事を理解してくれたらしい。
「お帰り下さい。叩いた事はお詫びします。でもそれが間違いだったとは思いません。
むしろあなたには必要な事だったと思っています。」
真由美さんはあたしの言葉に唇を噛締めると力なくうな垂れて、フラフラとマンションのエレベーターへと向かって歩き始めた。
危なげな足取りを心配してその姿がエレベーターに吸い込まれるまで見送った。
エレベーターが階下へと下りていくのを点滅するランプで確認した時、ホッとしたと同時に急激に力が抜けてドアに寄りかかるようにして倒れこむ。
怒りがその緊張や恐怖を忘れさせていた事を、身体が思い出したらしい。
全身が細かく震えだし立ち上がる力も入らない。
震えを押さえようと必死に自分を抱きしめその場に座り込んだ。
「千茉莉…大丈夫か?」
響先生の優しい声が聞こえた。開け放たれたままのドアに寄りかかって動けないでいるあたしを見て驚いたと思うのに、何も聞かずにあたしをフワリと抱きしめてくれる。
顔を上げようとした瞬間に、抱すくめられてしまったから、先生がどんな表情(かお)をしているかわからない。
だけど、きっとすごく驚いて心配しているんだと思う。
迷惑かけちゃったな。真由美さんにした事をどう説明したら良いんだろう。
どう切り出そうか言葉を探していたときだった。
「ありがとう…千茉莉。おまえはいつも俺を救ってくれる。」
「響…センセ?」
「ごめん…聞いてた。どこで出て行くべきか様子を見ていたんだ。俺の為にあんなに真剣になってくれてありがとうな」
先生の声が耳元で優しく心地良く響いた。
表情をは分からないけれど、抱きしめる腕が僅かに震えているような気がした。
それがあたしの震えだったのか…
それとも響先生のものだったのか…
それすら判らないほどに互いを近く感じる。
抱きしめる腕が温かくて、震えていた身体も徐々に落ちつきを取り戻していった。
心が満たされていく。
響先生が好き…
胸の奥底から熱い想いが込み上げてきて…
触れている場所から伝わってしまいそうだった。
もう隠し切れない。
さっきの出来事を見ていたのなら先生はあたしの気持ちに気付いてしまったと思う。
もう…告げてしまおう。
後悔しないためにもきちんと自分の気持ちを伝えるのよ。
そして振られてスッキリしてしまえばいい。
いつまでもこの中途半端な想いを引きずっていくのはもう嫌だ。
先生のシャツをギュッと握り締めて心を決めた。
「先生…あたし…。」
「千茉莉…俺を見て?」
想いを告白しようとしたその時、先生と言葉が重なった。
強く抱きしめられていた腕が緩み、引寄せられていた身体が僅かに離れる。
それでも優しく抱きとめてくれる腕は、ゆったりとあたしに回されたままだ。
まるであたしを離さないと言ってくれている気がして、その優しさが嬉しかった。
恋心に気付かれてしまったと思うと恥ずかしくて顔を上げられない。
俯いたままのあたしに先生はもう一度同じ事を言った。
「千茉莉…顔を上げて俺をちゃんと見て?」
心臓がドキドキする。
何を言われるんだろう。
『響があなたみたいな娘を相手にするはずが無いもの』
あの言葉が胸に痛かった。
響先生はあたしをどう思っているんだろう。
遊びで人と付き合うような人じゃない。
あたしの気持ちが迷惑なら迷惑とハッキリと言ってくれるはずよね。
ギュッと目を瞑ってグイと顎を引き上げて顔を上げる。
心臓が早鐘を打って耳元で五月蝿いくらいに脈打っている。
「千茉莉…」
優しい声に思考が停止したあたしに抵抗する術なんてもう残っていない。
深呼吸を一つして、恐る恐るゆっくりと目を開けると、柔らかく優しい表情で微笑む響先生の綺麗な顔がすぐ目の前にあった。
瞳が絡んで目を逸らせなくなる。
「響…センセ…?」
響先生が冷たい冬の空のようなとても綺麗なグレーの瞳であたしを見つめる。
その右目は星空を映した漆黒の闇だった。
「う…そ…」
響先生がオッドアイ…?
「どう…して?響先生が…あの人なの?」
響先生は静かに頷いた。
先生が…あたしの初恋の人…
あたしはこの間の夢の続きを見ているのかしら。
+++ 11月 5日 第5話へ続く +++
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